ナイアガラ の 滝 事故。 ナイアガラの滝での転落事故はほとんどない?|過去事例から考える危険性

【ナイアガラの滝】アメリカ滝とカナダ滝の場所と見所、実は世界遺産じゃない!│ジャングルタイムズ

ナイアガラ の 滝 事故

コメント• : ニコニコ名無し : 2015-11-26 21:31:00 ID: NTY1ZGIy 名前ググったらバカ面がでてきた これは運命ですわ• こいつ頭悪すぎ• : ニコニコ名無し : 2015-11-27 00:51:52 ID: YWJkMjNl まぁ死因はあれだけど気の毒だな まだ若いのに• : ニコニコ名無し : 2015-12-26 01:37:09 ID: YzJjMDIw 海外でマナー悪いのは中国人か日本人のふりしたかの人達でしょ。 自分海外にいたけど騒いでないアジア人が日本人だったけど。 : 名無し : 2016-03-27 01:45:06 ID: NWYxNzU0 お前それ日本特有の学生時代のノリのまま大人になった奴等の前でも同じ事言えんの?• : 以下、名無しがお送りします : 2016-03-29 23:09:32 ID: MzQwNzlk 言える。 日本人のなかでも民度低いのと中国韓国人の普通の奴らでやっと同じレベル。 これガチ• : 名無し : 2016-04-24 03:13:57 ID: ZTAyZGNi ルーマニアのもバカ女の自業自得でしょw 同い年の同性でも呆れ返ったわ• : 名無し : 2016-09-25 05:38:26 ID: NzE4YzVh 海外にいたけど日本人は大人しいほうで騒いでんの大体中国だったけどなぁ 日傘が惜しかったなんて誰が言ったの?とっさに正しい行動が出来ないことくらいあるでしょ.

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原尻の滝はまさに東洋のナイアガラ!/大分 [名所・旧跡] All About

ナイアガラ の 滝 事故

3月11日午後2時11分、30代の男が壁を乗り越えナイアガラ川に飛び込み、55メートルもあるナイアガラ滝(カナダ滝)から落下した。 観光客の通報を受けて警察と消防隊が出動したとき、男は意識があり、波の中で泳いでいたが、転落したときの衝撃で衣服がはだけ、裸だった。 救助隊は川岸から棒を伸ばしたが、男は反対方向へ泳いで行った。 警察はヘリコプターを呼んだ。 男が飛び込んだ20分後にヘリが到着し、操縦士のルエディ・ヘイフンは男の腕に縄をかけた。 だが男は縄をほどき逆方向へ泳ごうとした。 ヘイフンはハーネスを下ろし、掴まるよう説得したが、男は「あっちへ行け」と叫び拒絶した。 そこでヘイフンは、ヘリの風力で波を作り、男を岸へ押し出した。 岸からおよそ20メートルの位置に消防士トッド・ブラニングが待ち受け、男をついに救助した。 男が飛び込んでから45分後のことだった。 男はハミルトン総合病院に運ばれたが、低体温症と頭部の負傷のほか、大きな怪我はなく生命の危険はない。 警察は男の身元を割り出し、オンタリオ州の30代の男性と発表したが、氏名は公表されていない。 ヘイフンは「27年勤めているが、滝から落下して生還したのはこの人だけだ」と語った。 男は防護装置なしでナイアガラ滝を落下し、生還した3人目となった。 うち1960年に落下したロジャー・ウッドワードは救命胴衣を着用していたため、衣服のみで落下し生還したのは、2003年のカーク・ジョーンズに次いで2人目である。 サム・パッチが1829年、ナイアガラ川で飛び込みショーを敢行して以来、何人ものデアデビルたちが滝周辺で様々なスタントを行ってきた。 彼らは例外なく、命を賭けて金と名声を手に入れようと試みたが、実際にそれを手に入れたものは皆無である。 今日では滝下りは法律で禁止されており、違反者には1万ドルの罰金が科せられることになっている。 デアデビルたちは初め滝上での綱渡り、滝の上流を泳いで横断、舟や樽で横断、滝下へのパラシュート降下などバラエティに富んだスタントを敢行したが、1901年アニー・テイラーが初めて樽に乗り滝から落下して生還し、以後このスタイルがデアデビルの王道として模倣されることになる。 樽に乗って落下したときの生還率は意外に高く、16回のうち11回、成功率は69%である。 挑戦者は前例によく学び、今では確実に生還できる方法がほとんど究明されている。 以下に16人のデアデビルを列挙するが、生還することを前提に滝上から滝下に自由落下するスタントを行った者のみを掲げた。 ナイアガラ滝では年間十数人の投身自殺があるが、生還した者は一人しかなく、デアデビルには含めていない。 また誤ってナイアガラ川に落ち、滝下に落下したロジャー・ウッドワードについても、スタントではなく事故なので含めない。 [1] 1901年10月24日 アニー・テイラー(生還) [2] 1911年7月25日 ボビー・リーチ(生還) [3] 1920年7月11日 チャールズ・スティーブンス(死亡) [4] 1928年7月4日 ジャン・ルシエ(生還) [5] 1930年7月4日 ジョージ・ストラサキス(死亡) [6] 1951年8月5日 ウィリアム・ヒルJr. 1820年代には、滝の周辺に3つのホテルがあった。 3人の経営者たちは、人々の注目を集め観光客を動員できるイベントを考えた。 パビリオン・ホテルのウィリアム・フォーシスは、老朽化した帆船ミシガンを購入し、動物たちを乗せて滝から突き落とすショーを発案した。 彼はこのために野牛1頭、熊2頭、アライグマ2匹、犬1匹、ガチョウ1羽を集め、オンタリオとニューヨークにチラシを撒き、1万人の観客を動員した。 こうして1827年9月8日、史上初の滝下りスタントが行われた。 船は滝近くの急流に達すると浸水したので、熊2頭は川に飛び込みゴート島まで泳いで避難した。 だがその他の動物たちは檻に入れられていたか鎖に繋がれていたので、船が滝から落下したとき生き残っていたのはガチョウだけだった。 彼は1829年10月7日、ゴート島に梯子で38メートルのジャンプ台を作った。 だが梯子の一部がはずれ、その高さは26メートルとなった。 