ニューロ ダイバーシティ。 ニューロダイバーシティとは何か。〜企業が特異な才能を活かすにはどうすればよいか。〜|矢部立也|note

ニューロダイバーシティについて①言葉の意味と基本知識

ニューロ ダイバーシティ

ソーシャルインクルージョンとは?ダイバーシティとの違いや関係は? ソーシャルインクルージョンとはなに? インクルージョンとは 「インクルージョン(inclusion)」とは、英語で「包括・包含」という意味になります。 全体をまとめ、包み込む・取り入れていくことです。 これを現代社会に置き換えて考えてみましょう。 社会のさまざまな考えを持つ方を受け入れ、取り入れることで成長していくスタイルになります。 ソーシャルインクルージョンとは ソーシャルインクルージョン(Social Inclusion)はどのような人でも排除することなく、健康かつ文化的な生活ができるよう援護していく考え方です。 主にヨーロッパで、社会福祉の再編に当たり社会的排除に対処するために生まれたとされています。 近年、日本では格差社会が問題視されています。 ソーシャルインクルージョンは、この格差によって排除されている方たちを救うシステムになるのかもしれません。 ソーシャルインクルージョンは、ニューロダイバーシティとも深く関係する ニューロダイバーシティとは ダイバーシティとは、耐用性を指す言葉です。 その中に「ニューロダイバーシティ」という考え方があります。 この「ニューロダイバーシティ」とは、神経学的の「ニューロロジカル」にダイバーシティを加えた言葉です。 またの名を「神経の多様化」「脳の多様化」とも言われ、発達障害などの「神経学的な違い」を受け入れるものとして注目されています。 障害を「疾患」として治そう、正そうとするのではなく、本来持っているものをどう活かしていくかという考え方です。 関連記事: 2つの考えには違いに加え、深い関わりがある このような考え方から、ソーシャルインクルージョンとニューロダイバーシティには深い関わりがあります。 もちろん、それぞれの考え方に違いもあるのです。 これまでは、支援はあっても本来の個性が受け入れられるケースは少ない この2つの考えが合わさった時に考えられる状況を、職場に置き換えて説明しましょう。 従来の障害者雇用を雇っている職場では発達障害など障害は、修正して適応させるものとして労力を費やしていました。 苦手な部分への合理的配慮などや障害を持つ方への差別の禁止などもこれにあたります。 この考え方は、確かに障害を持つ方が働くうえで大切なサポートです。 しかし、それだけでは「他の方と同じにする」のであって、そもそもの違いを活かすまでに至るケースは少ないでしょう。 2つの考え方が浸透することで、障害を持つ方の働き方が変わる しかし、これがソーシャルインクルージョンとニューロダイバーシティが組み合わさった社会が浸透した場合はどうでしょう。 職場に2つの考えが浸透した場合、このような変化があるのではないでしょうか。 ・ ニューロダイバーシティで、障害をただ問題視するのではななく、「『人それぞれ』の中の一つ」として捉える。 さまざまな考え方があるからこそ生きる社会になるようにしていく。 これが2つの考え方の違う点です。 そしてこのような意味からも、ソーシャルインクルージョンとニューロダイバーシティとは深いつながりがあるのではないでしょうか。 関連記事: 障害を特性として活きる時代が来るかも? 双方補いあうことで、個性を受け入れてプラスにしていく社会になる ニューロダイバーシティは、発達障害が「間違い」であるという考え方を「人それぞれの違い」にしていこうという考え方です。 またソーシャルインクルージョンは障害の有無のみならず、ひとりひとりの個性を受け入れる考え方です。 ソーシャルインクルージョンだけでは、個々の考えを受け入れるのみで、障害特性からなる『違い』にまでは着手しないことがあるかもしれません。 反対にニューロダイバーシティだけでは、『発達障害』などの「ジャンルの違い」に焦点を当てるのみで、あなたの個性にまで考えが届かないかもしれません。 ですから違いを受け入れ、その違いをひとつひとつ受け入れていこうという2つの考えが合わさることで、本当の意味で障害を個性として活かす時代が来るのかもしれないのです。 2つの考えを含む環境への近道に、「カスタマイズ就業」もある ここまで、「ソーシャルインクルージョン」「ニューロダイバーシティ」2つの考え方の違いや特徴についてお伝えしてきました。 しかし今の段階では考えが壮大過ぎて、自分には関係ないかなと感じるかもしれません。 しかしあなたにも、身近にこの2つの考えを感じられるチャンスがあります。 それが「」です。 従来の障害者雇用は、「苦手な部分をカバーし、いかに穴を埋めていくか」という作業に追われることが多かったのではないでしょうか。 これに対し「カスタマイズ就業」は、「苦手なことへのカバーに終始するのではなく、本来持っている障害特性を活かす働き方をしていく」という考え方です。 それぞれ「違う」からこそ、組織が成長できる可能性を期待しています。 Saladでは、カスタマイズ就業をサポートしています! Saladでは、この「カスタマイズ就業」について紹介させていただいています。 「いち早く、新しい働き方を知りたい」「個性を活かす働き方をしてみたい」と言う方は、ぜひまでご相談ください。 関連記事: まとめ いかがでしたでしょうか。 ここでお伝えしておきたいのは、もう一つあります。 もしこの2つが浸透した場合、あなたの障害や性格を個性として認められることが多くなるかもしれません。 しかし、それは反対に「あなた自身が『間違い』と感じているものも、『違い』として受け入れることが増える」ということではないでしょうか。 違いを受け入れるということは、とても難しいことです。 それぞれの人が育った環境や性格の中で、様々なケースがあります。 新しい時代に備えて、普段自分が他者に対してどんな見方をしているか。 今一度振り返ってみるのもよいかもしれません。

