オスマン 帝国 滅亡。 1915年 オスマン帝国滅亡!引き起こされた惨劇

7.3.2 オスマン帝国の成立と発展 世界史の教科書を最初から最後まで|みんなの世界史|note

オスマン 帝国 滅亡

しかし、徐々にその国力を列強に引き離され、地方勢力の台頭を押さえる事が出来なくなっていた。 勢力が衰退したオスマン帝国は、改革の動きも実らず、解体への道を進む事になる。 オスマン帝国の衰退と地方勢力の台頭 16世紀には最大版図となったオスマン帝国だが、17世紀になると、その勢いは衰えを見せ始める。 1683年の 第2次ウィーン包囲に失敗してハンガリーの大半を失うと、続く18世紀にはエジプトやシリアなどで地方豪族が台頭し、中央集権体制に綻びが生じるようになる。 力を付けたエジプトを押さえられなくなる 18世紀後半、ナポレオンに占領されたイギリスと結んで奪還したオスマン帝国だったが、その混乱の中、傭兵隊を率いた ムハンマド・アリーがエジプト総督となってエジプトの実権を握った。 ムハンマド・アリーはオスマン帝国の命を受け、アラビア半島の ワッハーブ王国を制圧した他、1821年に始まった ギリシア独立戦争を鎮圧する為、出兵した。 その後、列強の干渉によりギリシアは独立を果たすが、エジプトは出兵の見返りにシリアの領有を要求する。 これを拒否したオスマン帝国と2度にわたって エジプト・トルコ戦争を戦った。 列強の干渉により、解体の足音が近づく 列強の介入「東方問題」 ギリシア独立戦争やエジプト・トルコ戦争を切っ掛けに、オスマン帝国は東地中海や黒海周辺の利権を争うイギリス・フランス・ロシアといった列強の介入を招く事となった。 東方問題 こうした事態に対し、オスマン帝国は行政組織等の西欧化を目指す タンジマート 恩恵改革 を実施するが、十分な成果は上がらなった。 近代化を試みるも、失敗に終わる 1853年に始まったロシアとの クリミア戦争では、イギリス・フランスの支援によって勝利はしたものの、その戦費によって財政が破綻してしまう。 1876年には、改革派の宰相 さいしょう ミドハト・パシャが起草したイスラム世界初の近代憲法であるミドハト憲法が発布される。 しかし、1877年に ロシア・トルコ戦争が勃発すると、スルタンのアブドゥル・ハミト2世が憲法を停止し、専制政治を復活させた。 エジプトの利権は列強へ移る ムハンマド・アリー朝の統治が認められたエジプトも、 スエズ運河の建設などで列強に対し多額の債務を負い、以後、経済的に列強に従属する事になる。 オスマン帝国 縮小への道のり 16世紀まで拡大を続けたオスマン帝国だったが、17世紀後半からは次々と領土の縮小を迫られる事となった。 カルロヴィッツ条約 1699年 この条約でハンガリーを失ったオスマン帝国は、以後ヨーロッパ諸国に対し協調政策をとる。 クチュク・カイナルジ条約 1744年 第1次露土戦争デロシアがオスマン帝国に勝利。 ロシアは黒海の自由航行権を獲得し、オスマン帝国は属国のクリム・ハン国を放棄した。 アドリアノープル条約 1829年 ギリシア独立を援助したロシアがオスマン帝国に勝利。 ボスポラス、ダーダネルス両海峡の自由航行権などを認めさせた。 エジプトの半独立 1841年 エジプト・トルコ戦争の結果、ムハンマド・アリーによるエジプト総督位の世襲が認められ、エジプトはオスマン帝国内の反独立国となった。 この後、エジプトはスエズ運河建設にかかった多額の債務によって、列強に従属する。

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ヒュッレム・ハセキ・スルタンはオスマン帝国で奴隷から皇后になった

