明智 光秀 家 系図。 明智光秀の家系とその子孫

明智光秀の妻子まとめ 妻と子供の一覧リスト

明智 光秀 家 系図

タレントでラジオDJのクリス・ペプラー(59)が、戦国武将・明智光秀の末裔(まつえい)であることが分かった。 21日に放送されたTBSのバラエティー番組「7時にあいましょう」(月曜後7・00)が検証。 光秀の生涯には諸説あるため「調べうる限り」という注釈はつくというが、専門家が見解を示した。 クリスはドイツ系米国人の父と日本人の母を持つ。 幼少期に母方の祖母(故人)から「あなたは明智光秀の末裔なのよ」と聞かされていた。 だが、還暦を目前にした今も真偽は分からないままだった。 番組はクリスとともに、「明智光秀の末裔」を公言する歴史研究家の明智憲三郎氏の元を訪れた。 明智氏が注目したのは、クリスの祖母の「土岐」という名字。 土岐家は鎌倉時代から続き、光秀はこの土岐家の血筋であるという。 祖母の墓石に桔梗紋が入っていたことから、クリスも土岐家の血を引くことが判明。 さらにクリスの家系、土岐家の家系を照らし合わせてみると、明智光秀の実子という説もある土岐頼勝の直系の子孫になることもわかり、明智氏は「(クリスが光秀の直系の子孫であることを)否定するものがない」と太鼓判を押した。 明智氏とともにクリスの祖母の墓石を確認したタレントのDAIGO(38)は「きょうからクリス明智さんの誕生です」と盛り上げ、クリスも「本当だったんですね」と感無量の表情を浮かべた。 信長から数えて17代目。 ただ、テレビ番組で公開した家系図は10~13代の名が省略されていたため、あくまで「自称」とする指摘も。 (敬称略).

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明智光綱|明智光秀の父

明智 光秀 家 系図

2020年の大河ドラマの主人公 知将・ 明智光秀の生涯を紹介したいと思います。 自分のこれまでのイメージは、(ドラマのイメージが強いですけど)織田信長に冷たくされていて、 うらみから謀反をおこし本能寺の変の中心人物。 ほかの歴史番組を見ていると本能寺の変をおこした理由も、実は 朝廷の命令説。 四国征伐回避説などいろいろあるみたいですがドラマはどの説になるのか…。 ドラマではわき役のイメージの強い明智光秀の生涯を調べてみました。 肖像画について• 人物像?どんな性格やったんかな。 生涯を年表で紹介• 本能寺の変• 家族は?娘は有名な細川ガラシャでは他の家族?• 子孫は? どのような生涯を、送ったか簡単ですが紹介していきたいと思います。 明智光秀の肖像画 明智光秀(1528~1582) よく光秀の肖像画として、この肖像画を目にすることがおおいと思いますが、 光秀の肖像画としては唯一のもとして有名です。 大阪府岸和田市にある本徳寺が所蔵しています。 なぜここに? お寺の開祖である 南国梵桂和尚は光秀の長男である 明智光慶と言われています。 もともとは貝塚市鳥羽の海雲寺が、岸和田藩主岡部行隆の命により現在の場所に移されました。 そのとき寺号も本徳寺と改められました。 南国が描かせた明智光秀の肖像画は、唯一の肖像画として現在まで伝わっているんですね。 また、光秀自身が生き延びて開祖したという説もあるようです。 本徳寺では肖像画は、 常時公開されていないようです。 ちなみに岸和田市では、平成29年6月6日(火曜日)から日本で唯一といわれている 明智光秀公肖像画 複製(掛け軸)1点を 岸和田城天守閣で常設展示されています。 岸和田城 所在地:岸和田市岸城町9-1 開場時間:午前10時~午後5時(入場は午後4時まで) 休場日:毎週月曜日(月曜日が祝日・休日の場合は開場) 入場料:大人300円、中学生以下無料 電話番号:072-431-3251 唯一の肖像画だったんですね。 次からやっと本題。 光秀について掘り下げていきます。 それ以外に 統治者としての顔。 琵琶湖水運の重要地 坂本城や、山陰中国地方の 亀山城の支配を任されたりとさまざまな分野で活躍。 知将・明智光秀と言われる事が納得行く活躍をされていました。 ドラマのイメージだと、なんか不遇な扱いをうけて最後には主君を死においやる悪い人物。 でも、実際は優秀な人物やったんやね。 丹波平定の際、あの信長からも 「天下の面目をほどこし候」意味は、( 世間の評判になるくらい天晴れなもの)といわれるほど。 