ジュンガル。 チベットと中国の歴史|侵略・弾圧問題を理解する上で重要な知識

世界の恐竜化石産地・地層

ジュンガル

YouTube 音声 音声教材は です。 『フレーズ確認用』は。 YouTubeのリンクから来られた方は次の 「フレーズ」の説明にお進みください。 これは 『 』シリーズのひとつです。 他をまだご覧でない方はそちらもあわせてどうぞ。 遊牧民の部族連合です。 いわゆる「 北 元」が 1388年に滅びたと考えた場合の、それ以降の「 モンゴル 諸部族 」のことです。 タリム盆地にありました。 フレーズとしては言いやすいので「 カルカ」のままにしています。 「 オイラト」部族連合の「 ジュンガル部」から「 オイラト」の盟主となり、 ガルダンの時代には一時、大帝国を築きました。 清朝の支配下に入り、 イスラーム教徒の土地として「 回疆」とされたものです、その前は「 ジュンガル」に支配されていました。 それ以前の「 カシュガル・ハン国」の領域を全て含みます。 実は「 カルカ部」「 ジュンガル部」「 回部」といった並びは、もともと「 清朝」の「 藩部」として組み込まれていく経緯からフレーズに採りいれたものです。 ねらい 今回の個別フレーズの「ねらい」については、初回の「 」の「ねらい」に準じるものとします。 ご覧でない場合はそちらを確認してください。 *発展として 各王朝の成立・滅亡年を覚えたい場合は です。 *なお、『テンプレ世界史』のねらいや説明など、詳しくはこちら「 」をお読みください。 解説 では、内容を解説していきますが、これらの文章はイメージ付けと、流れをつかんでもらうために書いておきます。 なのでざっと読んでもらっておけばいいです。 今回のフレーズは、前回の「」で扱った内容の後半に当たります。 前半は、「 最後はまるっと元統一」ということで、史上最大の領土を獲得した征服王朝「 モンゴル帝国 元 」が出て北アジアが統一されたところまでです。 北元 その後「 元」は「 明」に敗れて首都の「 大都 北京 」を手放し、 モンゴル高原に退きます。 これを後世「 北 元」と呼んでいる訳です。 「 北 元」には、北京を捨てる前と同じ「 フビライ」の子孫である ハーンが立っていました。 ところが、かつて「 フビライ」と ハーンの位を争った アリクブケというフビライの弟がいたのですが、その アリクブケの子孫である「 イェスデル」という男が、当時の ハーンを殺し、 ハーンの位を奪い取るという事件が起こります。 こういう背景から、中国の 明の側からは「 北 元 元 」は滅亡したとみなす、ということで、以降「 タタール 韃靼 」と呼ばれます。 で、日本でもそう呼んできた訳ですが、最近は単純に「 モンゴル 諸部族 」と呼ぶことが多いようです。 ここの説明でも「 モンゴル 諸部族 」と書いていたら「 タタール 韃靼 」のことだと思ってください。 とはいえ、です。 実は、アリクブケ家「 イェスデル」の子孫を介して「 北 元」の「 ハーン」はその後も続いていた訳です。 そうした意味では、今回のフレーズにある「 オイラト」「 タタール 韃靼 」「 カルカ ハルハ 」「 ジュンガル 帝国 」の歴史は、大っきく見るならば「 北 元」の歴史の一部であったという見方もできない訳ではありません。 オイラト オイラトは、もともと チンギスハンの時代以前からバイカル湖の西、 イェニセイ川の東側一帯にいた遊牧民の部族集団で、もとはトルコ系であったとも言われています。 モンゴルの征服の際には、いち早くチンギスハンに服従して 親戚関係を結ぶことで、モンゴル帝国内部の有力な部族集団となりました。 オイラトは「 北 元」では、 ハーンの位を奪い取った「 イェスデル」の アリクブケ家の有力な後ろ盾でした。 このことから、何代にもわたって アリクブケ家の ハーンを支えるなかで、だんだんと力をまし、ついには オイラト部族長が「傀儡(かいらい=あやつり人形)」の ハーンを立てて自ら権力を握り、 モンゴル諸部族をしたがえるほどに成長します。 それが一つの頂点に達したのが オイラト部族長「 エセン」の時代であり、 モンゴル諸部族の統一を背景に 明に侵攻を開始し、 明の 正統帝の親征軍を破り、 正統帝を「土木堡」というところで捕えてしまいます。 