西成あいりん地区 売春。 あいりん地区は日本一治安が悪い危険な街?ドヤ街の詳細は?潜入も?

大阪西成区あいりん地区出身者の芸能人や有名人を紹介!

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その中心にある三角公園から北東方向を撮影したのが『ルポ西成 七十八日間ドヤ街生活』の表紙写真だ。 右奥にひときわ高くそびえているのが地上300メートル、日本一の高さを誇るビル「あべのハルカス」。 左側に壁のように見えるが大阪市立大学医学部附属病院、そのすぐ向こう側は大阪市立天王寺動物園である。 土地勘のない人にもわかってもらえるだろう。 あいりん地区は多くの市民が憩う場所から目と鼻の先にある街だ。 しかし、大阪市民の多くは、その名を知っていても、足を踏み入れたことはないはずだ。 わたしもその一人である。 この本を読めばわかる、ここは大阪の魔境なのだ。 段ボール村から西成へ 東京でいえば山谷にあたるのだろうか。 しかし、筑波大学を7年かけて卒業し、就職しそこねたライター志望の國友クンは、東京からわざわざ西成へ取材に遣わされたのだ。 このような場所はもう西成にしか残っていないのかもしれない。 ちなみに、駆け出しライターの國友クン、卒論が段ボール村であったことからの大抜擢 ? である。 取材予定は1カ月。 まずは一泊1200円の簡易宿泊所に滞在しての足慣らしから始まった。 あいりんセンターというハローワークに出向く間にも、街をあるけば「君さ、福島へ行ってみない」と誘われたり、「仕事ができへん奴はすぐに殺される」という噂のA建設からスカウトをうけたりする。 さすが、聞きしにまさる場所である。 そんな情報収集だけではダメだ。 いいルポにするには、やはり飯場生活を経験しないとお話にならない。 この界隈では大手だが、どうにもヤクザのにおいが濃厚に漂う会社である。 日雇い労働と俗にいうが、1日限りの現金型と、何日間か続ける契約型があるそうだ。 契約型の場合は、まとまった日数を飯場に住み込んでの建築現場での労働である。 國友クンはちょっと迷ったけれど、10日間の飯場生活に挑戦する。 仕事はビルの解体。 そこは、厳然たるヒエラルキーが存在する、命懸けの職場だった。 何も資格がない新参者の國友クンはもちろん最下層の土工だ。 ビル解体の廃材が、大きなトン袋につめられて、上からどんどん落とされてくる。 そのトン袋のヒモをほどいてユンボ ショベルカー にひっかけるのが最初の仕事だった。 聞き慣れない言葉だが、トン袋の正式名称はフレキシブルコンテナバッグといい、通称が示すように1トン程度の重量物を充填できる袋である。 重機に背を向けたら命を落とす可能性がある職場 ガラスの破片がばんばん降り注いできてヘルメットにあたる。 重機に背を向けたら命を落とす可能性があるから注意しろといわれる。 じつに危険な職場だ。 それどころではない、京都の建設会社で実際にあったという恐ろしい話が紹介されている。 國友クンと同じようにトン袋の持ち手をしていた人がいた。 ユンボの手元が狂って、先っちょがクビにひっかかり、生首がとんだというのである。 さすがに運転手は青ざめて遁走。 