彼は予定より4時間遅れてナイアガラ川へのダイビングを成功させた。 しかし遅れと悪天候のため、パッチは十分な人数の観客を集められなかった。 そこで10月17日、今度は1万人の観客を集め、40メートルの高さからのダイビングを成功させた。 1829年11月13日(13日の金曜日)、彼はニューヨーク州ジェネシー川の滝上からのダイビングに挑んだ。 滝の落差は30メートルだが、彼は8メートルの飛び込み台を作り、滝下へとダイビングした。 ところが彼は、その後姿を見せなかった。 人々はパッチがどこかに隠れて、自分が死んだという噂が立つのを楽しんでいるのではないかと噂した。 しかし翌年春、彼の凍った遺体がシャーロットで発見された。 新聞は、パッチをダイビングに駆り立てた群集を非難した。 彼は1855年にアメリカに移住し、1859年6月30日、史上初となるナイアガラ滝の上での綱渡りショーに挑んだ。 彼はこのために、直径7. 6センチ・長さ335メートルのロープを水面から50メートルの高さに、今日のプロスペクト・パークからオークス・ガーデンまで張り、20分で渡り終えた。 彼はこのとき、バランスを取るため長さ9メートル・重さ18キロの棒を持っていたが、1859年の夏には、さらに8度の綱渡りを成功させた。 一度は目隠しして、一度は袋を被り、一度は手押し車を押しながら、一度は自転車に乗りながら、一度は両手を縛り、一度は宙返りして、一度は途中で座りこみオムレツを焼いて食べた。 最も印象に残ったショーは、マネージャーのハリー・コルコードを背負って綱渡りをしたことだが、コルコードは後にこの経験を「悪夢」と語った。 ブロンディンが休憩するため、彼は綱の上に降ろされたが、ブロンディンは大量の汗をかいていて滑ったからである。 最後は綱が切れそうになり、駆け足になった。 彼は72歳で天寿を全うし、この世を去った。 写真左:ナイアガラ滝での綱渡りに挑むブロンディン。 写真右:ハリー・コルコードを背負うブロンディン。 海軍に入り、蒸気船エメラルドの船長となり「キャプテン・ウェッブ」と呼ばれた。 1875年8月24日、世界で初めてイギリス海峡を泳いで横断した。 1883年7月24日、彼はナイアガラ川の急流を泳いで横断しようと試みた。 成功したら2000ドルの報酬を手にする約束だった。 彼は救命胴衣なしで、赤い水着だけを着てボートから川に飛び込んだ。 だが2分もしないうちに渦に巻き込まれ、姿が見えなくなった。 彼の遺体は4日後に下流で発見され、デアデビル最初の犠牲者となった。 彼はニューヨーク州ナイアガラ・フォールズのオークウッド墓地に、成功したデアデビルたちとともに葬られている。 ブロンディンが1859年、史上初となるナイアガラ滝での綱渡りショーを成功させたのを目撃したとき、ピアは地元ナイアガラ出身者として、初めて綱渡りを成功させることを夢見た。 彼は曲芸師ヘンリー・ベリーニの弟子になったが、彼の同意なしにナイアガラ滝での綱渡りショーを行おうとした。 ベリーニは密かに、ロープを切ってじゃましようと画策したが、計画は露見し、町から追放された。 1887年6月22日、ピアはファールプール橋とペン・セントラル橋の間に張った直径15ミリのワイヤーの上で一往復の綱渡りを成功させた。 だが彼の名声は、長くは続かなかった。 3日後の6月25日、ピアはナイアガラ川の岸で死体となって発見された。 状況から彼は、酒を飲んだ後、視界の悪い夜に綱渡りを行い転落したものと推測された。 アメリカの樽製造業者カーライル・グレアムは1886年7月11日、ナイアガラ滝下の急流を樽に乗って横断した最初の人になった。 1886年8月19日には、今度は樽の外に頭を出して横断したが、聴覚を失った。 1901年9月7日には、友人モード・ウィラードと共同のスタントに挑んだ。 ウィラードは樽に乗り、グレアムは泳いで急流を横断しようと試みた。 だがウィラードの樽は渦に巻き込まれてしまい、グレアムは単独で泳いで横断した。 5時間後に樽を引き上げたとき、樽に開けた空気穴からペットの犬が鼻を出していたため、犬は無事救助されたが、ウィラードは窒息死していた。 ニューヨーク州オーバーンに生まれ、結婚して子宝にも恵まれたが、二人とも先に亡くなった。 ミシガン州ベイ・シティで教師として勤めながら、ダンスを教えていたが、彼女が年をとるにつれ生徒も減っていった。 貧しく孤独だった彼女は、貧困をはねかえすため樽に乗り、ナイアガラ滝を落下するスタントを思いたった。 1901年10月24日、自称「46歳の誕生日」に彼女は、長さ137センチ、中央部の直径86センチ、重さ73キロの樽に入り、マットレスを敷き、自転車用空気入れで空気圧を30p. にした後、ナイアガラ川を漂流し、滝から落下した。 彼女は額をかすかに切っただけで無事生還した。 彼女は「もう誰もこんなことはするべきでない。 大砲の中に入る方がましだ」と語ったが、彼女が考案した、樽に乗り滝を自由落下するスタイルは、デアデビルの王道としてその後何人もの人に模倣されることになった。 金と名声を求めて命がけのスタントを行った彼女は、講演旅行で一儲けしようと企んだが、マネージャーが樽とともに消えた。 彼女は樽を取り戻すため、莫大な資金をつぎ込んだ。 後に樽を取り戻した彼女は、ナイアガラ滝付近の路上で写真を売って生活したが、彼女が求めた莫大な財産はついに得られることはなかった。 写真左:滝下りに挑むテイラー。 写真中:救出されたテイラー。 写真右:ナイアガラで写真を売るテイラー。 [2] ボビー・リーチ(1911年7月25日/生還) ボビー・リーチは、イギリスのコーンウォリスに生まれたスタントマンだった。 彼は、ナイアガラ滝での「トリプル・チャレンジ」を達成する最初の人になろうと決心した。 それは、 1.急流を横断し渦の中で樽に乗る 2.樽に乗り滝から落下する 3.アッパー・サスペンション・ブリッジから急流の上流にパラシュートで降下する というものだった。 1908年7月1日、彼はアッパー・スチール・アーチ・ブリッジからのパラシュート降下に成功した4人目となった。 