ソンミ 村 虐殺 事件。 ご存知ですか? 3月16日はソンミ村大虐殺事件が起こった日です

Category:My Lai massacre

ソンミ 村 虐殺 事件

しかし、観光地ではないのでツアーバスはなく、列車でクアンガイを目指そうとした。 しかし、列車は数日先まで満席。 フエの駅で途方に暮れていたら、男が声をかけてきた。 カフェの代理店をやっている人だった。 この人が、ニャチャン行きのバスでクアンガイ途中下車できるよう、カフェと交渉してくれた。 バスは2時過ぎにやってきた。 クアンガイ到着は夜10時頃。 安ホテルの前まで送ってくれた。 (2)村の記念館 ソンミ村へは、ホテルでバイクタクシーを紹介してもらった。 US5$で行ってくれるという。 何かの本に、すごい悪路を行くと書いてあったが、道は舗装されていて、約30分で着いた。 とても素朴で静かなところ。 記念館があり、犠牲者の遺品,写真等が展示されている。 1968年3月、米軍により村人504人が殺された。 わずか4時間で。 これがソンミ村虐殺事件である。 当初は民間人ではなくベトコンの部隊との戦いと報告されたが、内部告発により事件が明るみになった。 発生から18ヶ月後のことだという。 この記念館は、1992年に、最も大規模な殺戮が行われた跡地に建てられた。 記念館にある石像 敷地内には、墓碑があちらこちらにあり、殺された家族の名前と歳が彫ってある。 1歳とかの子供も。 記念館に展示されている遺品の一部。 弾痕が生々しいココナツの木 復元された防空壕。 隠れていた人達は、引き摺りだされて殺されたり、手榴弾を放り込まれて殺された。 「新聞記事の紹介」 '01年3月18日の朝日新聞に、「ベトナムのソンミ村虐殺事件の時の元米兵が、救出した村人と再会」という記事が掲載されていたので紹介します。 ベトナム戦争中の1968年3月16日、中部ソンミ村で米軍が村民504人を虐殺する事件が起きた。 その時、米軍ヘリが村に着陸し、虐殺寸前の11人の村民を救出した。 そのひとりで当時9歳の少年だったドー・バーさん(42)と、彼を救った米軍ヘリ搭乗員ラリー・コルバーンさん(51)が16日、ソンミ村で33年ぶりに再会した。 この米軍ヘリは現場上空を飛行中に虐殺に気づいた。 機長は「非戦闘員を殺すべきではない」と生存者の救出を決意し、「もし米兵が村人をこれ以上殺すのならすぐ発砲せよ」と射手コルバーンさんに命じた。 バーさんの母親や2人の妹も目の前で虐殺されたが、バーさんは死んだふりをして救出された。 現在、ソンミ村には虐殺記念館がある。 16日、元米兵や村人らが集まって、犠牲者をしのび50本の木を植えた。 (3)ビーチにて ソンミ村記念館からバイクタクシーで約10分ぐらいでビーチに着く。 とても静かで美しいビーチ。 外国人観光客は誰もいない。 人々も観光客なれしていないせいか、とても素朴である。 ここでなぜか子供達と仲良くなり、地引き網漁を手伝った。 ビーチのあと、米軍基地跡やお寺に連れていかれ、結局US$10払った。 バイクタクシーの運転手は、元南ベトナム軍兵士だったという。 そうすると、戦後はかなり苦労したにちがいない。 とても美しく平和な村だけに、当時の事件の悲惨さが印象に残った訪問であった。 〔ソンミ村への行き方〕 ソンミ村へ行くには、クアンガイを目指す。 国道1号線上にあるので、フエ〜サイゴン間のローカルバスは必ずクアンガイを通る。 また、鉄道駅もある。 あるいは、私がやったように、カフェのオープンバスで途中下車する手もある。 駅,バス停からは、バイクタクシーがお勧め。 往復し、記念館見学中は待っていてもらってUS$5。 (2000年8月) 〔クアンガイの宿〕 私が泊まったのは、Kim Thanh Hotel という宿で、AC付きUS$12,AC無しUS$6。 他にも Hotel 502, Hoa Vien Hotel 等、いくつかのホテルがある。 [ Kim Thanh Hotel ] 3階建てか4階建てか忘れたが、部屋数は結構ある。 