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ニューロダイバーシティについて①言葉の意味と基本知識

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「障害」と「文化」 前回の記事にも書きましたが、アメリカのニューロダイバーシティ運動では「自閉症文化」という言葉が好んで使われたようです。 それは自閉症と呼ばれる現象を「何かが劣っている、欠けている状態」ではなく、独自の文化を持った文化的少数者であると位置づける発想の転換です。 ここで注意して頂きたいのはこの「文化」という言葉です。 この言葉は障害と呼ばれる現象をなんとか肯定的に捉えるために比喩表現として使われているわけではありません。 文字通り、字義通りに「独自の文化」を持つ人たちという意味で使用されています。 そもそもASD(自閉症スペクトラム)者の人たちは字義通りのコミュニケーションを好む人たちでもありますから、当たり前といえば当たり前の話ではありますけれど。 そして実は「障害」と「文化」を結びつけて語るのはASD者が最初ではありません。 先輩がいるのです。 それは聴覚障害の人たち、つまりろう者の方たちです。 幸いなことに私は、このろう文化というものにASD文化に触れる以前に触れ、また知識としてろう者の社会運動の歴史を知っていました。 大学生の時に手話サークルに属していた私は、手話を学ぶ過程できこえない友人やCODA(ろう家族に生まれた聴者)の友人に恵まれました。 そこでいろいろな体験やコミュニケーションをする機会があったのです。 それは私にとってとても幸運なことで、ASDと呼ばれる現象を「文化」という視点で理解することをとてもスムーズに違和感なく出来た背景要因になったように思います。 聞こえの「障害」と「ろう文化」 「ろう文化宣言」という言葉があります。 これはろう者を「聞こえない劣った存在」という視点から、「日本手話という言語を母語とする言語的少数者」であると捉え直そうとする視点です。 そしてろう者にはろう者の独自の感性や価値観に基づく文化があるという主張だと私は理解しています。 現代思想という雑誌でろう文化の特集が組まれたのが1996年のことです。 ニューロダイバーシティの社会運動が2000年前後くらいからですので、やはり少し先輩ということになろうかと思います。 さて、このろう文化、実は言語的少数者ということにとどまらず、手話という言語だからこその「独自の文化」と呼べるような特徴があると私は思っています。 私が知っている限りでいくつかご紹介すると、例えば日本手話にはあまり敬語という概念がありません。 それででしょうか、彼(彼女)らは基本的にとてもフランクな対人関係を好むことが多いように思います。 また、基本的に手話ネームというその人の特徴を表現したあだ名のようなものを好んで使います。 なので、かなり長く親しくしていても本名を知らないということもあったりします笑。 聴者の文化ではまずありえませんよね。 ちなみに私の手話ネームは「兵士」+「男」で隊長と呼ばれていました。 なぜ隊長かは秘密です笑。 このようにろう者には、手話が母語であるということだけではない、文字通りの文化が存在しています。 そしてその文化や、ろう者であるというアイデンティティを、とても大事にされ愛されている方が多くおられます。 このことは、本来の根本的な構造としては、ASD者も同じことが言えるのではないかと私は思っています。 「文化」と「アイデンティティ」 ただやはり、違っている部分はあります。 それはろう者における「手話」のような分かりやすいアイコンがASD者には存在しないということです。 ASD者と神経学的多数派の方では言葉の使い方の癖のようなものに違いはあるかと思いますが、根本的には同じ日本語を母語としています。 その為、ASD者の文化はより目に見えにくい、ものごとの捉え方や感じ方、価値観という側面に現れてくるのだと思います。 その為、やっぱり分かりにくく伝わりにくい側面があります。 また、もう一つの違いはろう者における聴力のような明確な数値がASD者には存在していないことです。 何かの数値でその人がどれくらい典型的なASD特性を持つ人であるかを測ることは現状では不可能です。 (そして私は、その必要もないように思っています。 ) 両者に共通しているのは、その人が生きていく上でのアイデンティティと個人の尊厳に関わる事象であるということかと思います。 ろう文化について誤解のないように追加で説明させて頂きますが、ろう者であるというアイデンティティとその人の聴力の程度は実は別問題です。 聴者とろう者の間に難聴者というアイデンティティが存在するのですが、これらはその人の聴力の程度によって規定されるのではなく「その人自身」が自分をどの文化に属する者と定義するのかの問題なのです。 なので、聴力的には中程度の聴力でろう者を自認する人も、逆に全く聞こえていなくても難聴者を自認する人にも私は出会ったことがあります。 もっと言えば、聴者で「私は手話やろう文化のほうが馴染むし心地よい」という人もいらっしゃいます。 この点においては、実はASD者についても同じ構造なのだと私は思っています。 人類全体で見ればASDはスペクトラムな現象であり、ASD者と神経学的多数派との間に明確な線を引くことは困難です。 しかしながら、個人としてのアイデンティティとして自己を「ASD者」であると位置づけるかどうかは個人の自由であり、尊重されるべき価値観の問題なのだと思います。 また長くなりましたので今回はこの辺で終わりたいと思います。 次回は、diversity cultivation(多様性の文化化)という私の造語を用いつつ、もう少し具体的なことをお話出来たらなあと考えています。 では!.