1910年夏には、急流を泳いで横断し、渦の中で樽に乗るスタントに挑戦した。 だが樽は渦の中で立ち往生し、樽に付けた碇も、岩に何度も衝突して切れてしまった。 気絶したリーチは、ウィリアム・レッド・ヒルSr. に救助された。 1911年7月25日には、樽に乗り滝から落下するスタントに成功した。 彼は本番の前に何度も樽をテストし、最終的に鋼鉄製の樽を用意した。 急流の中で彼の樽は何度も岩に激突し、リーチは頭と耳に切り傷ができたほか、顎と両方の膝蓋骨を骨折し全治6か月の重傷を負った。 1920年7月1日には、飛行機からパラシュートで滝近くのとうもろこし畑に降下するスタントを行い、1925年10月10日にも同様のスタントに成功した。 彼はアニー・テイラーの失敗に学び、ブリッジ・ストリートのレストランを買収して、自己宣伝に努めた。 それから世界各地を巡る講演旅行を行い、樽を展示して、写真を撮らせることで生計を立てた。 ところが1926年、ニュージーランドでの講演旅行のとき、数々のスタントで成功を収めた彼はオレンジの皮で足をすべらせ、転倒し脚を骨折した。 リーチは壊疽した脚を切断する羽目になったが、間に合わず病院で死亡した。 [3] チャールズ・スティーブンス(1920年7月11日/死亡) チャールズ・スティーブンスは11人の子を持つイギリスの床屋で、生活苦から抜け出すために、ダイビングやパラシュート降下などのスタントを行った。 彼は、樽に乗り滝から落下する3人目になるため、ナイアガラに来た。 だが彼の樽が重いのを見たボビー・リーチは、樽の落下テストをするよう強く勧めた。 だがスティーブンスは過去の挑戦者たちと異なり、頑迷な人で、リーチは自分の成功を阻止しようとしていると思い込んだ。 リーチは、ナイアガラの救助隊員ウィリアム・レッド・ヒルSr. に説得を依頼した。 ヒルの説得により、スティーブンスはしぶしぶ酸素タンクを入れ、詰め物を入れた服を着た。 彼は救命胴衣もマットレスもなしに、スタントを敢行しようとしていた。 樽の内部には紐があり、スティーブンスが両手を縛りつけたのを見て、リーチとヒルは目を疑った。 やがて彼を乗せた樽がナイアガラ川を下り始めたのを見届けると、リーチはこのあと起こる悲劇を見るのを避けるため、その場を立ち去った。 滝から落下した樽に救助隊が向かったが、その中にスティーブンスの姿はなかった。 樽の中には、紐で結ばれた彼の右腕だけが残されていた。 [4] ジョゼフ・アルベール・ジャン・ルシエ(1928年7月4日/生還) ジャン・ルシエは、それまでの木製の樽や鉄製のドラムに代わり、膨らませたゴムボールに入りナイアガラ滝から落下した最初の人である。 彼はマサチューセッツの雑貨店で働いていたとき、チャールズ・スティーブンスの悲劇を知った。 そしていつしか、自分もナイアガラの滝下りに挑戦したいと思うようになった。 そこで彼は、鋼鉄のバンドに覆われた直径1. 8メートルの巨大なゴムボールを作り、衝撃吸収用に内部に空気の入った32本のチューブを配置した。 そして天地がひっくり返らないよう、底に68キロの底荷を敷いた。 さらに滝下の乱水流に巻き込まれた場合に備え、酸素を40時間充填するバルブも設置するなど、周到に準備した。 1928年7月4日、滝から落下したルシエは、軽い切り傷を負っただけで生還した。 彼はその後、観光客にゴムボールの破片を販売した。 写真左:滝から落下しようとするルシエのゴムボール。 円内はルシエ。 写真右:ゴムボールから救出されるルシエ。 [5] ジョージ・ストラサキス(1930年7月5日/死亡) ジョージ・ストラサキスはギリシャに生まれ、アメリカに移住した。 彼はバッファローで調理師として働いていたが、修験者として修行を積んだ彼は、「千年前にアフリカのエブラハム川のほとりで生まれた」という自分の神秘体験を出版することを夢見て、その費用を捻出するためナイアガラの滝下りショーを敢行し、その映像の権利を売ろうと目論んだ。 ルシエの成功にもかかわらず、ストラサキスは長さ3メートル、直径1. 5メートル以上、重さ1トンもある木製の樽を作った。 レッド・ヒルSr. は、樽が重すぎて危険だと警告したが、ストラサキスは耳を貸さなかった。 ただ渦に巻き込まれた場合に備え、酸素を3時間供給するシステムを用意した。 1930年7月5日、独身のストラサキスは、唯一の友である亀の「ソニー」とともに樽に入り、ナイアガラの滝下りに挑んだ。 彼は、もし自分が死ぬようなことがあっても、ソニーが奇跡を語るだろうと予告した。 ストラサキスの樽は滝から落下したとき、壊れることもなく、無事なように見えた。 だがこれまでの挑戦者たちがみな瀑布の外側に落下したのに対し、ストラサキスの樽は瀑布の内側に落下し、渦に巻き込まれた。 そのため救助隊は樽に近づくことができず、救出したのは落下の20時間以上もあとのことだった。 ストラサキスは無傷で発見されたが、息はなく、窒息死していた。 亀のソニーは奇跡的に生還したが、何も語ってはくれなかった。 写真左:ストラサキスの樽。 写真中:樽を回収し、中を覗き込む救助隊。 写真右:奇跡を体験したソニー。 推定年齢150歳。 [6] ウィリアム・ヒルJr. (1951年8月5日/死亡) ウィリアム・ヒルJr. は、有名なナイアガラの救助隊員ウィリアム・レッド・ヒルSr. の息子である。 彼は父がナイアガラで117の遺体を回収するのを手伝い、単独で28の遺体を回収した。 ヒルJr. は、1945年7月8日に最初のスタントを敢行した。 彼は20万人の群衆が見守る中、長さ1. 8メートル・重さ327キロの鋼鉄の樽に乗り、渦の中に入ったのである。 2度目のスタントは、1948年9月6日であった。 今度は重さ450キロの樽に入り、渦の中で1時間以上飛んだり跳ねたりを繰り返した。 彼は負傷したものの、命に別状はなかった。 ヒルJr. は2度のスタントで名声を得たが、富には恵まれなかった。 ヒル家が所有していた3個の樽は、2900ドルで売却された。 ヒルJr. は再度のスタント決行を迫られた。 資金が不足していたため、安価な樽を造る必要があったのである。 