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パルガル・イブラヒム・パシャ 名前:イブラヒム(İbrahim ) 地位:オスマン帝国大宰相 生年:1493年 没年:1536年 父:ユスフ 母:不明 妻:ムシャン・ハトゥン、ハティージェ・スルタナ イブラヒムはヴェネツィア共和国の領土だったギリシア北部の町エピルスで産まれました。 父親は漁師か船員でキリスト教(正教)徒だったといわれます。 子供時代(1499~1502年)にデヴシルメ(徴用)でイスタンブルにつれてこられました。 イブラヒムはオスマン帝国で教育を受け知識を身に着けます。 イブラヒムはキリスト教徒(正教徒)の家に産まれましたが、オスマン帝国に来てイスラム教徒に改宗しました。 オスマン帝国のボスニア総督イスケンダー(Iskender Pasha)の領地で暮らしました。 イスケンダーの娘・ハフス Hafs がイブラヒムに愛情を注ぎ教育を行ったといいます。 1514年ごろ。 イブラヒムはオスマン帝国のマニサの宮殿に売られました。 マニサでイブラヒムはスレイマンと出会い親しくなりました。 ハフスがイブラヒムをスレイマンに紹介したといわれます。 スレイマンの側近として頭角をあらわす 1520年。 スレイマンが皇帝に即位。 イブラヒムは皇帝直属の鷹匠頭になり、その後も様々な役職を経験しました。 イブラヒムは政治や軍事で才能を発揮して昇進を重ねました。 しかしイブラヒムは他の高官からの反発をおそれて「これ以上昇進させないように」とスレイマンに直訴します。 スレイマンはイブラヒムの謙虚さに満足し、自分が即位している間はイブラヒムを処刑しないと言いいました。 イブラヒムはギリシアのパルガル出身だったため「パルガ人」とよばれることもあったようです。 イブラヒムはトルコ語以外にギリシャ語、アルバニア語、スラブ語が話せました。 イブラヒムはイスラム教徒に改修していましたが、キリスト教の習慣を完全に捨てたわけではありません。 両親を首都に呼び寄せました。 イブラヒムの父親はユスフという名前を与えられました。 オスマン帝国の官僚となりエピラフの総督を勤めました。 大宰相になる 1523年。 イブラヒムは大宰相になりました。 その後13年間大宰相の地位にありました。 歴代の大宰相と比べても強い権力を持っており、皇帝のスレイマンに匹敵するほどの権限を持っていたといわれます。 イブラヒムは自分を捕らえたイスケンダー・パシャの孫娘、つまりハフスの娘ムシャン・ハトゥンと結婚しました。 豪華な結婚式だったといわれます。 ムシャンは最初はかつての召使いだったイブラヒムを快く思っていなかったようでしたが、次第に心を通わせるようになりました。 スレイマンの妹・ハティジェとは結婚していない? 一般にはイブラヒムはスレイマンの妹ハティジェと結婚したと考えられています。 しかしハティジェとの結婚したという直接の記録はありません。 そのためイブラヒムはハティジェとは結婚していない、あるいはイブラヒムと結婚したのは別の皇女ではないかという説もあります。 ムシャンとの結婚は確実。 離婚した様子もありません。 ハティジェと結婚した場合はイブラヒムには二人の妻がいたことなります(イスラム教では妻は4人までもてるため)。 ムシャンの死後にハティジェと再婚した可能性もあります。 皇帝並みの力を持ち外交で活躍 1525年。 オスマン帝国の属領エジプト州の総督アフメト・パシャが反乱を起こしました。 アフメト・パシャは処刑され、後任としてイブラヒムがエジプト州総督になりました。 イブラヒムはエジプト赴任中に法律や軍の制度を改革しました。 イブラヒムはヨーロッパ諸国との外交でとくに高い成果をおさめました。 イブラヒムはカトリック国との交渉では自分自身を「オスマン帝国の全ての権力は私のもとにある」と主張して有利に交渉を進めました。 神聖ローマ帝国のカール5世、ヴェネツィア、フランスとも交渉を行いオスマン帝国に有利な条件で交渉をまとめています。 イブラヒムは普段は人に親切でしたが、規則を破った人には非常に厳しい人でした。 また一般人同様に王族にも税を支払うように要求しました。 イブラヒムのこのような態度は不公平だと感じている人々からは歓迎されました。 イブラヒム自身も膨大な富を得ましたが、学校、病院、モスクを作り福祉のために使っています。 スルタン・イブラヒム しかしサファヴィー朝ペルシャとの戦いをめぐって財務長官イスケンデル・チェレビと意見が対立。 さらに自身の称号として採用した「セラスケル・スルタン」がスレイマンへの冒涜になるとしてスレイマンの支持を失います。 「セラスケル」とは「軍隊の頭」という意味。 オスマン帝国では陸軍の最高司令官に与えられる称号です。 「スルタン」の称号はイラク周辺では部族長が一般的に名乗る称号でした。 だからスルタンは何人もいるのです。 ところがトルコ系民族のオスマン帝国では「スルタン」を名乗ることができるのは「皇帝」ただ一人でした。 イブラヒムは占領地の習慣にあわせて「セラスケル・スルタン」と名乗ったのかもしれません・ でも、イスタンブルにいる人々にとっては皇帝に対する侮辱と受け止められました。 スレイマンの命令で処刑される 1536年3月15日。 イブラヒムはスレイマンの夕食会に出席しました。 ところがイブラヒムは何の説明も受けずに、その場で死刑執行人によって絞殺されました。 スレイマンは自分の在任中はイブラヒムを処刑しないという誓いをたてていたため、モスクを建造して誓いを取り消したといわれます。 イブラヒムの財産は国に没収され息子も処刑されました。 イブラヒムは大きな権力と財産を手にしました。 しかし宮廷内にはイブラヒムの成功を妬む人も多かったようです。 皇后ヒュッレム・ハセキ・スルタンもイブラヒムを快く思わない一人です。 ヒュッレムは財務長官イスケンデルの発言を指示。 イブラヒムの悪口をスレイマンに吹き込みます。 スレイマンは幼馴染の裏切られたと思って激怒して処刑の命令を出しました。 ヒュッレムは自分の息子を次の皇帝にしようと考えていました。 しかしイブヒムはマヒデブランの産んだムスタファを支持していました。 そのため宮廷内のイブラヒムへの反発を利用したのではないかといわれます。 スレイマンは晩年イブラヒムの処刑を後悔するようになりました。 晩年のスレイマンが作った詩のなかに友情と信頼を強調する詩があります。 そこに描写された人物像はイブラヒムのものでした。 しかし後悔は遅すぎたのでした。 イブラヒムの屋敷は現在トルコイスラム美術館になっています。