もっと怖いのは、その運転手は業務上過失致死に問われることもなく、一週間ほどして何事もなかったかのように職場に復帰し、事件は闇に葬り去られたことだ。 真偽のほどは定かでないが、人間がモノのように扱われていると実感している人たちの間で語り継がれている話がこれだ。 給与は1日1万円。 飯場は居室と三食付きで、必要経費として3000円が天引きされるから、正味で7000円。 そこで働く男たちのほとんどは、そうして稼いだ金を、酒、ギャンブル、そしてクスリに使ってしまう。 國友クンは飯場生活を10日間で終え、その足で飛田新地へいった。 しかし、そんなことまで書かなくてもええんとちゃうん。 安宿を意味するドヤという言葉は、宿を逆から読んだものであるという。 そんな安宿が数多く並んでいるのがドヤ街で、西成の安いところは一泊500円からある。 國友クンが宿にした『ホテル南海』は、なんでも、かつてリンゼイ・アン・ホーカーさん殺しで逃走生活をしていた市橋達也も逗留していたことがあるホテルらしい。 その宿泊費、一泊1200円は四つ星クラス。 「ドヤ街」は、特別な場合以外使わないほうがよいBランクの放送禁止用語で、ドヤは簡易宿泊所と言い換えることが望ましいとされている。 「飯場 はんば 」も、わたしが使っているソフトでは変換されない。 正しくは作業員宿舎で、文脈によっては使わない方がよいCランクの禁止用語になっている。 しかし、どうにも簡易宿泊所街や作業員宿舎では感じがでないので、ドヤ街と飯場を使わせてもらう。 西成のヒットマン ある日、國友クンはヒットマンにスカウトされる。 ヒットマンといっても人殺しではない。 西成のヒットマンは、生活に困っていそうな人に声をかけ、生活保護を申請させ、お小遣いなどを与えながら、認可されるまで面倒をみる仕事、生保ビジネスのスカウトおよびお世話役だ。 かつては労働争議からの暴動もあったあいりん地区だけれど、いまは高齢化が進んでいる。 生保ビジネスも盛んで、生活保護者囲い込みを専門とする福祉専門ドヤまである。 そのひとつ「ママリンゴ」は、かつてシャブの売人とフロントがグルになってのシャブ密売所だった。 今は経営者が変わってクリーンになった。 というが、普通、福祉専門ドヤをクリーンとはいわない。 國友クンの聞き手能力は高い。 小学生時代の放火にはじまり数々の犯罪をおこしてきた極悪人の坂本さんをはじめ、あいりん地区の住人たちから数多くのエピソードをひきだしている。 ちょっとここには書けないような信じられない話もたくさん紹介されている。 まさかそこまでとは思うが、國友クンの体感では、会った人の6割が覚醒剤経験者で4割が元ヤクザだという。 隠し事を続けるのは面倒なので正体を明かし、いずれ本にすることを伝えた相手から聞き出した話も多い。 予定を延長して78日間を西成ですごした國友クンの書きっぷりはなかなかフレッシュだ。 その最後の文章を紹介しておこう。 この街にいる人間を見下していると言えばそうかもしれないし、逆に私のような人間がこの街にいること自体、恐れ多いような気もするのだ。 はたして國友クン、できあがったこの本を持って、坂本さんたちに会うために西成のドヤ街を再訪したのだろうか。