1951年8月5日、彼は初めて滝上からの落下スタントを行った。 だが彼の樽が滝から落下すると、水の圧力により樽がバラバラに分解していくのが見えた。 見物人は樽が川に着水する前に、スタントは失敗に終わったと気づいた。 ヒルの遺体は翌朝発見された。 額には大きな裂傷が走り、下半身はほとんど潰されていた。 写真左:ヒルJr. が使用した鋼鉄製の樽。 写真右:The Thingに入るヒルJr.。 それは7. 5馬力のモーターボートで、ホースシュー滝の上流8キロの地点だった。 ところが、滝の上流1. 5キロ付近でモーターが故障し、動作しなくなった。 エンジンを調べると、プロペラの留め金がねじ切れていた。 ハニーカット氏は死にもの狂いで岸に向かって漕ぎ始めた。 だが川の流れが速く、ボートは滝に向かって流されていた。 ハニーカット氏は、子供たちに救命胴衣を着用するよう指示した。 しかし彼自身は漕ぐ手を休めることはできず、救命胴衣を着用する時間はなかった。 滝の近くで、船はついに転覆した。 ディーンは咄嗟にボートにしがみついたが、ふり払われた。 彼女は下流に向かって流されながら、ゴート島の岸辺に立つ男性を見た。 彼女は幸運にも岸に向かって流されていた。 その男性ジョン・ヘイズ氏(44歳)は、滝の上流わずか6メートルの位置で彼女の指をつかみ、助けを呼んだ。 するとこれを聞いたジョン・クワットローチ氏(39歳)がただちに駆けつけ、二人でディーンを引き上げることに成功した。 そのころハニーカット氏は、ロジャーを腕に抱いて滝から落下しようとしていた。 だがここに、もう一つの幸運があった。 滝下では霧の乙女号がちょうど接近していて、クリフォード・キーチ船長はオレンジ色の救命胴衣を着た人が落下してくるのを見たのである。 ただちにロープのついた浮き輪を投げ入れると、ロジャーには意識があり、元気に泳いでいた。 彼は、救命胴衣を着ただけで防護装置なしに滝から落下したにもかかわらず、軽い切り傷を負っただけだった。 ロジャーを最後まで守ろうとしたハニーカット氏は、4日後に遺体となって発見された。 写真左:霧の乙女号に救助されるロジャー・ウッドワード。 写真右:現在のロジャー・ウッドワードとディーン・ウッドワード。 [7] Nathan Boya(William Fitzgerald)(1961年7月15日/生還) ニューヨーク州ブロンクス出身のネイサン・ボウヤと名乗る男は、ナイアガラ滝から自由落下して生還した最初の黒人となった。 彼が乗った直径6フィートの巨大なゴムボールは鉄骨で作られ、鉄骨はさらに6層のゴムで保護されており、重さは1200ポンドであった。 彼は決行一週間前にジャン・ルシエに会い、十分な酸素を供給するよう助言されたので、ボール内に酸素の入った容器13個と、二酸化炭素を酸素に変換する装置を持ち込み、酸素を30時間供給できるようにした。 彼のボールが滝から転落したとき、岩に激突し表面に大きな窪みができた。 彼はそれまで、滝から転落したのを感じなかったという。 彼はわずかの切り傷と打撲を負っただけであった。 もし激突した個所がハッチだったら、惨事になっていただろう。 彼がボールのハッチを開けると、霧の乙女号が近づいてきてすぐに救出されたが、ただちに逮捕された。 彼は裁判で、罰金100ドルと裁判費用13ドルの支払いを命じられた。 1951年にウィリアム・ヒルJr. がスタントで死亡して以降、ナイアガラでの無許可のスタントは犯罪となっていた。 ボウヤは自営業者であるということ以外、個人情報の開示を一切拒否した。 ニュースで、彼はIBMに勤めるウィリアム・フィッツジェラルドではないかと報じられたが、本人は否定した。 ブロンクスには、「ボウヤ」という姓の住人は存在しないことがわかった。 彼は、この挑戦は金や名誉のためではなく、自分が成すべきことを成したのだと語った。 彼はボールの中に「暗闇の窪みから光の中へ踏み出せ」と書かれた旗を持ち込んでいたが、その意味について説明することを拒否した。 ナイアガラでのスタント成功後、ボウヤは公の場に姿を見せなくなった。 彼は医学博士号を取得し、医師になったという。 2012年、彼はナイアガラ・デアデビルのテレビ番組に出演し、50年前のスタントの理由を明かした。 彼には婚約者がいて、ナイアガラに新婚旅行に行くはずだったが、婚約破棄してしまい、その償いのためスタントを行ったのだと語った。 写真左:病院に収容されたネイサン・ボウヤ。 写真右:霧の乙女号に引き揚げられるボウヤのボール。 [8] Karel Soucek(1984年7月2日/生還) カレル・ソウセクは1947年、チェコスロバキアに生まれた。 彼は1976年7月22日、ナイアガラ川にかかるエアロカーのケーブル上をバイクで走行しようとした。 だが6メートル進んだところでボルトに激突し、失敗に終わった。 命綱のおかげで、彼は助かった。 1977年6月11日、今度は樽に乗りワールプール早瀬の横断に成功した。 1984年7月2日には、樽に乗り滝上から自由落下するスタントに挑戦した。 この挑戦は23年ぶりのことであり、彼は決行1年前から自分を「ナイアガラ最後のデアデビル」と宣伝した。 彼が用意した樽は長さ9フィート・直径5フィートで、足から落下するよう樽の一方を軽金属、もう一方をプラスチックの骨で造った。 彼の樽が滝から落下したとき、左腕に着けていた腕時計が何度も顔に当たり、切り傷を作った。 樽はおよそ45分間漂流し、何度か岩に激突したが、深刻な傷はなく、酸素は充分あった。 救出された彼は病院に収容され、その後500ドルの罰金刑を宣告された。 彼はさらに、樽の製作費として1万5000ドル、スタントを撮影するのに3万ドルを費やしていたが、その後のインタビューなどの売上げですぐにその出費を回収した。 彼はナイアガラ・フォールズに、自分の博物館を建設することにした。 だがその建設費を捻出するため、再度のスタント敢行を余議なくされた。 それはヒューストンのアストロドームで、彼の入った樽をクレーンで屋根まで吊り上げ、水を張った長さ10フィートのプールに落とすというものだった。 