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ニューロダイバーシティで、発達障害を個性として捉える時代が来る?

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ではあのまま療育を受けさせずに「ありのままの息子」でいさせれば、それが発達障害という脳の多様性を尊重することになったのでしょうか。 確かに息子に施した早期療育は私にとって 「定型発達」に近づけるという目的が見え隠れしていたかもしれません。 けれども、療育を受けさせたことによって、辛いことばかりだった息子の育児がなんとも愛おしく充実したものに変わりました。 ですから、私は個人的には療育について批判する気にはなりません。 課題はあれども、私と息子のクオリティ・オブ・ライフは確かに向上したのです。 「ニューロダイバーシティ」という言葉を取り上げるとき、私は療育の可否について議論するのではなく、今この言葉が日本の各所で使われ始めているということの意味について考えたいと思っています。 発達障害が「障害」や「疾患」ではなく、多様性の中の一つであり、その人の生き方の一つであるという捉え方が、少しずつ浸透し始めているきざしなのかもしれません。 「うちの息子は発達障害」ではなく「うちの息子はニューロダイバーシティ」と言い換えてみると、息子は異質な存在なのではなく、多様性の中の一つであるような心地よい響きがあります。 神経的な多様性を表す「ニューロダイバーシティ」という言葉。 それは「みんな違ってみんないい」という考え方が根底にあります。 そう考えると、その子がその子らしく、尊重されて生きていくスキルをつけられる療育とニューロダイバーシティは、何ら相反するものではないように思います。 私はこの二つの言葉がうまく融合し共存していくような希望ある未来を信じたいと思います。 appliedbehavioranalysisedu. "(ニューロダイバーシティ運動と自閉症者の権利とは何か?).

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