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日本最大級の遊郭の建物が今も150軒以上残る「飛田新地」に行ってきました

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日本を代表するドヤ街、大阪の釜ヶ崎。 私は日本の三大ドヤ街、すなわち東京の山谷、横浜の寿町、大阪釜ヶ崎をすべて訪問したんですが、やはり釜ヶ崎の衝撃というものは特別なものがありました。 山谷や寿町も地区内に入り込んだ途端、他とは違う独特な雰囲気を感じたんですが、釜ヶ崎は別格なものでした。 これは言葉では言い表すことが難しいんで、実際に行かれてみることをお勧めします。 今回はそんな釜ヶ崎が歩んできた歴史を振り返っておこうと思います。 一般的には釜ヶ崎という名称よりも、行政が名付けたあいりん地区の方が一般的かも知れません。 釜ヶ崎という地名は大正時代まで実際にあった地名であり、地元の人は釜ヶ崎と呼んでいます。 実は釜ヶ崎にスラムができるまえ、長町 現在のでんでんタウンの辺り に大規模なスラムがありました。 というのも江戸時代、長町は宿場町として栄えていたのですが、同時に貧困層が多く寄り付く街でもありました。 飢えに苦しむ人も多く窃盗などの犯罪行為も蔓延っていたそうです。 そのため、そのような人たちを救済するための小屋が建てられることになりました。 長町で苦しむ貧困者や病人に加えて、他の町からもそうした人が住み着くようになりました。 こうして長町は貧困者などの浮浪者が行き着く街となり、スラムと化したのです。 最盛期の1800年代後半には2000もの木賃宿が存在し、およそ7000人もの人が暮らしていたんです。 これだけ多くの放浪者が住んでいた長町スラムですが、コレラが流行したり、衛生面での問題点が指摘されていました。 こうしたことから1987年には木賃宿が大阪市内で営業禁止になるなり、1903年に内国勧業博覧会が開催されることにがきっかけで、長町にあった木造宿は一掃され、スラムは消滅することになりました。 そして長町スラムにいた貧困層が行き着いた先、それが当時の今宮村の釜ヶ崎だったわけです。 釜ヶ崎ではスラム誕生から頻繁に暴動が起こっていました。 特に大規模なものは「西成暴動」や「釜ヶ崎暴動」と呼ばれ、1961年の第一次暴動から、2008年の第24次暴動まで、数えること24回にもわたって暴動が繰り返されていたのです。 まさか2000年代に平和で安全な国・日本で暴動が起こっていたとは誰も思っていないでしょう。 そして一部関西ローカルの番組を除いて、マスごみさんはこれを報じていませんでした。 暴力団や警察など日本の闇の部分が絡んでいるので、なかなか報道しづらい状況にあったのかも知れません。 24回も暴動が起こったていたわけですが、一貫していることは、暴動の原因は労働者たちの鬱憤がたまっていたということです。 ドヤ街 寄せ場 では、労働者たちが日雇いの仕事を探して、雇用されることになるのですが、その際に手配師 今でいう派遣会社みたいなイメージ がピンハネが行われていました。 さらにその手配師たちを束ねる暴力団にもピンハネをされていたわけですから、常に不満を抱えた状態で生活していたことが予想できます。 その不満は時として警察官にも向かいます。 例えば1990年の22次暴動では警察が暴力団から賄賂を受け取っていたことをきっかけに大規模な暴動に進展しました。 その様子は海外でも報じられるなど、ニシナリの名を世界に知らしめることになったのです。 むろん、賄賂を受け取っていた警察が悪いのですが、これをきっかけに暴動が発生するというのは日本でも釜ヶ崎だけではないでしょうか。 人々の余裕を奪っていきます。 ちょっとしたいざこざでも時として不満が爆発するのです。 この釜ヶ崎の歴史を振り返ることで、日本の闇の部分、そして貧困という永遠に無くなることのない社会問題を少しでも考えるきっかけになるかも知れません。 現在釜ヶ崎では高齢化や不況の煽りを受けて、日雇い求人数が減少しています。 求人を斡旋しているあいりん総合センターは閑古鳥が鳴いているかのように静まりかえっています。 そして釜ヶ崎は「日雇い労働者の街」から「福祉のまち」へと次第に役割を変化させています。