これが教科書にも載っている「 土木の変( 1449年)」です。 その後「 エセン」と「傀儡」の ハーンとの関係が悪化したことで「 エセン」は「傀儡」の ハーンを滅ぼし、自ら ハーンに即位します。 然し、チンギスハンの男系の子孫でない「 エセン」が ハーンを宣言したことは、 モンゴル諸部族ばかりでなく オイラト諸部族の反発をも招いてしまい、結局、即位からわずか一年で「 エセン」は部下に殺されてしまいます。 以降、 オイラトの影響力は大幅に弱まり、 オイラトは モンゴルの西部にまで後退してしまいました。 ダヤン・ハーン 「 エセン」は「傀儡」の ハーンを滅ぼした際、他のモンゴルの王族も根絶やしにしてしまおうとしました。 そのとき「 エセン」の娘の子であったバヤン・モンケは死を免れました。 そして「 エセン」の死後、当時の ハーンが死に、後継ぎが絶えて ハーンが「空位」となります。 その際、白羽の矢が立ったのが、すでに民間で暮らしていたバヤン・モンケの息子でした。 当時、 チンギスハンの血をひくほぼ唯一の存在であった彼は、 ダヤン・ ハーンとして即位します。 「 ダヤン」とは国名の「 大 元」がモンゴル語に採り入れられたものとも言われます。 こういうの、覚えやすいですね。 即位後、すべての モンゴル諸部族をしたがえた ダヤン・ ハーンは、翌年の 1488年には早くも 明に攻勢をかけています。 「 イェスデル」の事件からちょうど 100年後です。 続いてモンゴル西部の オイラトを破ってこれを屈服させます。 ダヤン・ハーンは モンゴル諸部族を六つの大部族、。 その左翼 東 が、 チャハル、 ハルハ、 ウリヤンハン、右翼 西 が トメト、オルドス、ヨンシエブと言います。 このうち チャハルは ダヤン・ハーンが直接支配したので、その王家を チャハル王家と言います。 11人の息子に恵まれた ダヤン・ハーンは、自らの息子をこれらの諸部に婿入りさせ部族長にしました。 こうして ダヤン・ ハーンのもとで モンゴルは再統一されました。 モンゴル諸部族それぞれの上に ダヤン・ハーンの子孫が立つことで、その子孫は繁栄し、後々まで モンゴルの貴族として残ることになりました。 然し、多くの息子がそれぞれの諸部の上に立つということは、 ハーンを名乗る「 資格」がある人間がたくさんいて、それぞれ権力を持っているということでもあり、 モンゴル統一という点では災いの種でもありました。 ダヤン・ハーンの死後、複数の有力な ハーンが立つことで、 モンゴルとしての統一は常に不安定なものになります。 ダヤン・ハーンの死後、混乱しかけた モンゴルを再び統一し、 明に侵入して 1550年には 北京を包囲するまでに強勢を誇った「 アルタン 黄金 ・ ハーン」は、 ダヤン・ハーンの孫に当たりますが、彼は トメト部の当主であり、 チャハル部の 北 元の ハーン 皇帝 ではありませんでした。 然し、当時の 北 元の ハーン 皇帝 は、彼の勢力の大きさを前にして、彼が「 ハーン」の称号を名乗ることを認めざるを得ませんでした。 アルタン・ ハーンは、武勇だけでなく政治的にもすぐれた人物だったとされており、内モンゴル自治区の中心都市である フフホトは、彼が建設したものです。 また、仏教信仰も厚く、 ダライ・ラマ3世に初めて「 ダライ・ラマ」という名前を贈ったのも彼でした。 然し、 アルタン・ ハーンの死後、強いカリスマ性を持った人物を失った モンゴルは、再び分裂していくことになります。 ハルハ 前に出たように「 カルカ ハルハ 」は、近世になって生まれた モンゴルの一部族です。 現在の「 モンゴル国」の多数派民族ということになっています。 ってことは、他のモンゴル部族は「 モンゴル国」の「少数派」ということになります。 「 モンゴル国」というからには、モンゴル諸部族の子孫が平均的に含まれているのかと思いきや、そうではないということです。 ハルハには、モンゴル諸部族の再統一を果たした ダヤン・ハーンの息子が婿に入って部族長となっていました。 ダヤン・ハーン死後、 ハルハはモンゴル高原中央部に勢力を広げます。 そして、 ダヤン・ハーンの ひ孫にあたる ハルハ 部長、 アバダイは、 オイラトを破って名を高めます。 