スタントマンのイベル・ニーベルは、これを「私が知る最も危険なスタント」と言い、実行しないよう警告した。 1985年1月19日、4万5000人の観衆が見守るなか、スタントは敢行された。 ソウセクの樽はプールの中央に入らず、樽の淵をプールサイドに打ちつけた。 樽を保護するためのパッドをプールの底に取り付けておいたはずだったが、途中で外れ浮いてしまい、樽は底に強く叩きつけられた。 樽から出たソウセクは重傷を負い、まだ息があったが、すぐに死亡した。 写真左:滝に向かって下るソウセクの樽。 写真中:病院に収容されたソウセク。 写真右:ソウセクと、彼の墓。 最初の挑戦は、1984年11月12日だった。 樽が滝から落ちる前に岩に乗り上げてしまい、失敗に終わったうえ罰金500ドルを科された。 2度目の挑戦は、1985年8月16日だった。 樽を川に入れようとすると、すぐにカナダの警察が来て阻止された。 彼は国境まで警察に付き添われ、国境を超えたところで解放された。 3度目の挑戦は、2日後の8月18日だった。 樽は2つの漬け物樽で作られ、長さ4. 5メートル・直径1. 8メートルあった。 表面はファイバーグラスで覆われ、その上を防水布で覆い、さらにトラックのタイヤ用チューブで補強されており、「レーガンを支持しよう」と書かれていた。 樽が滝から落下すると、片側が大きく損傷し、ハッチは吹き飛ばされた。 トロッターは樽から泳いで脱出し、霧の乙女号に救助された。 22歳での生還は、史上最年少であった。 トロッターの写真は「タイム」「USAトゥデイ」などに掲載され、「世界で最もセクシーな男性10人」の一人に選ばれた。 それから10年後、1995年6月18日の父の日に、彼は再びナイアガラを訪れスタントを敢行した。 今度は、アトランタ出身のガールフレンド、ローリー・マーチンを伴っていた。 樽はケブラーで覆われた2つの温水タンクで作られ、空気を90分供給できる4つのタンクを備えていた。 スタントは成功したが、トロッターは背骨を骨折した。 彼は、父の日の贈り物としてスタントを行ったと語った。 二人は滝から自由落下して生還したデュオとして2例目、男女のデュオとしては世界初となった。 だが警察にとってこれはトロッターの4度目の挑戦であり、今度は罰金1万4700ドルと禁錮2週間を言い渡した。 トロッターは1985年11月、今度はカリフォルニア州サンフランシスコのゴールデン・ゲイト・ブリッジで、「ターザン・スイング」の世界記録を作った。 54メートルのケーブルを橋の中央に取り付け、それから54メートル先へ移動してから、飛び降りた。 ケーブルの端には木製の板が取り付けられおり、彼はそこに座って何度も振り子のように揺れた。 このスタントの結果、彼は不法侵入の罪で投獄された。 トロッターとローリーは1997年、フロリダ州タンパベイのサンシャイン・スカイウェイ・ブリッジで5人バンジージャンプに挑んだ。 メンバーはスティーブ・トロッター、ローリー・マーチン、グレン・ローム、ジェフ・サージェント、スティーブ・バンカーの男性4人・女性1人で、合計体重は410キロだった。 ケーブルは635キロの負荷に耐えられるようになっていたため、彼らは大丈夫と考えたが、それは静止している物体の場合であった。 メンバーの中に物理学を専攻した者はいなかったし、計画は事前にテストされなかった。 しかもスタントは無許可だったため、救急隊は待機していなかった。 5人は合図に合わせて、同時に橋から飛び降りた。 彼らが加速をつけて降下し、時速110キロに達したとき、ケーブルの負荷は1200キロにも達したと思われる。 ケーブルは切れ、5人は時速110キロで互いに衝突しながら、21メートル下の海面に飛び込んだ。 トロッターが水面に出たとき、ローリーとグレンがうつぶせに浮いているのを見た。 唯一怪我のなかったスティーブ・バンカーが、二人をひっくり返して仰向けにした。 ローリーは首を骨折していて、息がなかった。 グレンは首と肩を骨折していたにもかかわらず、ローリーが呼吸を回復するよう尽力した。 トロッターとジェフは軽傷だった。 グレンは重傷で、頭部を支えるために頭蓋骨に穴を開け、金属製のボルトを埋められた。 トロッターは、もう二度とスタントはしないと誓った。 [10] John David Munday(1985年10月5日/生還・1993年8月26日/生還) デビッド・マンデーは、オンタリオ州ケイスターセンターに生まれた。 彼は子供のころ、ナイアガラで飛び込みスタントを行ったロイド・ヒル少佐を遊園地で見て、ナイアガラでのスタントに強い憧れを抱いた。 ディーゼル機械工場に整備士として勤めたことは、樽の自作に役立った。 また彼はスカイダイビングのインストラクターで、ヘリコプターと飛行機の免許も持っている。 1985年7月28日、マンデーは滝の上流2. 5マイルの地点で樽に乗り、最初の滝下りに挑戦した。 だがそれを見ていた警官が水力発電所に連絡し、ダムの水位を1. 5メートル下げると、樽は岩に引っかかって停止し、失敗に終わった。 その2か月後の1985年10月5日、彼は再び滝下りに挑んだ。 彼はすり傷を負っただけで無事成功したが、ナイアガラ・パークでのスタントにつき罰金500ドルと、保護観察違反につき罰金1000ドルを科された。 8メートルの樽を発見し、差し押さえた。 マンデーの再度の挑戦は、阻止された。 その半月後の1987年10月11日、マンデーは樽に乗り、グレートゴージ早瀬とワールプール早瀬を横断して罰金500ドル・執行猶予2年の有罪判決を受けた。 1990年7月16日、彼は再び滝下りに挑んだ。 だが川の水は夜間は水力発電所に回されるため、朝は川の水位が低く、彼の樽は岩に引っかかった。 彼は泳げなかったため、救助隊に救出された。 彼は1993年9月26日、今度はカナダ沿岸警備隊から購入した300キロの潜水鐘を改造した樽で、史上初めて二度目の滝下りを成功させた。 彼は軽い切り傷を負っただけだったが、誤って酸素を供給する弁を閉じてしまい、霧の乙女号のクルーに救出されたときは気絶していた。 写真左:デビッド・マンデー。 写真中:1985年10月5日のマンデー1回目の挑戦。 