でも、 ルイス・フロイスという外国人宣教師が書いた 『フロイス日本史』の中で、フロイスは光秀の事をこの様に書いています。 「 裏切りや密会を好んでいた」 「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けることとなって、主君とその恩恵を利することをわきまえていた」 「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。 友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」 「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」 「主君とその恩恵を利することをわきまえていた」 「 自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた」 「誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らずその親愛の情を得るためには彼を喜ばせることは万時につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないように心掛けていた」 「彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、 涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」 「 刑を科するに残酷」 「 独裁的でもあった」 「えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」 「 殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」 早い話、光秀は頭がキレ狡猾だが上への おべっかは絶やさない。 信長におべっかを使いまくって、時には 嘘泣きまでしていた。 そして裏では 人を騙すための方法に長けていることを自慢し、まんまと騙された信長は光秀に多くの領地と財産を与えています。 でも、よそものだったので みんなから嫌われてもいた。 築城や建築に長け、計略家で統率力もあり指揮官としても優秀だったが、その反面 裏切りや密会を好み、刑は残酷といういやな人物。 フロイスによれば、頭はきれるけど性格は最悪な人物やったんやね。 フロイス日本史に書かれている信長は凄くいい人だったと書かれているようなので、光秀に騙されてる事に気づいていなかったんやろうな…。 年表で見る光秀の生涯 1 1528年 美濃国の斎藤道三の家臣で土岐家の一族であった、明智氏の子として生まれました 1535年 父が死没したため家督を相続 まだ、8才だったため、叔父で明智城主の明智光安の後見を受けます 1556年 斎藤道三と争い始めた斎藤義龍に明智城を攻められ、一家は離散、浪人となります 浪人時代 その後仕官先を探して諸国を放浪します。 その間に、 鉄砲術や和歌を学び、足利幕府の要人細川藤孝とも知り合います その後、越前国の朝倉義景に仕える事になります。 1565年 松永久秀と三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)が13代将軍義輝を暗殺。 (永禄の変) 義輝の弟・足利義昭の身も危ないことから、細川藤孝が足利義昭をかくまいます。 将軍家復興のため朝倉義景を頼ったことから光秀と細川藤孝は再会します。 早くに父親を亡くし、苦労した時代もあったんですね。 年表で見る光秀の生涯 2 織田家の家臣として 1568年 朝倉義景には上洛の意思がないことから、尾張国の織田信長を頼ることを足利義昭に提案します。 信長に会い上洛の承諾を得ると、光秀も朝倉義景を見限り、織田信長に仕えるに。 信長に担がれて 上洛した足利義昭が15代将軍の座に就きました。 信長が京都を離れる際は、村井貞勝らとともに京都に残り政諸務を行います 本國寺の変では足利義昭を守り切りました。 1570年 傀儡将軍に過ぎないことを知った足利義昭が、信長打倒を決意する 織田信長に浅井家攻略のための構想を提案します。 (姉川の戦となる)戦後はこの功績により、京都警備を任せられます。 1571年 織田信長に従い比叡山焼き討ちを実行する 1572年 近江国志賀郡5万石を与えらる。 