アバダイはかつての モンゴル帝国の首都であった カラコルムに仏教寺院を建設し、その翌年の 1586年、布教のため各地を巡っていた ダライラマ3世に会い、このとき、宗教上の 王の称号を授けられます。 それ以降 アバダイは ハーンを名乗ることになり、ここに初めて ハルハ 部出身の ハーンが生まれることになりました。 もちろんこれも、 チャハル部の 北 元の ハーン 皇帝 とは別物です。 これは、 ダヤン・ハーンの即位から 100年後の出来事になります。 その後 アバダイの後継者は オイラト討伐事業とともに、 ハーンの位も引き継ぐようになります。 然し一方、17世紀初め、 北 元の ハーン チャハル部 が、強権のもと モンゴル部族を統一しようとしたのを嫌った諸部族の中に、満州の 後金 後の 清朝 と同盟を組むものが現れます。 後金軍に攻められた 北 元の ハーンは西の フフホトに移動します。 その後、 ハルハの有力者であった アバダイの甥の後ろ盾を得て勢力を盛り返した ハーンは、 チベット遠征に向かいますが、途中で病死してしまいます。 ハーン不在の フフホトは 後金軍に占領され、まもなく 北 元の ハーンの後継ぎ息子も降伏し、 元の皇帝に代々伝わるという「 玉璽 ぎょくじ 」を、 後金に対して献上することになります。 このことがきっかけで 後金の ホンタイジは、チンギスハンの子孫を完全に従え、満州 女真 だけでなく モンゴルに対しても ハーンとして君臨する 皇帝となり「 モンゴル帝国」の後継王朝として国号を「 大清」と改めることになる訳です。 1636年、 ダヤン・ハーンの即位から150年後のことです。 ハルハの東部の有力者は、すでにその前年から「 清」に友好使節を派遣し始め、「 清」と 朝貢関係を結ぶことで、独立を保とうとし始めます。 他方で、ほとんどの モンゴル諸部族が「 清」の支配下に入ったことへの危機感から、同じ危機感を抱く長年の敵であった オイラトと同盟を組むことになります。 「 オイラト・モンゴル法典 1640 」が成立し、チベットの ダライ・ラマを共通の権威とすることで両者の対立は終わりました。 グーシ・ハーン 17世紀初頭の オイラトは、 モンゴル高原の西部からアルタイ山脈の南部、 ジュンガル盆地辺りまでを活動範囲としていました。 当時、 オイラトの中で有力であったホシュート部族の長、トゥルバイフは、自分たちの帰依していた ダライ・ラマ5世の宗派がチベットで窮地に陥っているとして、これを救うために 1636年、オイラト軍を率いてチベット遠征に出発します。 翌年初めにはチベット東北部を完全に押さえ、 ラサの ダライ・ラマ5世のもとに上って「 ハーン」の称号と 印章を与えられます。 これよりトゥルバイフは「 グーシ・ハーン」と名乗ることになります。 1636年といえば、先の「 大清」国成立と同じころの出来事です。 本来、 チンギス・ハン男系の子孫でない オイラト部族は「 ハーン」を名乗ることはできないはずですが、以降、 チベット仏教の ダライ・ラマの宗教的権威のもと「 ハーン」が任命される慣例が生まれることになりました。 グーシ・ハーンはその後の 5年間の内にチベット各地を征服し、1642年にはチベットの大部分を制圧し、チベットに グシ・ハン朝が成立します。 これにより初めて、 ダライ・ラマとその宗派は、チベット仏教において、他の宗派を超えた最高権威となりました。 そして、 グーシ・ハーンは、自らが統一したチベットに君臨する一方で、チベット征服にともなっていた、当時の ジュンガル部の長を自分の娘婿として オイラト本国に帰らせ、その地の支配を委ねます。 ジュンガル オイラト支配を任された ジュンガル部の長が1653年に死ぬと、その息子「センゲ」が後を継ぎます。 ところがこれを妬んだ「センゲ」の腹違いの兄弟たちは「センゲ」と争い、殺してしまいます。 1670年 「センゲ」には13歳からチベットに留学し ダライ・ラマ5世に師事して10年間学んだ ガルダンという弟がいました。 帰国して還俗した ガルダンは兄の死の翌年である 1671年、兄の仇を討ち、 ジュンガル部長となります。 続いて他の有力なライバルを屈服させ、全 オイラトの盟主となりました。 ダライ・ラマ5世は、 ガルダンに対して全 オイラトの「 ハーン」の称号を与えます。 