部屋の壁が薄くて、隣の人の声がよく聞こえるのが印象的だった。 宿の親父に部屋を見せてもらっていると、巨大ゴキブリが現れた。 彼はそれをサンダルで叩き潰し、指で摘み上げニヤッと笑って出て行った。 シャワーを浴びていると、足の上でなにかゴソゴソ動く。 ふと下を見ると、大きな黒い物、巨大ゴキブリ2号だった。 大声で叫んでしまった。 隣の人はとてもびっくりしたと思う。 クアンガイからは、ローカルバスでニャチャンを目指した。 ソンミ村記念館を案内してくれたバイタク運転手が、ハノイ発サイゴン行き長距離バスをつかまえてくれた。 韓国製大型バスで、乗客満載。 バスに乗った瞬間、すべての乗客の視線が私に集中した。 外国人がこういうバスに乗るのはとても珍しいらしい。 言葉はつうじないが、皆とても親切にしてくれる。 超満員だったが私のためにスペースを作ってくれたし、休憩の食事のときは、運転手とそのスタッフに招待されて食事をごちそうになった。 (そこのテーブルだけ、すごい量の料理が運ばれた。 ) ほとんどの外国人旅行者は、カフェのツアーバスで移動する。 安くてそこそこ快適。 しかし、地元の人達と接する機会は無い。 ロンリープラネットにも書いてあったが、ローカルバスは地元の人達と仲良くなれる絶好の機会である。 問題点は故障が多いこと。 私も道に止まっているバスを見て、「ああ、大変だあな。 」と思っていたのだが・・・・・。 クアンガイでバスに乗ったのは午後3時。 途中、休憩しながら、午後10時にクイニョンという町でなぜか止まった。 他の乗客がみんな降りていく。 食事かと思ったが違った。 故障らしい。 スタッフが左後輪をジャッキアップしてタイヤを外している。 見ると、なんと、ブレーキドラムが3分割にぶち壊れているではないか!!!。 目まいがした。 これは悪い夢なのでは、思った。 しかし、現実だった。 でもみんなそんなにあわてた様子はない。 しかたがないので、他の人と話(ジェスチャー)しながら時を過ごす。 午前1時頃に別のバスが通りかかり、5万ドンでニャチャンまで乗せてやるといってきたが、この人達を置いて、自分だけ先に行く気にはなれなかったのでやめた。 帰国まで2日あったし。 夜2時過ぎには、バイクが部品を積んで現れた。 運転手が部品屋に電話したのだ。 しかし、その部品はサイズが合わなかったようで、持って帰っていった。 しばらく地べたに寝転がり仮眠した後、バスを見に行くと、部品が届いていて修理している。 朝7時ぐらいに修理が終わり、ようやく出発。 ニャチャンには午後2時に到着。 約300kmを23時間かかったことになる。 とてもつらかったが、とても楽しい時間でもあった。 彼らが無事サイゴンに着いたのを祈る。 ニャチャンのバス停からバイクタクシーでホテルへ。 少し海で泳いで、あとはビーチで休養。 翌朝6時にサイゴンへ向けてカフェのツーリストバスで出発。 長距離ローカルバスの魅力も捨てがたいが、この日の夜のフライトなので、なにがなんでも帰らねばならない。 ツーリストバスといえど古い1BOXカーなのでいつ故障しても不思議ではない。 でも無事走り続け、夕方5時に喧騒のサイゴン着。 7.おわりに 一番印象に残ったのは、とにかく食べ物がおいしかったこと。 どこで、何を食べてもおいしい。 しかも安い。 ビールを飲んでたらふく食べても300円しなかった。 残念ながら今回は日数が少なく、ベトナムを知るにはまったく不十分であった。 しかし、ベトナム人のたくましさ,したたかさ,そしてやさしさにふれることができた。 ベトナム戦争が終わったのが1975年。 その後ベトナムは、凄まじい発展を遂げて今日にいたっている。 しかし、ベトナムを旅するうえで、この戦争のことは避けて通れないと思う。 それに、戦争の被害はまだ続いているということも。 いつまでも過去のことにこだわるつもりはないが、ベトナムの歴史を知り、そして、フランス,日本,アメリカがどんなことをしてきたかを知ったうえで旅すれば、もっとベトナムを知ることができると思う。