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オスマン帝国の歴史 ① ~メフメト2世とビザンツ帝国の滅亡~ / 世界史 by エンリケ航海王子

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トルコ族の一首長であるオスマン1世により、1299年に建国されたオスマン帝国。 他民族のイスラム国家です。 勢力を拡大していったのは、3代皇帝のムラト1世。 隣接するビザンツ帝国の都市、アドリアノープルを攻略し、バルカン半島南東部のトラキア地方を次々と支配下におさめていきました。 1389年に起きた「コソヴォの戦い」でバルカン諸国連合軍を撃破。 オスマン帝国による半島支配の基礎を築きました。 続く1396年には「ニコポリスの戦い」でハンガリー連合軍を破ります。 しかし1402年、ムラト1世の息子であるバヤジット1世の時代に、当時力をつけていたモンゴルのティムールが攻めてきました。 これを「アンカラの戦い」といいます。 バヤジット1世はこれに大敗。 帝国は一時崩壊の危機を迎えます。 1444年から1446年、1451年から1481年の2度皇帝に即位したメフメト2世は、バルカン半島の諸国を次々と制圧。 1453年にはコンスタンティノープルを滅ぼして、ビザンツ帝国を完全に征服します。 このコンスタンティノープルという場所は、各方面との貿易拠点となる場所で、ここを支配したことは帝国のさらなる繁栄の大きなきっかけとなりました。 1517年、セリム1世がアフリカ大陸のマムルーク朝を征服。 1520年から即位したスレイマン1世の時代に帝国は最盛期を迎え、アジア、ヨーロッパ、そしてアフリカにまで連なる大帝国が完成しました。 オスマン帝国を語るうえで外せないのが、ヒュッレムという女性です。 彼女は、血生臭い男たちの戦いの歴史のなかで、華麗な出世を遂げました。 ロシア南部のルテニア地方に生まれ、1520年頃、この地を略奪に来たタタール人によって奴隷となります。 イスタンブールへ連れていかれ、裸で競りにかけられました。 ヒュッレムはそのなかでもひときわ目立つ美貌を持っていて、彼女を買ったのが、なんとオスマン帝国の大宰相パルガル・イブラヒム・パシャだったのです。 ほとんどの奴隷が酷い暮らしを強いられるなか、ヒュッレムは宮廷で豪奢な生活を送るようになりました。 それまで決して裕福な環境で育ったわけではなかった彼女は、ここで上昇志向を芽生えさせます。 その後ついに皇帝スレイマン1世の目にとまり、寵愛を受け、男児を出産。 第2夫人にまで上り詰めました。 当時、皇帝は妻を迎えないのが慣習でしたが、スレイマン1世の溺愛っぷりは他に類を見ないもので、ヒュッレムを正式に妻としたのです。 慣習を覆し、皇帝の愛を手に入れた彼女はその後、外交や国政にも関与するようになります。 奴隷の立場から皇后にまで登りつめた伝説の美女として、後世に語り継がれることになりました。 オスマン帝国の基礎知識を身につける一冊 オスマン帝国が他の国と一線を画しているのは、勢力拡大をする際に、戦いだけに重きをおいていたわけではなかったというところでしょう。 開放的かつ合理的な社会システムを構築し、イスラム教国家でありながら、キリスト教やユダヤ教も制度のもとに受け入れました。 それらのシステムを本書では「柔らかい専制」とし、上述したヒュッレムのように身分の低い者でも成りあがることのできる仕組みと秘密に迫っていきます。 一見するとドラマチックな物語にも思えますが、本書は史実を忠実に追いかけ、終始冷静にオスマン帝国繁栄の秘密に切り込んでいるので、国家のシステムを理解するのにおすすめの一冊です。 オスマン帝国繁栄の核心をスリリングに描く.

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