ガルダンは当時 タリム盆地にあったイスラーム王朝「 カシュガル・ハン国」を攻め、1678年にハミ、トゥルファンを占領、続いて1680年にはその中心都市カシュガル、ヤルカンドを陥落させ「 カシュガル・ハン国」を滅ぼしました。 更に 中央アジアへ遠征を行った ガルダンは、以降5年間の内にカザフ、キルギスに領土を広げます。 1687年、以前より右翼と左翼の宗主の間で争いが続いていた モンゴルの ハルハで内紛がおこります。 そして、右翼の宗主が ガルダンを頼って ジュンガルに向かう途中、左翼の追手に追いつかれ殺されてしまいます。 それだけでなく、この時、 ジュンガルから迎えに出た ガルダンの弟まで殺されてしまいました。 翌年の 1688年、 ガルダンは大軍を率いて ハルハに侵攻を開始します。 ハルハの主要部は征服され略奪を受けました。 結果、数十万ともいわれる ハルハの人々が清領に逃げ込み、 清朝の保護を求めることになります。 モンゴル最後の独立勢力であった ハルハも、こうして自立性を失うことになりました。 ダヤン・ハーンが立ってからちょうど 200年後のことです。 清を敵に回したくなかった ガルダンは清の 康熙帝に手紙を送り、 ハルハ侵攻に理解を求めますが、 清朝が、弟の仇の身柄引き渡しの要求に応じようとしなかったため、 ガルダンは軍を率いて進み北京の北方で 清軍と交戦状態に入ります。 ジュンガル軍は ロシア製の大砲を装備していましたが、決着はつかず、 ダライ・ラマ5世の摂政が派遣した僧侶が 清側と交渉している間に ガルダンは軍を率いて撤退します。 ところがそのころ、本国では兄「センゲ」の息子が反旗を翻し、 康熙帝と連絡を取り合い ガルダンの退路をふさぎます。 清に臣従を誓った ハルハの領地を取り戻すという理由のもと派遣された清軍の追撃によって ガルダンは敗走、アルタイ山脈の北方をさまよった末、 ガルダンは、1697年 病死しました。 ジュンガルで ハーンを称したのは ガルダン・ハーン一人であり、それ以外の部族長は「 ホンタイジ」を名乗っています。 なので「 ジュンガル帝国」は「ジュンガルハン国」とは呼びません。 その後、 ジュンガルは「センゲ」の息子が「 ホンタイジ」として、 清朝との間に朝貢関係を結びますが、良好な関係は長くは続かず、各地の領有権を巡って 清と ジュンガルは再び交戦状態に入ります。 この争いは「センゲ」の息子が死に、その後継ぎの代になっても続きます。 ちなみに グーシ・ハーンがチベットに建てた グシ・ハン朝は、「センゲ」の息子の後継ぎの時代、1717年に ジュンガルの奇襲を受けて本家筋が断絶し、続いて1723年から1724年、今度は 清朝の 雍正帝の攻撃を受けて完全に屈服し、チベットにおける権限をはく奪され滅亡しています。 藩部 広大な版図を得た 清朝は、それらを直轄地と 藩部に分けて統治しました。 藩部の要地には将軍を置き、土着の支配者をとりたてて間接統治を行い、「 理藩院」を設置して、それら諸藩部の行政事務を管理させました。 当初「 理藩院」は モンゴルの チャハル部 内蒙古 に対して置かれ、これが 1638年のこと、もちろん先の「 大清国」成立の時期になります。 ただし、チャハル王家はその後 三藩の乱に呼応して反乱をおこしたため取り潰しにあい、内蒙古は直轄領にされました 次に カルカ部 ハルハ 外蒙古 ですが、 ガルダンが死んだ 1697年に清朝により領地を回復されて 藩部とされます。 更にチベットの オイラト、 グシ・ハン朝が滅びた 1724年、チベット東北部 青海 一帯が「 瓦剌 ワラ 部」として、続いて 1750年、 西蔵(チベット)が 藩部に組み込まれます。 最後に ジュンガルですが、1745年「センゲ」の息子の後継ぎが死ぬと、 ジュンガルと オイラト部族連合は分裂状態となり、諸部の中には 清朝に投降するものが相次ぎます。 1754年から1755年にかけて、 清の 乾隆帝は ジュンガルに対して大軍をおくりこみ、タリム盆地に逃げ込んだ当時の「 ホンタイジ」を捕え、 ジュンガル帝国は滅亡しました。 乾隆帝は当初 オイラトを4部に分け、それぞれに ハーンを置いて統治しようとしましたが、その後も、ジュンガルの残党がしばしば反乱をおこし、これを掃討する 清軍によって天然痘が持ち込まれたため、 オイラトの人口は激減し、特に ジュンガルの人々はほぼ全滅したと言われます。 今日、ジュンガル故地の イリ川周辺部に住んでいるのは、 清朝が入植させたカザフ人や満州人の子孫であり、 ジュンガルの人々の子孫ではないという訳です。 1759年、ジュンガルを平定した清はジュンガルが支配していた天山山脈北部を収めとり、 1762年には同地に イリ将軍府をおき、 ウイグル人の住む土地と合わせて「 回部」として 藩部の一部に組み込みました。 * 各王朝の成立・滅亡年を覚えたい場合は です。