写真右:1990年7月16日のマンデー2回目の挑戦。 だが薬物中毒から立ち直った彼は、子供たちが麻薬に手を出すことがないよう、アピールする必要を痛感した。 そこで考えたのがナイアガラの滝下りスタントだったが、1980年代にはこれが数多く行われ、珍しくなくなっていた。 このころには充分な前例があり、確実に生還する方法がほとんど究明されていたからである。 だが彼は、自分だけが目立つ絶好の方法を思いついた。 それは史上初となる、二人乗りでの滝下りスタントであった。 それから彼は、共同スタントに参加してくれる人をオンタリオで探し始めた。 拒否した人の中には、後に2度目の滝下りスタントを成功させたデビッド・マンデーもいた。 ドバーナディはようやくパートナーを見つけたが、土壇場になって辞退された。 そのとき代わりに見つかったのが、オタワ大学の学生だったジェフリー・ペトコビッチである。 二人が知り合ったのは、決行の8週間前であった。 彼らが用意した樽は、厚さ5ミリの鋼鉄で作られ、直径1. 4メートル・長さ3. 7メートル・重さ680キロで、方向を制御するため竜骨がついていた。 外が見えるようにプレキシガラスの窓があり、2つのタンクが酸素を90分供給できるようになっていた。 1989年9月28日、二人はホッケーのヘルメットを被り、狭い樽の中で顔と顔を見合わせて、滝の上流180メートルの位置で川に入った。 霧の乙女号に救出された二人は無傷だったが、ペトコビッチは酔っていた。 彼は、スタントはもうこれきりにしたいと語った。 いっぽうドバーナディは、今後のスタントも反麻薬チャリティとして、合法的に行いたいと語った。 スポンサーのケリー・マンキューソ氏は「樽に乗って滝を下ることは、麻薬漬けの人生を送るより簡単だということを示したかった」と述べ、スタントで得た収益は、「カナダ児童への麻薬撲滅協会」に寄付すると語った。 二人はそれぞれ罰金1500ドルを科されたが、ドバーナディは「歴史に残る永遠の名を刻む費用としては安すぎる」と語った。 これを契機に、罰金は最高1万ドルに上げられ、樽は今後は没収されることになった。 1990年8月14日、ドバーナディは2度目の挑戦を決行しようとしたが、トラックに乗せた樽が警察に見つかり、阻止された。 写真左:二人のスタント成功を報じたナイアガラ・フォールズ・レビュー紙。 左の集合写真は右がドバーナディ、左がペトコビッチ、中央は樽の製作者デニス・ウィーブ。 写真右:滝から落下する寸前の樽。 [12] Jessie Sharp(1990年6月5日/死亡) ジェシー・シャープは、テネシー州オコエーに生まれた。 彼は経験豊富なカヤック選手だったが、失業していた。 そこで空前絶後のカヤック技術を披露するため、ナイアガラの滝を長さ3. 7メートル・重さ16キロのカヤックで下るという途方もないアイデアを思いついた。 彼は、己の妙技を夜ビデオに撮影するため、3人のプロカメラマンを連れてきた。 驚くべきことに、顔が隠れないよう彼はヘルメットを被らなかった。 さらに滝の下で逮捕されないよう、救命胴着も着用しなかった。 彼は「無事に」滝下りを終えたあと、グレート・ゴージ早瀬とワールプール早瀬をカヤックで超え、クイーンストンのドックまで行き、レストランで食事できるよう予約までしていた。 彼はクラス4の早瀬を経験していたが、ナイアガラの早瀬はクラス6であった。 1990年6月5日、彼はダファリン諸島の近くでナイアガラ川に入った。 発電所の係員が彼を見つけ、水位を下げようとしたが、間に合わず、シャープは滝の手間に来たとき、パドルを頭より上に上げた。 彼が滝から急降下するところまで撮影されたが、その後姿が見えなくなった。 カヤックは滝の真下で発見されたが、彼の遺体は見つからなかった。 写真左:ナイアガラ川を下るジェシー・シャープ。 写真中:ナイアガラの滝から転落寸前のジェシー・シャープ。 写真右:ナイアガラの滝から転落したジェシー・シャープ。 [15] Robert Overacker(1995年10月1日/死亡) ロバート・オーバラッカーは1992年7月、スタントを決行するためナイアガラに来た。 ジェットスキーでナイアガラ川を下り、滝を超えた瞬間にパラシュート降下しようというのである。 だが、ナイアガラでのスタントは逮捕され罰金を科されると知っていたので、彼は人けの少ない朝に決行しようとした。 ところが川の水は、夜間は水力発電所に回されるため、朝は川の水位が低く、岩がむき出しになっており困難だった。 彼は仕方なくあきらめ、家に帰った。 1995年10月1日、彼は兄弟や友人たちとともに再びナイアガラに戻って来た。 ダファリン諸島の近くで「ホームレスを救おう」と書かれたジェットスキーに乗り、十分に加速した彼は、滝の手前で見物人に敬礼すると、ロケット推進されたパラシュートを開いた。 だが彼はパラシュートを自分で着けなかったため、パラシュートは彼の体に固定されてなく、はずれて落下した。 オーバラッカーは滝の下に自由落下すると、手足を動かしたので生きているように見えたが、複雑な潮流が死体を動かしただけだったかもしれない。 彼の遺体は、霧の乙女号に引き揚げられた。 彼は現在のところ、最後の死亡したデアデビルである。 写真左:滝から転落するロバート・オーバラッカー。 写真中:ロバート・オーバラッカー。 写真右:ロバート・オーバラッカーが使用したジェットスキー。 両親は家のローンを支払うことができず、家を手放した。 ジョーンズは、もし自分がナイアガラ滝から落ちて生還できたら金持ちになれるかなと話したが、家族は誰も本気にはしなかった。 彼は2003年10月18日、友人とともにナイアガラ・フォールズを訪れ、中古のビデオカメラを購入した。 だが友人はビデオカメラの操作に不慣れで、ジョーンズの偉業を撮影できなかった。 テレビ関係者は、もし撮影できていたら3万ドルの価値があっただろうと語った。 そしてジョーンズは20日、ホースシュー滝(カナダ滝)の6メートル上流でフェンスを跨いだ。 観光客に笑いながら「そこから跳ぶつもりですか」ときかれると、彼は「そうです」と言ってそこから飛び降りた。 