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西成暴動

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2012年05月21日 23時00分 日本最大級の遊郭の建物が今も150軒以上残る「飛田新地」に行ってきました 大阪市西成区の「 飛田新地 とびたしんち 」には日本最大級の遊郭が残っており、「」によると「難波新地乙部遊郭が1910年に全焼したのを受けて、1916年に飛田遊郭が生まれました。 1912年に完成した旧通天閣を中心とした新世界は、第1次大戦後の好景気で大いににぎわいます。 新世界からほど近い飛田遊郭も昭和初期には200軒を越える妓楼が軒を連ねます。 戦災でほとんどの店は消失しましたが、再び赤線としてよみがえり、1958年の売春防止法以後は料亭に転じたことで、現在もなお、伝統的雰囲気を色濃く残す街並みとその営みが保たれていますとのことで、非常に貴重な建物が多く残っており、実際にこの地域の最も古い建物であり、料亭でもある「 」は国の登録有形文化財にも認定されるほど。 なので、どのような建物が残っている町なのかを実際に見に行ってきました。 「飛田新地」と呼ばれるエリアは大阪市西成区山王3丁目の一帯。 Googleマップで見るとこの辺り。 一見すると小料理屋のように見える2階建ての建物がズラリ。 現地にあった地図はこんな感じ。 実際にはここに名前が書かれているより多くのお店が営業を行っています。 周辺にはどう見てもパチンコ屋にしか見えないことで有名な激安スーパーマーケット「 」もあります。 たこ焼き屋なども営業中。 この地で営業するお店を束ねる「飛田料理組合」の建物。 「飛田新地料理組合」の看板。 さらに進んでいくと、一帯には以下のようにズラリと「 」スタイルの店が軒を連ねており、仕事帰りと見られるサラリーマンふうの男たちなどが前を歩いています。 仕事帰りのOLや買い物にいくおばちゃんなども普通に歩いています。 よく見るとあちこちに「ホステスさん急募集」の看板。 さらに今度は「お運びさん募集」の看板。 「お運び」とは料亭で料理を運ぶ仲居さんのことですが、この場所では「お客と自由恋愛を行う仲居」という意味だそうです。 お店の外観はこんな感じ。 室内にはまぶしいくらいの明かりがつけられており、普段はこの中にサービスを行う若い女性と客引きや勘定などを行う年配の女性がいます。 18歳未満は入店禁止。 別のお店はこんな感じ。 軒先にはちょうちんが下げられています。 どこのお店でも実際にサービスが行われるのは2階の部屋のようです。 1階の内部はこうなっています。 20歳未満は飲酒禁止、という張り紙がしてありました。 店の中に客がいてサービスが行われている時はこのようにして店内は空席となるようです。 客が入っていない時はサービスを行う女性が室内に座っています。 客引きはもう1人の年配の女性が行う場合がほとんど。 こんな感じで「お兄さん寄ってって」「かわいいコいるよ」と声をかけられます。 どこのお店もつくりはほとんど同じで、入り口の左右に店名が書かれており、のれんの奥に女性たちが座っているという運営スタイル。 このスタイルがどの店も徹底して貫かれており、以下のようにどの店も同じような雰囲気になっています。 これが今も当時の風景と文化が色濃く残り続ける理由の一つであることは疑いようがありません。 この地区を10年以上取材し続けていたというフリーライターで「 」などの本を執筆した さんがで書いているところによると「約四百メートル四方の土地に、約百六十軒の「料亭」がずらりと並び、「にいちゃんにいちゃん」と呼び込む曳き子がいる。 上がり框に、赤い電気に照らされ、微笑む若い女性がちょこんと座っている。 客となった男が、二階の部屋でビールかジュースを飲み、女性と話すうちに、恋愛関係に陥る。 表向きには、そういうことになっていて、公然と性的サービスが行われている」といった場所であるとのこと。 また、Wikipediaの「 」の項目にも同様にして「1958年の売春防止法施行以後は料亭街『飛田料理組合』となっているが、現在も当時の雰囲気を伝えている。 ほとんどの「料亭」は看板は料亭であるが、営業内容は1958年以前と何ら変わりがない。 だが外観にだまされてはいけない」「20年程度での建て替えが当たり前の日本で、飛田新地は、建築物の保存状態の良さで大阪でも特異な存在だ。 建物の多くは終戦直後に建てられた。 飛田新地の不思議な魅力となっている木造建築には、玄関ホールの木彫りの彫刻のように、かつての繁栄が刻まれている」「ここが21世紀の日本であることを忘れないようにあらかじめお伝えしておこう。 「料亭」の入り口に座っている女性は女子高生や看護師の制服を着ていることが多い。 このようにしてありとあらゆる現代まで続く「矛盾」が凝縮されているような場所となっているため、一体いつまでこの状態を続けることができるのかはまったくわかりませんが、とにもかくにも非常に不思議な場所であることだけは確かです。 なお、この飛田新地の一角で営業している料亭「 」は国の登録有形文化財の建物を使用しているだけのことはあって本当にホンモノの料亭なので、ある意味、注意が必要です。

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