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ジュンガルとは

ジュンガル

中国西部で、かつてと云われていたを構成する、テンシャン山脈と崑崙山脈に南北を挟まれたは、大部分がタクラマカン砂漠に覆われており、わずかに山脈沿いので結ばれたで交易に従事する人びとが暮らしていた。 かつてはイラン系のが活動していたが、10世紀頃からトルコ系民族の人が定住し、いわゆるトルコ化が進んだ。 10世紀頃からこの地域にイスラーム教が浸透し、13世紀以降にこの地を征服したモンゴル帝国の後継国家チャガタイ=ハン国もイスラーム化した。 特に14世紀に系のナクシュバンディー教団が中央アジアのブハラから東トルキスタン南部に進出して各地域にいくつかの教団を成立させたことによってウイグル人のイスラーム化が進んだ。 17世紀には天山山脈北部のジュンガル盆地にいたモンゴル人の系であるが族長ガルダンに率いられてタリム盆地・モンゴル高原、チベットに勢力を伸ばしていった。 新疆の成立 は、康煕帝・雍正帝が相次いで北方のに対する征討活動をおこなったが、はも1755年以来、ジュンガルに遠征軍を送り、にその勢力を滅ぼした。 ジュンガルに支配されていたウイグル人は、イスラーム教国を樹立する機会と捉えて反乱を起こしたが、康煕帝はウイグルの反乱も鎮圧し、までに東トルキスタン一帯を「新疆」と称して支配するようになった。 疆とは「領域」の意味で、清にとって新たな領土であったことを意味する。 清はこの地をの一つとしてが統括した。 ウイグル人のイスラーム社会 この地域に住む人はイスラーム教徒であった。 清朝はウイグル社会に対して間接支配体制を敷き、ムスリムとしての日常的な信仰活動と宗教学者()の文化教育事業を認めたが、集団礼拝を禁止し、モスクやマドラサにとして寄進された土地に対しても課税して、彼らが政治的・経済的に力を付けないようにした。 清朝のウイグル人支配は巧妙にすすめられたが、19世紀になると、その宗教指導者のなかに、盛んに中国支配に対するを呼びかけるものが現れ、清朝政府は度々軍隊を派遣しなければならなかった。 1870年代には清朝は欧米列強による植民地下の危機にさらされると、新疆方面ではロシアの脅威が強まったので、直接支配に乗り出し、清朝の官吏の派遣や漢人の入植をすすめたので、ウイグル人の反発が強まった。 東トルキスタン独立運動 1917年のロシア革命は、に大きな変化を及ぼし、民族独立の要求が強まった。 すでに清朝は倒れていたので、東トルキスタンのウイグル人のなかにも独立は現実のものとなっていった。 1930年代初期から、ウイグル族を中心に中国からの独立をめざす「東トルキスタン独立運動」が発生した。 1933年11月の第1次東トルキスタン独立運動で、新疆南部のカシュガル市で「東トルキスタン=イスラーム共和国」が樹立されたが、内紛のためすぐに崩壊し、その後は漢人の軍閥盛世才が実権を握り、イスラーム教徒への弾圧を続けた。 1944年にソ連に支援された「東トルキスタン共和国」が新疆北部のイリ市で樹立された。 この場合も社会主義国家と同時にイスラーム信仰は民衆動員の道具として掲げられていた。 新疆ウイグル自治区 1949年に成立したは、民族の独立を認めず、民族地域自治に止めようとし、1955年10月1日に「新疆ウイグル自治区」を設立した。 自治区にはすでに1957年に成立した自治区があったが、新疆ウイグル自治区は中華人民共和国樹立後最初の自治区設立であった。 次いで、58年に寧夏回族自治区と広西チワン族自治区が成立し、チベット反乱で遅れて、1965年に自治区が作られた。 