織田家家臣の中では新参ながら、一番の出世頭になります。 琵琶湖岸に居城になる 坂本城を築城します。 1573年 越前国の一乗谷攻めで功績をたてる 1575年 丹波方面の攻略を命じられ侵攻するが、波多野秀治の裏切りにより敗退する。 1577年 信貴山城の戦に参陣 再び丹波方面の攻略を開始 1578年 丹波国に 亀山城を築城して、二つ目の居城に。 1579年 丹波国、八上城の波多野秀治、秀尚兄弟を攻め落城させる 丹後国守護で弓削城主の一色義定を攻め降伏させて、丹後国を織田家の支配下に置きます 信長に背いた荒木村重や松永久秀らの討伐に貢献します。 この頃斎藤利三を家老に迎える 信長から丹波国一国(29万石)を与えられる 丹後国の細川忠興、大和国の筒井順慶らを指揮下に置き、織田家の近畿方面司令官となります。 福智山城(福知山城)を築城 1582年 織田信長の命により、安土城において徳川家康への接待役を務める 毛利方と対峙していた中国方面司令官の羽柴(豊臣)秀吉から出馬要請を受けた織田信長が、大軍を派遣することを決定し、光秀も出馬命令を受ける 居城、亀山城(亀岡城)に戻り、出陣準備 愛宕神社に里村紹巴らを招き、連歌会「愛宕百韻」を開催する。 軍を京都に転進させ、織田信長のいる本能寺を急襲し自害させる。 (本能寺の変) 与力である娘婿細川忠興やその父細川幽斎(藤孝)、組下の筒井順慶らから支持を得られず孤立し、中国から大返ししてきた羽柴(豊臣)秀吉と、摂津国と山城国の国境山崎で対決し敗戦。 (山崎の戦) 敗走途上、伏見小栗栖の竹藪で落人狩にあい死没 1582年7月2日 享年55歳 1582年には死んでおらず、延暦寺に逃げ込み僧となり、天海として生きながらえたという説があります。 主な出来事だけ取り上げて見ました。 いろいろな功績を残してるんですね。 主人公明智光秀の目線から見てみると、けっこう波乱万丈な人生やったんですね。 本能寺の変を起こした理由は? 明智光秀と言えば避けてとれないのが本能寺の変ですよね。 なぜ彼は主君である織田信長を裏切る事になったのか? 光秀単独・主犯説 積極的謀反説 「 天下が欲しかった光秀の単独犯行」 とするこの説は、変直後から語られています。 消極的謀反説 謀反は光秀の本意ではなく、何らかの理由があって止むを得ずに決起したという説の総称。 怨恨説。 信長の横暴な振る舞いに怒り、個人的な恨みが積み重なって原因として光秀が謀反を起した。 不安説。 光秀が自らの将来や一族の行く末に不安を覚え、信長に粛清されると考えてその先手を打った。 ストレスなどから精神的に追い詰められて、冷静な判断が出来ず謀反を起こしたとされる説など 名分存在説 光秀が謀反を起こした理由を、野望や怨恨などの感情面ではなく、信長を討つにはそれだけの 大義名分があったとする説の総称。 神格化阻止説。 信長が神格化されることを嫌った光秀が謀反を起して阻止しようとした。 暴君討伐説。 信長は暴君であるとしてそれを討った説。 朝廷守護説。 信長が天皇やそれを凌駕する権威を目指していたとする仮説に基づき、国体を維持するために変を起した。 四国説。 信長の四国征伐を回避するために光秀が謀反を起こした。 主犯存在・黒幕説 主犯存在説(主犯別在説)• 羽柴秀吉実行犯説。 秀吉が配下の武将・蜂須賀正勝を刺客として京に派遣して信長を暗殺させたとする説、光秀の関与を否定する無罪説の1つ。 この説は完全なフィクションとされています。 斎藤利三実行犯説.長宗我部元親に兄石谷頼辰の義理の妹を嫁がせた斎藤利三が、信長の四国政策の転換を防ぐために、主君光秀を唆して変を起した説。 など 従犯存在説• 長宗我部元親関与説。 または長宗我部元親黒幕説。 古くは『改正三河後風土記』にも長宗我部元親の関与を疑うような記述があるが、具体的にはよくわかっていない。 濃姫関与説。 濃姫(帰蝶)が斎藤利三または光秀と共謀または説得して、裏で操っていたという説。 黒幕存在説(黒幕説)• 朝廷 黒幕 説。 信長と朝廷との間には緊張状態があったという前提で、朝廷が光秀に信長を抹殺させたという説。 足利義昭 黒幕 説。 足利義昭が旧家臣である光秀にその権力を奪い返すために黒幕となって信長を倒すように命じたとする説• 高野山 黒幕 説。 当時、高野山攻めが行われており、高野山真言宗門徒が畿内で信長に逆らう最後の勢力でした。 