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ソンミ村 虐殺の真実 前編 | BS世界のドキュメンタリー | NHK BS1

ソンミ 村 虐殺 事件

いまから50年前のきょう、1968年3月16日、ベトナム戦争のさなかにあった当時の南ベトナムのクァンガイ省ソンミ村ミライ地区で、米陸軍バーガー機動部隊のウィリアム・カリー中尉(当時24歳)率いる小隊が、無抵抗の村民500人以上を虐殺した。 ソンミ事件と呼ばれるこのできごとは当初、軍内の秘密とされたものの、翌69年3月、ベトナム帰還兵の一人が何人かの政治家に手紙を送って調査を要請したことからあかるみとなり、同年11月17日付の『ニューヨーク・タイムズ』が詳細を報じた。 その後、カリー中尉は逮捕され、1971年に軍法会議で終身重労働刑の宣告を受けるが、当時の米大統領ニクソンの命令で即時釈放される。 カリーは軍法会議で「上官の命令に従ったまで」と繰り返し証言するも、有罪とされたのは彼一人だけだった。 65年には北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始するとともに、米国とサイゴン政権に抵抗する南ベトナム解放民族戦線と激戦を繰り広げる。 68年1月30日には、南ベトナム全土で、解放戦線や北ベトナム軍が猛烈な攻勢に出た(テト攻勢)。 これは軍事的には失敗だったが、米国を心理的に揺さぶる。 民衆の蜂起を恐れた米軍は必死の反撃に出て、米軍基地の安全を確保するため周辺を徹底的に掃討した。 虐殺の現場となったソンミ村もチュライ米軍基地のほど近くにあり、カリー率いる小隊は解放戦線のゲリラを探し出して殲滅するため出動した。 しかし、ミライ地区で殺されたのは、子供や女性、僧侶など無抵抗の人たちばかりだった。 テト攻勢が米国に与えた衝撃は大きく、ソンミ事件から半月後の68年3月31日には、ジョンソン大統領がこの年の大統領選への不出馬を表明、北爆の一時停止を発表し和平交渉を呼びかけた。 翌年、ソンミ事件が報じられると、米国内では戦争への批判が強まることになる。

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幼子に銃口、血のにおい…ソンミ虐殺50年、消えぬ記憶:朝日新聞デジタル

ソンミ 村 虐殺 事件

1955年から20年続いたベトナム戦争では、多くの市民が犠牲となった。 中でも、68年に米陸軍部隊が無抵抗の住民504人を殺害した「ソンミ村虐殺事件」は、米国や日本で反戦運動が盛り上がるきっかけとなった。 事件発生から50年目の今年3月16日、中部クアンガイ省ティンケ(旧ソンミ)村の虐殺現場跡に整備された記念公園では、ベトナム政府要人や元米兵ら約千人が、追悼式典を開いた。 ただ、生存者たちの声はあまり伝えられなかった。 背景には、南北内戦の歴史を封印し、米国との関係強化を狙う、ベトナム政府の思惑が指摘される。 早朝、「VC、VC」と叫ぶ米兵に追い立てられ、地区の住民全員が農業用水路沿いに並ばされた。 VCとは、当時の北ベトナムが支援し米軍が手を焼いた、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)を指す。 地区には女性や子供しかいなかったが「動く物は牛にもVCと叫んでいた」。 銃で掃射され、当時6歳だった息子を抱えたまま、水が抜かれていた水路に落ちた。 覆いかぶさってきた人が弾よけとなった。 じっとしていた。 事件を知り駆けつけてきた親類が、遺体の山の中から見つけてくれた。 母、娘、もう1人の息子の3人を含む地区の102人が死亡。 助かったのは、自分と抱いていた息子の2人だけだった。

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