以上の5自治区は、漢民族居住地域の省と同等の自治県を認められ、それぞれ自治行政府が置かれた。 新疆ウイグル自治区の人口の3分の2を占める人は、多くがイスラーム教徒で、かつてのオアシス都市から交易都市へと発展したその中心都市ウルムチには、多くのモスクが建てられ、漢民族とは異なった文化を有していた。 ウイグル人のほかに、同じトルコ系民族でイスラーム教徒のカザフ人やキルギス人、ウズベク人なども少数ながら含まれている。 中国当局は、独立を認めない代わりに、自治区行政政府に対する手篤い経済支援などを通じて懐柔するとともに、散発する独立運動を軍事、警察力で抑えていた。 しかし、1989年の東欧革命から始まった社会主義圏の民主化と民族国家の独立が進むと、その波は東トルキスタンにもおよび、特に1991年にソ連が解体して、隣接するのトルコ系民族が独立を達成したことの影響を強く受け、1990年代に新疆ウイグル自治区でもウイグル人の独立を求めるが強まり、さらに国際的なイスラーム原理主義のテロ活動と結びついて過激化し、しばしば暴動やテロが起こるようになった。 この問題はとともに現在の中華人民共和国の抱える深厚な問題となっている。 この動きを共通の脅威と受け取った中国・ロシアと中央アジア諸国は(SCO)を結成し、その取り締まりに共同歩調をとろうとしている。

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天山北路を行く2013/ジュンガル盆地(Dzungaria)編

ジュンガル

現在の新疆ウイグル自治区を含む中央アジアは、歴史的にはテュルク系の言語を話す人々の土地を意味する「トルキスタン」と呼ばれてきました。 トルキスタンはパミール高原を境に西と東に分けられ、現在中国領となっている新疆ウイグル自治区は「東トルキスタン」と呼ばれます。 中国の歴代王朝が本格的に東トルキスタンを支配することができたのは、満州人の征服王朝である清のときからです。 それ以前に中国の歴代王朝がこの地域を支配できたのは、漢と唐代の一時期、「西域都護府」と「安西都護府」を置いたときのみです。 中国政府は歴史上一貫して東トルキスタンを支配し続けてきたかのように喧伝していますが、これは事実と異なります。 中国の歴代王朝は東トルキスタンを「西域」と呼び、万里の長城によって境界を画し、「中国」とは異なる「化外の地(王権の及ばないところ)」とみなしていたことからも分かります。 現在東トルキスタンと呼ばれるこの地域の最初の住人は、イラン系・インド系のアーリア人でしたが、紀元前2世紀からは遊牧民族の匈奴や柔然、紀元6世紀からはテュルク系の突厥がこの地域を支配しました。 そしてこの地域をテュルク系民族が住む「トルキスタン」としていく主体となったのは二つのウイグル王国、西ウイグル王国(天山ウイグル王国)とカラ・ハン朝です。 両者とも現在のモンゴル高原にあった遊牧ウイグル帝国からの遺民が造った国です。 西ウイグル王国はそれまでの遊牧から定住へと生活様式を転換し、マニ教、仏教、景教などを受容し、独自の文化を展開していきました。 カラ・ハン朝は、王サトゥク・ボグラ・ハンのときにテュルク系民族として初めてイスラム教を受容したと言われており、東西へ向けてジハードを展開し、このときにカラ・ハン朝が支配したタリム盆地の西半部までが、イスラム化することになりました。 首都カシュガルは、イスラム的な文化の中心地へと生まれ変わり、芸術、科学、文学などが繁栄しました。 このテュルク系イスラム文化の先駆であり、また最も偉大な文学作品であるのが、ユスフ・ハス・ハジプの「クタドゥグ・ビリク(幸福になるための知恵)」と、マフムード・カシュガリーの「ディーワーン・ルガート・アッテュルク(テュルク語大辞典)」です。 その後世界的な大帝国であるモンゴル帝国がこの地域に進行してときには、ウイグル人はあえて武力的抵抗をせず、彼らの頭脳として働くことを選びました。 ウイグル人は「モンゴル統治の教師」と言われる程に、その経験と知識を存分に用い、さらに世界各地に出向いて貿易に従事し、ウイグル商人として名を馳せました。 モンゴル帝国はその後分裂し、その後継国である東チャガタイ・ハン国、次いでセイディヤ モグーリスタン ・ハン国、ヤルカンド・ハン国の順でモンゴル系王朝が東トルキスタンを支配しました。 