本能寺の変によって攻撃は中止され、変で利益を得た勢力の1つとして黒幕説があります。 黒幕複数説(共謀説)• 毛利輝元・足利義昭・朝廷黒幕説。 近衛前久・徳川家康黒幕説。 堺商人・徳川家康黒幕説。 上杉景勝・羽柴秀吉黒幕説。 徳川家康・イギリス・オランダ黒幕説。 足利義昭・羽柴秀吉・毛利輝元黒幕説。 それぞれ複数の共謀者を想定した説。 今回調べただけでも諸説がさまざまあり、どの説が本当なのか今現在でもはっきりしてないんですね。 簡単に本能寺の変についてまとめてみましたが、フィクションなど後々の小説などで書かれているものもあってどの説が有力なのか、光秀の有名なセリフで 「敵は本能寺にあり」。 実際は言ってなかったとか、今となっては本当の事がわからないから、歴史の面白い部分だと思います。 当時の人間関係、出来事などから考察するといろんな説が出てくるんだなと、光秀が三日天下で終わって無ければ理由も伝わってたかも知れないし歴史も大きく変わってたんやろうな…。 明智光秀の子孫は?家系図を見てみる 光秀の出自を明智氏としない俗説も多いようです、また前半生が謎がおおく、家族構成においても諸説伝わっているようです。 では今現在伝わっている家族はどの様になっているのか見ていきたいと思います。 父親は? 光綱が父親と伝わっていますが (江戸時代の諸系図などにより) 明智光綱、明智光国、明智光隆、明智頼明など諸説があります。 父親の名前も伝わらない程 低い身分の土岐支流とも言われています。 『明智物語』では、光秀の養父は 明智頼明。 母親は? 若狭武田氏の出身で(武田義統の妹)名を お牧の方と伝わっています。 兄弟は? 『明智物語』では、 定明、定衡の義兄がいたとされています。 奥さんは? 正室は『明智軍記』などに記載のある 妻木煕子(ひろこ)。 豆知識 逸話は後世の創作ともいわれていますが、(1545年)頃、明智光秀と婚約、婚約後しばらくして煕子は疱瘡 ほうそう にかかってしまいます。 美しかった顔に痘痕(とうそう)が残ってしまったため、破談にしたくなかった父親である妻木氏は、煕子と瓜二つの妹(芳子)に姉の身代わりに光秀のもとにいかせましたが、光秀はそれを見破り、煕子を妻として迎えます。 その後、光秀は長良川の戦いで斎藤道三に与したため、その跡を継いだ斎藤義龍に攻められ、本拠を失い浪人になります。 困窮する生活の中で、連歌会を催すがお金が無かったため、煕子は自分の黒髪を売ってそのお金で席を設けて、光秀を助けました。 光秀はこれに感謝して、煕子存命中は側室を置かずに大切にしたという逸話は有名です。 が、側室はいたという説もあるようですね。 この話は、歴史番組で見た事があったのですが凄い良い話やなって思ってみてたんやけど、本当かどうかわからないんですね…。 本当やったら優し人やったんやろうなと思うですけどね。 子息・子女 『明智軍記』では3男4女がいたとされています。 長女:明智光春の妻• 次女:明智光忠の妻• 三女:細川忠興の妻( 細川ガラシャ)• 四女:津田信澄の妻• 長男:光慶 本徳寺の開基とする 南国梵桂)• 次男:光泰(十次郎)• 三男:乙寿丸 光秀滅亡の際に死亡したとされていますが、岐阜県山県市に伝わる伝承では荒深氏を名乗り、 荒深小五郎と名を変え生き延び光秀とともにこの地に土着したと伝わっているんですね) 大阪府岸和田市にある 本徳寺の開基とする 南国梵桂は、長男・ 光慶。 一説によるため定かではない) 宣教師のルイス・フロイスは、「 非常に美しく優雅で、ヨーロッパの王族を思わせるようであった」と、光秀の子息・子女のことを伝えています。 『鈴木叢書』所収の「明智系図」では側室の子も含めて6男7女いたとされています。 マメ知識2 光秀の子女の中で有名なのは細川ガラシャですよね。 ガラシャについて簡単に紹介。 明智光秀 の三女で 細川忠興 の正室。 キリスト教 信徒(キリシタン )。 明治期に入ってからキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でもこのように呼ばれています。 1578年、15歳の時に父の主君・織田信長のすすめによって細川藤孝の嫡男・忠興に嫁ぎます。 本能寺の変の後、「 逆臣の娘」となる。 忠興は1584年まで彼女を丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に 隔離・幽閉(逆臣として狙われるのを防ぐため)する。 