日本 ルノワール。 ルノワールの作品を所蔵する美術館|ぶらり美術館〈全国版〉

女性のお尻と胸を誰よりも愛した幸福の画家ルノワール

日本 ルノワール

スポンサーリンク ルノワール さて、つづいてルノワールの作品を見てみましょう。 ルノワールがまだ世に認められていなかった頃、彼を評価してくれた数少ない理解者のひとりがジョルジュ・シャルパンティエ氏で、この絵はその夫人と子供たちを描いたもの。 これはルノワールがようやく世間に認められるようになる、そのきっかけとなった絵でもあります。 で、これは一見なんでもない絵のように見えますが、よーく見ると背景に日本風のすだれや絵が飾られていたりして、当時の上流家庭への日本美術の浸透ぶりがうかがえますね。 でも、この絵で大事なのは実はそこじゃありません。 そうではなくて、全体の明るい色調の方に注目してもらいたいのです。 現代のわれわれが見ると、「この絵のどこが特別なの?」と思ってしまうくらいあたりまえの描画なんですが、実はこのような明るい色使いは、当時のヨーロッパ絵画ではきわめて特殊なものだったんです。 次の、マネの「エミール・ゾラの肖像」と比べてみてください。 全然明るさが違うでしょ? ヨーロッパの伝統的な写実主義、明暗法だとこんな暗い色調になるんです。 ルノワールの作品がいかに明るくて華やかな色使いか、こうして比較して見るとよく分かると思います。 ちなみに余談ですがマネのこの作品、有名な「笛を吹く少年」がサロンで酷評されたとき、ゾラだけが浮世絵の技法を取り入れた新しい試みであると高く評価してくれた、その返礼として描かれたものです。 絵自体は伝統的な手法で描かれていますが、背景にはさりげなく相撲錦絵(二代歌川国明「大鳴門灘右エ門」)が配されています。 で、ついでにその「笛を吹く少年」なんですが、これも言われないと浮世絵の影響を受けてるなんてこと、普通はわかんないでしょうね。 この絵の場合、平坦な色調と陰影を抑えたことで画面全体を浮世絵版画のような平面的な描写にしようとした努力がうかがえます。 ズボンのラインをうまく使って、さりげなく浮世絵風の「ふちどり」っぽくしてありますね。 しかし、まだ完全には伝統絵画から脱却できてはいないようです。 まあ、伝統的な写実描写から浮世絵風の描写に脱皮しようとする過渡期といいますか、実験段階のものと見ていいと思います。 ついでですから、マネの作品についてもう少しつづけて見てみましょう。 伝統絵画から印象派絵画への変遷の様子がよくわかりますので。

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【美術解説】ピエール=オーギュスト・ルノワール「女性の美を追求した印象派の画家」

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スポンサーリンク ルノワール さて、つづいてルノワールの作品を見てみましょう。 ルノワールがまだ世に認められていなかった頃、彼を評価してくれた数少ない理解者のひとりがジョルジュ・シャルパンティエ氏で、この絵はその夫人と子供たちを描いたもの。 これはルノワールがようやく世間に認められるようになる、そのきっかけとなった絵でもあります。 で、これは一見なんでもない絵のように見えますが、よーく見ると背景に日本風のすだれや絵が飾られていたりして、当時の上流家庭への日本美術の浸透ぶりがうかがえますね。 でも、この絵で大事なのは実はそこじゃありません。 そうではなくて、全体の明るい色調の方に注目してもらいたいのです。 現代のわれわれが見ると、「この絵のどこが特別なの?」と思ってしまうくらいあたりまえの描画なんですが、実はこのような明るい色使いは、当時のヨーロッパ絵画ではきわめて特殊なものだったんです。 次の、マネの「エミール・ゾラの肖像」と比べてみてください。 全然明るさが違うでしょ? ヨーロッパの伝統的な写実主義、明暗法だとこんな暗い色調になるんです。 ルノワールの作品がいかに明るくて華やかな色使いか、こうして比較して見るとよく分かると思います。 ちなみに余談ですがマネのこの作品、有名な「笛を吹く少年」がサロンで酷評されたとき、ゾラだけが浮世絵の技法を取り入れた新しい試みであると高く評価してくれた、その返礼として描かれたものです。 絵自体は伝統的な手法で描かれていますが、背景にはさりげなく相撲錦絵(二代歌川国明「大鳴門灘右エ門」)が配されています。 で、ついでにその「笛を吹く少年」なんですが、これも言われないと浮世絵の影響を受けてるなんてこと、普通はわかんないでしょうね。 この絵の場合、平坦な色調と陰影を抑えたことで画面全体を浮世絵版画のような平面的な描写にしようとした努力がうかがえます。 ズボンのラインをうまく使って、さりげなく浮世絵風の「ふちどり」っぽくしてありますね。 しかし、まだ完全には伝統絵画から脱却できてはいないようです。 まあ、伝統的な写実描写から浮世絵風の描写に脱皮しようとする過渡期といいますか、実験段階のものと見ていいと思います。 ついでですから、マネの作品についてもう少しつづけて見てみましょう。 伝統絵画から印象派絵画への変遷の様子がよくわかりますので。