東チャガタイ・ハン国の後半から、モンゴル支配層は言語的にウイグル語を受容し、宗教的にイスラム教を受け入れ、基本的にウイグル化が進んでいました。 セイディヤ・ハン国の王族や貴族達は殆どウイグル化していました。 なお、このセイディヤ・ハン国のときに、タリム盆地全域がイスラム化しました。 この時代のタリム盆地の名目的な支配者はウイグル化したモンゴル人王朝のセイディヤ モグーリスタン ・ハン家でしたが、実際に諸都市の実権を握っていたのはホジャと呼ばれるイスラム宗教貴族でした。 その後、西モンゴル族(オイラト)の一部族であるジュンガル部が、次第にこの地域に支配の手を伸ばしてきました。 ジュンガル帝国三代目ハンのガルダン・ハンの統治下で、帝国はその支配域を大いに広げました。 彼はチベット仏教の活仏と認定され、幼少期をダライ・ラマ五世の下で過ごしていました。 ダライ・ラマ五世はガルダンを強く支持し、ガルダンはこれに応え、チベット仏教の守護者として戦いに臨み、東トルキスタン全域からモンゴル高原西部にいたる大遊牧帝国を築き上げました。 その後東モンゴル族のハルハ部も破りましたが、ハルハ部が清に援助を求めたことで、ジュンガル帝国と清朝とが全面対決することになりました。 清による東トルキスタンの支配は、ジュンガル帝国との攻防を繰り返した後、1755年に乾隆帝によって成されました。 この時のジュンガル帝国滅亡は、清軍が持ち込んだ天然痘と相まって、壊滅的なものとなりました。 続いて1759年には、タリム盆地のヤルカンド・ハン国も滅ぼされましたが、このときに西トルキスタンに逃げ延びたホジャの子孫が、失地回復のための聖戦を後に繰り返すことになります。 このようにしてジュンガル盆地(準部)とタリム・イスラム地域(回部)を手に入れた清は、両部をあわせ「新彊」、つまり新しい辺境の領土、と名付けました。 清朝の支配は、将軍や大臣の下に各都市の首長をウイグル人が務めるという、比較的自治に近いものでした。 これはチベットの支配でも同様であり、圧倒的多数の漢人を少数派の満州人皇帝が抑えるために、チベット人、ウイグル人を味方につけるための優遇措置であったと考えられます。 このような統治もあり、19世紀前半から60年ほど東トルキスタンは平穏であったと言われます。 19世紀半ばから、清朝内地では、イスラム教徒による反乱が頻発しました。 このイスラム教徒の反乱に刺激され、さらにホジャによる失地回復の聖戦とそれを支援するウイグル人の奮闘の結果、西トルキスタンのコーカンド・ハン国の将であったヤクブ・ベクが、この地域にカシュガル・ハン国を建てました。 これにより東トルキスタンは再びテュルク系民族によるイスラム政権が樹立することになったのです。 対外的にもロシア、イギリスと通商条約を結び、オスマン・トルコを宗主国とするなど、その存在は国際的にも認められていました。 しかしこの国も1877年、清の将軍である左宗棠の侵略により滅び、東トルキスタンは再び清の支配されるところとなりました。 1884年には新疆省となり、内地と同様の道州府県が置かれ、清によって直接統治されることとなりました。 なお、1840年頃から20世紀初頭の中央アジアは、イギリスとロシアの勢力争いの場となっていました。 また英露をはじめヨーロッパ諸国や日本の探検家による調査も行なわれるようになり、中央アジアのさまざまな地理的、歴史的な発見がなされました。 また、ロシア内部や西トルキスタンのテュルク系ムスリム知識人の中からは、ロシアの圧迫への反発から、近代的改革の動きが生まれました。 彼ら知識人が普及に努めた近代的教育方式(ウスリ・ジャディード)に由来し、この運動をジャディード運動といいます。 これと期を同じくして、東トルキスタンでもジャディード運動が起きました。 近代化による、商業の国際化、工業の発展のためには、科学的な知識や技術を身につけた人材が必要となります。 それまでのイスラム教の寺子屋のような初頭教育施設だけでは十分な教育は施せない、民族のアイデンティティが脅かされると危機感を抱いた人々は、新方式の学校を建て、イスラム教の宗教教育の他にも、読み書きや計算、歴史、近代科学を教えるようになりました。 