1584年3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻し、監視。 そして、 キリシタンへ• 忠興が高山右近から聞いたカトリックの話をすると、その教えに心を魅かれてゆきます。 洗礼を受けないまま、侍女を通じた教会とのやりとりや、教会から送られた書物を読むことによって信仰に励んでいきました• 秀吉がバテレン追放令を出したことを知ると、珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャという洗礼名を受けました。 彼女は気位が高く怒りやすい性格でしたが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかな性格になりました。 バテレン追放令が発布されていたこともあり、九州から帰国した忠興は受洗を怒り棄教させようとしましたが、、珠は頑としてきかず、ついに忠興も黙認することになったのです。 壮絶な最期 1600年8月24日、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣します。 忠興は屋敷を離れる際はいつも 「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じていきました。 この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川家の屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしましたが、ガラシャはそれを拒絶。 その翌日、三成が実力行使に出ました。 屋敷に兵を囲ませたのです。 そして、家臣たちがガラシャに全てを伝えました。 ガラシャは少し祈った後に、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「 わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ逃がしました。 その後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らないように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃しました。 ガラシャの死は、他の大河ドラマの中でみた事がありますが、戦国時代ってこんな感じやったんかと思うと常に死と隣り合わせというか、今の時代に生きる自分からするとどこか絵空事のようにも思えます。 いろんな時代を経て今の時代があるんですね。 子孫は? 子孫は、どのような方達がいるのか気になりますね。 何年か前にフィギュアスケートの織田信成さんと、明智光秀の子孫の方と対面するのをテレビでみました。 その時は女性の方が出演されていたと思いますが他にどのような方がいるのか調べてみました。 織田昌澄 光秀の外孫にあたり、大坂の陣で豊臣方に加わるが助命される。 子孫は旗本となっています。 細川忠隆 細川忠興の嫡男。 後、廃嫡され、子孫は細川家臣内膳家となる (ガラシャの血を継いでいる)。 細川隆元・細川隆一郎・細川珠生は子孫。 細川綱利 ガラシャのガラシャのひ孫。 討ち入り後の赤穂浪士を預かる。 細川忠利 細川忠興の三男。 熊本藩初代藩主。 第8代で男子なく分家より養子を迎える。 熊本藩主家における光秀の血は途切れています。 孝明天皇 幕末に皇位にあった第121代天皇。 彼の生母は細川ガラシャの生んだ忠隆の娘・徳の末裔です。 今現在• 明智 憲三郎さん 「本能寺の変 431年目の真実」という本を書かれています。 それ以外にも「光秀からの遺言 本能寺の変436年後の発見」「「本能寺の変」は変だ! 435年目の再審請求 」などの著書があります。 クリス・プぺラーさん。 ナレーターでおなじみの彼はなんと明智光秀の子孫です。 日本人である母方の祖母から聞いたそうです。 内田青虹(うちだせいこう)さん 日本画家で、明智憲三郎氏のブログにて、内田氏が明智一族であると打ち明けられたそうです。 明智ハナエリカさん ミュージシャンをされているようです。 日本とイタリア系メキシコ人のハーフです。 細川護熙氏 第79代内閣総理大臣 細川忠利から続く肥後熊本細川家の18代当主。 