周囲の人々が騒ぐのが聞こえたが、川に仰向けに浮いた彼は、心穏やかに微笑んでいた。 そして彼は救命胴着なしに、衣服だけを着用して滝から転落した。 彼はその瞬間を「水に囲まれた巨大なトンネルを、真っ逆さまに下ったようだった」と語った。 彼は数秒後、水面に押し上げられた。 彼は自分が生きていることに気づくと、死ぬ考えはなくなり、もう一度生きてみようと決意し、自力で岩の上に上がった。 しかし救助隊が来るまで、そこから動けなかった。 彼はナイアガラ総合病院へ運ばれたが、肋骨の打撲を除けばほとんど無傷だった。 精神鑑定の結果、彼は責任能力ありと判断され、退院と同時に逮捕されたが、独房で警官に「1000ドルくれたら、特ダネを教える」と言っていた。 彼は「ナイアガラでのスタント」の罪で起訴され、罰金3000ドルと、救助活動のためアトラクションを45分間中断した損害金1408ドルを科せられた。 裁判を終えた彼は、こう語った。 「自暴自棄は、多くの人に多くのことをさせる。 私もその一人だと思う。 」 「あの日以降、私は神の顔に手を伸ばし、その笑顔に触れたように感じている。 」 彼はその後「世界で最も偉大なスタントマン」としてテキサス・サーカスに雇用され、衣服のみでナイアガラ滝から落ちて生還した体験を語った。 ナイアガラで救助活動を行っているウェズリー・ヒル氏は、滝から転落した鹿や犬を生きたまま救助したことがある。 彼は、川岸近くは水量が少ないため、助かる可能性が高いと考えている。 彼の兄弟レッド・ヒルJr. は、1951年に滝下りスタントに挑んだが、川の中央を進んだため水圧で樽がバラバラになり、死亡している。 彼は、滝の下には水に跳ね返される上昇水流があり、それに乗れれば人間も生還できると言っていたと、ウェズリー・ヒル氏は語った。 20世紀以降、滝から故意に落ちた15人のうち、10人が生還し、5人が死んだ。 生還者は全員がホースシュー滝(カナダ滝)から転落しており、岩の多いアメリカ滝から転落して生還した者はいない。 1960年に防護装置なしで滝から落ちて生還した7歳のロジャー・ウッドワードは、「ナイアガラの奇跡」と呼ばれた。 現在50歳のビジネスマンであるウッドワード氏は、ジョーンズの行為をこう評した。 「彼がそれをスタントだと言うなら、私はそれを愚行と言うだろう。 」 「私はこの件と何の関係もない。 43年経った今も、私はきのうのことのように思い出す。 私には、滝から落ちたという実感がなかった。 むしろ、雲の上にいたように感じた。 」 「私はこの人が、人生で2度目のチャンスを与えられたと悟ることを望んでいる。 」 写真:インタビューに答えるカーク・ジョーンズ。 図:ナイアガラ滝の上昇水流説。 7月9日、自殺を企図した男性がナイアガラ滝から落下し、救助された。 防護装置なしで落下し生還したのは、史上5人目となる。 男性はその日の早朝、柵を乗り越えて川に飛び込んだ。 通報を受けて警察が下流を捜索したところ、男性は軽症で岩の上に座っており、病院に搬送された。 ナイアガラ川では水力発電が行われており、電力需要に応じて川の水量を調節することができる。 ナイアガラフォールズ市(オンタリオ州)のジム・ディオダティ市長は、水量が多かったことが生還した原因ではないかと述べた。 「エリー湖の水位はいつもより高く、川はオンタリオ湖へいつもより強く流れている。 ホースシュー滝の下にあまたある巨石をはずす、絶好の機会だ。 生き残る唯一の方法は、巨石を飛び越えることだった。 」 「絶命の川:ナイアガラでの自殺から学ぶこと」の著者マイケル・クラークソン氏も、奇跡の原因について言及した。 「原因は川にある何かだと思うが、それが何であるかはわからない。 」 「岩は依然としてそこにある。 それは純粋に、幸運である。 」 [16] カーク・ジョーンズ(2017年4月19日/死亡) 「私があの日したことは、英雄的でもなければ、誰にとってもどんな方法であっても、模倣されるべきものでもなかった。 」 防護装置なしで故意にナイアガラ滝から落下し、生還した最初の人になったカーク・ジョーンズは、今後真似する者が出ないよう警告した。 だが彼は自身の警告を無視して、二度目のスタントを決行した。 彼は2017年4月19日、3メートルのボールの中に入りナイアガラ川を下った。 ボールはアメリカ滝の上流で発見され、アメリカ滝から落下し、霧の乙女号によって回収されたが、中には誰もいなかった。 警察は、急流のためジョーンズはボールから投げ出され、アメリカ滝から落下したものと考えた。 アメリカ滝は岩が多く、アメリカ滝から落下して生還した者は一人もいない。 アメリカ沿岸警備隊は6月2日、オンタリオ湖近くのナイアガラ川で、ジョーンズの遺体を発見した。 彼は14年前、自殺を企図して防護装置なしで滝から落下し、意に反し生還した。 そして今度は、生還を企図して防護装置とともに滝から落下しようとして、意に反し生還できなかった。 ナイアガラ滝でのスタントで死者が出たのは22年ぶりで、彼は現在のところ、最後の死亡したデアデビルである。

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ナイアガラの滝に転落

ナイアガラ の 滝 事故