当時の先進地であったクリミア・タタールやトルコのイスタンブールなどへ留学生を出したり、当地の教師を招聘するなどして、民族の教育に尽力しました。 有名な教育者としてはアブドゥルカーディル、スポンサーとしてはムーサー・バヨフ家などがいます。 彼らの思想は、汎トルコ主義・汎イスラム主義であるとして、中国の安定を脅かす危険な思想とみなされて弾圧を受けるようになりました。 ジャディード運動を行った知識人の中には、後の東トルキスタン共和国の成立に大きな役割を果たした者もいます。 新疆省になってから清朝滅亡までの30年間は、比較的小康状態が保たれましたが、1911年には辛亥革命によって清が滅び、中華民国が成立しました。 このときに外モンゴルは独立してソ連の衛星国となり、チベットは紆余曲折をたどって事実上の独立国となりました。 そしてそれに遅れること約20年、東トルキスタンでも侵略者を追い出し、自らの土地を取り戻そうという動きが高まってきました。 中華民国成立時の新疆政府は、名目上は南京の政府の配下に置かれていましたが、実質は漢人の軍閥によって支配されていました。 清末期から続いていた東トルキスタンへの漢人の大量移住と彼らからの差別や抑圧、また同化政策によって、テュルク系諸民族の間には不満と怒りが鬱積しており、きっかけがあれば一気に爆発する状態になっていました。 そして、1931年3月にクムル(ハミ)で起きた蜂起が、東トルキスタン全土に飛び火しました。 その混乱の最中、1933年初めホータンでムハンマド・イミン・ブグラが主導した蜂起は、同時に起きたカラシャール、クチャ、アクスの蜂起と合流し、11月カシュガルにて「東トルキスタン・イスラム共和国」の独立宣言を出すまでに至りました。 大統領にはホジャ・ニヤズ、首相にはサビト・ダ・ムラーが擁立されました。 しかしこの国家は、民族間の対立で連携が崩れたことと、中国国民党の弾圧やソ連の干渉、回族軍閥の侵略によって1934年春に終焉を迎えました。 1931年から1934年にかけての反乱と独立運動はいずれも失敗に終わりましたが、この頃の東トルキスタン情勢について日本政府は強い関心を持っていました。 国外に亡命した東トルキスタン・イスラム共和国の指導者たちに対し、日本政府は積極的に接触し、現地の情報を集めていました。 指導者の中には東京まで亡命してきた者もいました。 彼らは日本の支援を受けて独立運動を継続しようと考えていたようですが、その後日本政府が東トルキスタンに対しての関心を失ってしまったため実現しませんでした。 それから10年後の1944年11月12日、新疆省主席が左遷された混乱時に、テュルク系民族による民族解放組織がイリのグルジャ市で「東トルキスタン共和国」の独立を宣言しました。 主席はイリハン・トレで、閣僚は諸民族から成っていました。 ソ連軍人の援助を受けた東トルキスタン軍は、イリ地区、タルバガタイ地区、アルタイ地区を掌握しました(中国共産党はこれを三区革命と呼ぶ)。 1945年9月にはウルムチの郊外にまで迫りましたが、突然進軍を停止しました。 これは8月のヤルタ会談の際に行われたソ連と中国国民党との密約で、外モンゴルの独立・満州の権益と引き換えに、中国が東トルキスタンを支配するという交換条件が結ばれていたためです。 武力による独立闘争に代わって和平交渉が始まり、ソ連の仲介によって、1946年に東トルキスタン政府とウルムチの国民党政府との間に和平協定が締結されました。 これにより、お互いの閣僚を出し合った新疆省連合政府が成立したものの、やがて分裂し、旧東トルキスタン政府の閣僚は全てイリに戻り自治を宣言しました。 そして1949年、国共内戦を制した人民解放軍が迫る中、ソ連の斡旋によって、イリの自治政府は中国共産党との協議を決定しました。 8月に開催される会議に参加するため、政治的指導者たちは北京に向かいましたが、途中行方を絶つことになりました。 一説にはソ連に連れ去られ殺害されたとも言われています。 政治的指導者を失った東トルキスタンは、1949年12月人民解放軍によって「解放」され、1955年に新疆省から新疆ウイグル自治区へと名称を変え、現在に至っています。

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