8代目で直系男子が途絶えて養子を迎えているため、ここで光秀の血は一度途絶えていますが、 護煕氏の祖母が細川忠利の兄である忠隆の末裔にあたるため、明智光秀の血が流れていることになります。 現在も子孫の方達も活躍されているようですね。 光秀自体まだ謎がおおく、子供の人数もいろんな説があるので日本のどこかや世界のどこかでそれぞれ活躍されているかもしれないですね。 やはり細川家に嫁いだ娘・ガラシャからの血筋をひいた子孫は幕末まで続いているので、光秀の子孫としては一番はっきりしているのではないのかなと思います。 調べていてびっくりしたのが、 今上陛下は明智光秀、細川忠興、前田利家の子孫ということ。 何故なら、関ヶ原のときに、 嫡男忠隆の正室はガラシャとともに自決せずに、実家である前田家に避難しています。 これが気に入らなかった忠興は、忠隆を廃嫡しました。 その後に生まれた娘の 徳が京都の公家である西園寺家に嫁いでいます。 これがのちに皇室へとつながるきっかけに。 正親町雅子 細川ガラシャの生んだ忠隆の娘・徳の末裔)が孝明天皇の母となり、 孝明天皇の第一王子が明治天皇です。 この系統からみると、 今上陛下は明智光秀、細川忠興、前田利家の血筋をひいてることになるんですね。 天皇家まで子孫とは、自分からしたら次元が違いすぎる世界です。 まとめ 2020年の大河ドラマに先駆けて明智光秀の生涯を簡単に調べてみました。 が、自分の率直な感想からすると、奥さんとの話が本当ならめっちゃいい人。 やけど他の部分をみると性格悪いなというかある意味世渡り上手な人物だったんでしょうね。 本能寺の変の際も味方になってくれる人がいなっかということは、娘婿とか…。 上にはこびへつらって信頼されてたかもしれないけど仲間から嫌われていた所をみると嫌な奴やったんかな。 信長に気に入られて出世頭になってたことが、信長一筋で使えてきた家臣からしたら面白くなかったはずですからね。 武将としては長けていたことは間違いないと思います。 本能寺の変に関してはまだまだ謎が多いみたいですね、当時書かれてる歴史関係の話など、自分の一族が不利な話より英雄的扱いで後世にのこしり、後世の人が伝え聞いた話をまとめて本にしたり、その間に脚色されたり感性で書かれてる事もありますからね。 明智家側、織田家側から出た話など当時の噂など…。 いつか本当の理由がわかる日がくるかもしれないですね。 子孫にかんして活躍されている方もいて、光秀も自分の子孫が天皇家に嫁いぐとは思ってなかったやろうな。 血族も途切れることなく今も続いてるんですね。 ドラマではどんな人物像で描かれるのか、そして、本能寺の変はどの諸説が使われるのか楽しみですね。

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明智光綱|明智光秀の父

明智 光秀 家 系図

なお、 土岐氏は室町幕府の三管領四職家に次ぐ家格であり、美濃守護の地位にあった家柄である。 明智光秀は、美濃土岐氏の一族か 系図、というのは怪しいもので、自分を飾りたてるために、著名な人物や架空の人物をとってつけてくることがある。 江戸時代には系図屋といってよい職業があったし、現代でも行政書士や業者が、戸籍で遡れないほど古いものについては、根拠不充分ながらも作成して商売しているケースもある。 だから、よほどの名家でない限り、ごまかしの産物である系図をベースに考えるのは賢い行いとは言えない。 だが、小和田哲夫氏の著作、「 」を要約し、まずは父親を考えてみる。 系図類の伝えることがどれもまちまちで、伝説の域を出ない。 系図も、軍記も、明智光秀が土岐氏の一族であり、愛宕百韻の発句は天下取りを意味している。 という解釈に合うよう後付けでなされた可能性があり、実際、 父とされる光綱、光隆、光圀が何者なのかもはっきりせず、彼らの名前のある良質の書状も発見されていない。 光綱にせよ、光隆にせよ、光圀にせよ、その実在さえはっきりしない。 無論祖父光継や叔父光安も存在を証明できるものはない。 明智光秀の系図のとらえ方 土岐明智氏か、こじつけか 小和田哲夫氏は、前掲の「 」の中で、明智光秀が当初より明智という苗字を名乗っていること、 明智氏が美濃土岐氏の別れであることを前提に、その出身地を美濃国内に求めている。 