スポンサーリンク ナイアガラの滝 ナイアガラの滝とは? 世界最大級の面積を誇る五大湖ー。 その五大湖のひとつであるエリー湖からオンタリオ湖を繋ぐナイアガラ川に「ナイアガラの滝」とよばれる巨大な滝が存在します。 滝の落差は50m程でそれほど大きくはありませんが、毎秒200万リットルという桁外れの大量の水が流れ落ち、単独の滝としては北米最大。 ちなみに、アメリカとカナダの国境はナイアガラ川に沿って引かれたため、ナイアガラの滝を挟んだ北側はカナダ・南側はアメリカ合衆国となっています。 ナイアガラにある3つの滝 ナイアガラの滝は一つの滝ではなく『アメリカ滝・カナダ滝・ブライダルベール滝』と呼ばれる3つの滝からなります。 ここではそれぞれの滝について詳しく見ていきましょう。 カナダ滝 3つある滝の中で最も大きく、滝幅671m・落差53mの巨大さで知られているカナダ滝。 カナダ側にあることからカナダ滝と呼ばれていますが、馬蹄のような形をしていることから別名「ホースシュー・フォールズ」とも呼ばれます。 2手に別れた左側の大きな滝がアメリカ滝で、右側の小さなものがブライダルベール滝です。 アメリカ滝の大きさは、滝幅260m・落差57mとカナダ滝よりも少し小さめ。 滝が流れ落ちる部分には上流からの落石が積もっているため滝の長さも短く感じます。 ブライダルベール滝 アメリカ滝のすぐ横、ルナ島を挟んで流れる落ちるのはブライダルベール滝。 滝幅15mの1番小規模な滝です。 過去にはルナ滝やイリス滝とも呼ばれていました。 ブライダルベール滝には風の洞窟と呼ばれるアトラクションがあり、滝の流れ落ちる様子を滝のすぐ近くから観覧することができます。 周辺スポットは意外と近代的 壮大なスケールのナイアガラの滝。 大自然の中にあるイメージがありますが、実際のナイアガラの滝周辺は観光地化が進んだ近代的な街並みです。 18世紀頃には、すでに観光地としての人気が高まっており吊り橋や道路などが設けられました。 19世紀初頭にはナポレオン・ボナパルトの弟ジェローム・ボナパルトをはじめとした多くの有名人が訪れています。 ナイアガラの滝を一望できるカナダ側の周辺地域には、現在も多くのホテルやカジノ、レジャー施設が立ち並び、昼夜問わず多くの観光客で賑わいます。 18世紀には観光地として成功していたナイアガラの滝でしたが、水が流れ落ちる際にかかる水圧により滝が侵食されていくのではないかと懸念されていました。 当時は1年に1mずつ上流へと移動しており、このままでは美しい景観が崩れるばかりか、浸食が続けば上流のエリー湖に埋没して無くなってしまう可能性もあります。 そこで1960年代、馬蹄形状の滝へ流れ込む水量を均等にする大規模な工事が行われ、現在では年間3cm程度まで侵食を抑えることに成功しました。 これにより、ナイアガラの滝の消滅は2万5000年後まで延長されました。 現在では、大規模なダムの建設により、観光客でにぎわう夏場の日中に大量放水を行い、冬や夜間には水量を抑えてられています。 世界最大規模の水力発電施設としても有名です。 ナイアガラの滝は世界遺産ではない! 世界的に知名度が高く、最大級の水量を誇るナイアガラの滝ですが、意外にも「世界三大瀑布」の中で唯一『世界遺産』として登録されていません。 その理由としては、崩壊を防ぐために水量がコントロールされていることや、観光地として周辺が整備されていること。 その他にも、カナダとアメリカの国境に位置するナイアガラの滝は、国ごとに申請することが定められた世界遺産への申請が難しいなどの理由が挙げられます。 世界遺産へ申請するとなると、商業的に成功している周辺地域への悪影響や管理面でのデメリットも考えられるため、今後も世界遺産へ登録されることはなさそうです。 それでも世界有数の絶景に変わりはありませんので一度は訪れてみたいものですね。 一望するならカナダ側 ナイアガラの滝というとアメリカのイメージが強い方も多いかもしれませんが、ナイアガラの滝を一望したいのであればカナダ側からでなければなりません。 アメリカ側からではアメリカ滝はもちろん、カナダ滝も横から見る形となってしまいます。 アメリカ側からナイアガラの滝に到着したとしても、ナイアガラ川には人や車両が渡るための橋が多く架けられているため、簡単にカナダ側に移動することができます。 スカイロンタワー あまりに大きいナイアガラの滝。 全体を俯瞰したいと思ったらカナダ側にあるスカイロンタワーがおすすめです。 高さ160mのタワーからはアメリカ滝とカナダ滝の両方を見渡すことが出来ます。 1965年に建てられたスカイロンタワー。 当時の雰囲気を残しつつ夜間はライトアップされるロマンチックなスポットです。 展望所にはレストランも設置されており、滝を見ながら食事を楽しむこともできます。 風の洞窟 アメリカ滝に設置されたアトラクションの一つに『風の洞窟』と呼ばれるものがあります。 このアトラクションでは、『風の洞窟』と呼ばれるトンネルを通ってブライダルベール滝の真下(裏側)まで歩いていき、全身で滝の水煙を浴びることが出来ます。 大量の水が巻き起こす爆音は、目の前で落雷が起きているような感覚を覚えるそうです。 遊覧船 — 霧の乙女号 風の洞窟では一番小規模なブライダルベール滝の近くまでしか行けませんでしたが、遊覧船『霧の乙女号』に乗船すればカナダ滝の滝つぼまで接近することが出来ます。 霧の乙女号は、1846年にカナダ側とアメリカ側とを結ぶために運航を開始したフェリー船でしたが、乗客の減少に伴い1854年に観光用の遊覧船として運用を始めました。 「マリリン・モンロー」や「ダイアナ妃」をはじめとした多くの著名人も乗船しています。 ただし、エリー湖から氷が流れてくる冬場~春先にかけては運航が中止されます。 冬には凍ることも ナイアガラの滝は冬場になるとオフシーズンとなり観光客もめっきり少なくなります。 観光客が少なくなるこの時期には、イルミネーションなどの期間限定のイベントなども開催されているようなので、冬のナイアガラも穴場かもしれませんね。 ライトアップ!幻想的な夜の滝 ナイアガラの滝は日中に訪れる観光客が多いようですが、夜間になると滝全体がライトアップされ、お昼とは全く違う表情を見せてくれます。 大自然と人工物が混じり合うロマンチックな絶景はカップルの観光客に人気のようです。 ちなみにこのライトアップが始まったのは今から150年以上も前の1860年。 ウェールズ大公のナイアガラ訪問を歓迎する目的で始まって以降、一次二次世界大戦と1938年の大寒波によるトラブル以外では、休むことなく続けられているそうです。 今回紹介した以外にも、アメリカ合衆国の誕生~現在までの歴史と深い関わりがあったり、多くの著名人が訪れていたりと・・・何かと面白い話が尽きないナイアガラの滝。 アメリカやカナダ旅行の際には絶対に立ち寄ってみたいですね!•

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