ただ、歴史に名前が出てる以前に改名している可能性はあり、「明智光秀が当初から明智を名乗っているから土岐明智氏の別れである」と言うのは首是しかねる。 桑田忠親氏は、 明智光秀と土岐氏を関連付けることは、後世のこじつけであるとの懐疑的な見方を示している。 上の系図類は、後世編纂されたものであるという。 現状の資料では、少なくとも 土岐氏の一族であると断定はできない。 資料を重視するならば、桑田忠親氏の見解が、研究者として正しい姿勢だろう。 美濃には2つの「明智」という地名があった 通説によれば、明智光秀の明智氏は、美濃の明智城を領地としている。 では、 明智氏が支配していた明智城はどこにあるのか? 美濃には明智という地名が2か所ある。 恵那郡と可児郡だ。 谷口研語氏の「」によれば、 恵那郡の明智は、遠山姓の明智氏が寄っていた。 この家は幕府奉公衆でもあるが、明智は明智でも、遠山姓であり 土岐氏ではない。 一方で、可児郡にある明智は、土岐明智氏の版図が最大だった時にも、 土岐明智氏が可児郡明智を治めた記録がない、という。 (石清水八幡宮領) つまり、 美濃明智と、土岐明智氏のつながりは確認できないことになる。 明智光秀登場の60年前に消えた3つの土岐明智氏 それでは、美濃の土岐明智氏はどこにいたのだろうか。 谷口研語氏の「」によれば、明智光秀が歴史に登場する60年前に、土岐明智氏は、上総介家、兵庫頭家、中務少輔家の3つがあったとされる。 上総介家は文亀2年(1502年)の明智頼明・頼尚以降は名が見えなくなってしまう。 また、その時の所領は土岐郡内の妻木村・笠原村・駄智村半分・細野村半分であったという。 兵庫頭家は玄宣いうものが幕府奉公衆として出仕しており、上総介家と領地争いをしていた。 連歌界の大物であったという。 中務少輔家も幕府に仕えており、外様衆であったとされる。 政宣という人が連歌界でも活躍しており、中務少輔家の通字が「光」だったという。 つまりは、 土岐明智氏上総介家は美濃の小領主ではあったが衰微しており、兵庫頭家と中務少輔家は美濃には居ず幕府に仕えて京にいた。 そしてすべて、明智光秀が歴史に登場する60年前には土岐明智氏はどれも記録から消えてしまった。 明智光秀が15代将軍足利義昭の幕府足軽衆として明智の名がみえること、連歌に長じていたこと、名に「光」の字が入っていることを考えると、土岐明智氏の中でも中務少輔家のほうが明智光秀とつながりがありそうだが、これらの幕臣明智氏は明応の政変(1493年)以来名が消えてしまい、系図類はつながらない。 これらの土岐明智氏が歴史から見えなくなって60年後に、明智十兵衛尉なる人物が突如として歴史に現れるのである。 通説に見る「明智城の明智十兵衛光秀殿」が存在する可能性は低い 明智光秀の出自の通説では、 美濃土岐家に連なる明智氏の人間であり、美濃明智城主の直系。 父光綱が死亡したため、叔父光安が城主になっている。 という随分な身分の人間だが、 国主である斎藤義龍と父斎藤道三の争いの中で没落する。 というながれであることが多い。 でも実際は、 ・明智氏が支配していた明智城が存在しない ・明智光秀の父光綱、叔父光安、祖父光継が存在した証拠がない ・美濃の土岐明智氏は明智光秀登場の60年前から衰退して歴史から消えている ということから、 通説に見る明智光秀の出自はフィクションである可能性が高い(事実だと言えるほどの証拠がない)。 美濃国住人ときの随分衆也「立入左京亮入道隆佐記(立入宗継記)」 そして、明智光秀が美濃のそれなりの出身だという主張に援用される書物として、「立入左京亮入道隆佐記(立入宗継記)」というものがある。 著者である立入宗継は禁裏御蔵織という身分にある公家であり、生まれは大永八年(1528年)。 まさに、織田信長と同世代の人であり、朝廷からの使者として、信長と接触している。 その記述の中に、明智光秀を 「美濃国住人ときの随分衆也」というのがある。 純粋に読めば、美濃の土岐氏の相当な身分のものである。 と解釈するのが妥当であろう。 現に、小和田哲夫氏は、前掲の「 」の中でこのような見解を示し、明智光秀は美濃の土岐氏の相当な身分であったという見方をしている。 次は、「立入左京亮入道隆佐記(立入宗継記)」の「美濃国住人ときの随分衆也」という記述の信憑性を考えてみたい。 関連記事 明智光秀の実像.

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