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ルノワール 日本最大級の品揃え フランス絵画の直輸入販売 アトリエ ド パリ

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ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841年2月25日-1919年12月3日)はフランス画家。 印象派の発展においてリーダーシップ的な役割を果たしたことで知られる。 美の賛美、特に女性の美を追求した作品で知られており、 「ルノワールはルーベンスからヴァトーへの直接的系統に属する最後の古典主義絵画の代表者」と評価されている。 初期には新古典主義のアングルや、ロマン主義ドラクロワなどの影響を受け、その後、モネらの印象派のグループに加わる。 晩年は女性の美を追求し肖像画で独自の境地を拓いた。 日本をはじめフランス国外でも人気の高い画家である。 映画俳優のピエール・ルノワールや映画監督ジャン・ルノワール、陶芸作家のクロード・ルノワールの父でもある。 さらに映画監督クラウド・ルノワールの祖父でもある。 ピエール・オーギュスト・ルノワールは、1841年フランス中南部のオート=ヴィエンヌ県リモージュで生まれた。 父レオナルド・ルノワールは貧しい仕立て屋で、母マルグリットはお針子だった。 1844年、3歳のときにルノアールの家族は商売の機会を探しにパリへ移る。 ルーブル美術館近くのパリ中心のアルジャントゥイユ通りに家をかまえた。 そこは、当時は貧しい人が暮らす下町であった。 幼少の頃からルノワールは自然と絵を描きはじめたが、この頃は歌で才能を発揮してた。 ルノワールは聖歌隊に入り、美声が評価され、当時のサンロック教会で聖歌隊指揮者だったシャルル・グノーは、両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、家族の経済問題のため、ルノワールは音楽の授業を続けられなくなった。 13歳で退学し、ルノワールは磁器工場で、見習工として働くことを余儀なくされた。 ルノワールは磁器工場でも芸術的才能を発揮し、しばしばルーブル美術館に通って、絵の勉強をしはじめる。 工場の経営者はルノワールの絵の才能を認めた。 その後、ルノワールはパリ国立高等美術学校に入学のために絵画の授業を受けるようになる。 働いていた磁器工場が1858年に産業革命の影響で生産過程に機械を導入すると、ルノワールの仕事が減り始める。 学資を得るため、ほかの仕事を探す必要に迫られ、入学前にルノワールは海外宣教師たちのための掛け布や扇子に装飾を描くなどして生活資金を得た。 1862年にルノワールはパリの シャルル・グレールのもとで学ぶ。 そこで、 、、ら、後のの画家たちと知り合った。 1860年代、ルノワールは画材を買うお金がほとんどなかった。 1863年のパリ・サロンに初めて応募したが、落選。 1864年のパリ・サロンで初めて審査に通り展示がおこなわれる。 この頃から、ゆっくりとルノワールの名前は知られるようになった。 本格的にルノワールが注目されるようになったのは、1867年に制作した 《日傘のリーズ》である。 ルノワールは、やの主題やスタイルに大きな影響を受けた。 サロン・ド・パリの審査に落ちた後、ルノワールはモネ、シスレー、ピサロらと1874年に開催された第一回印象派展に参加する。 このとき、ルノワールは6枚の作品を展示した。 この展覧会は全体的に批評家たちに酷評されたが、ルノワールの作品は比較的に評価が良かったという。 同年2枚の作品がロンドンで画商デュラン=デュエルによって展示された。 風景画が中心の印象派作家のなかで、 ルノワールは肖像画を描いて生計をたてようと考えていたので、1876年の第2回印象派展ではおもに肖像画を展示。 翌年に第3回印象派展では多様なジャンルの作品を展示して、印象派グループに貢献した。 このころの代表作となるのが、第3回印象派展で展示した 《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》である。 この作品はパリのモンマルトルにあるダンスホール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」での舞踏会を題材としており、画中の人物たちはルノワールの友人たちでる。 4回目と5回目の印象派展に参加せず、代わりにサロン・ド・パリに作品を再び出品する。 1879年のサロン・ド・パリに出品した 《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》での大変な好評がきっかけで、ルノワールは人気作家となりはじめた。 1881年にルノワールは、と関係のあった国アルジェリアを旅行する。 その後、マドリードでディエゴ・ベラスケスの作品を鑑賞する。 その後、イタリアへ行きフィレンツェでティッツァーノの代表作やローマでラファエル前派の作品を鑑賞する。 1882年1月15日、ルノワールはシチリアのパレルモにある作曲家リチャード・ワーグナーの家で、ワーグナーと出会う。 ルノワールは35分間ワーグナーの肖像画を描いた。 同年、呼吸器系に永続的な損傷を与えた肺炎を患い、アルジェリアで6週間ほど療養することになった。 1883年ルノワールは、イギリス海峡の島の1つガーンジ島で夏を過ごし、ビーチ、崖、湾などさまざまな風景を描いた。 代表的な作品が《ガーンジ島、ムーラン・フエ湾》である。 1892年ころ、ルノワールは関節リウマチを患う。 1907年に地中海沿岸にある温暖な土地のカーニュ=シュル=メールへ移る。 関節炎の悪化で絵があまり描けなくなったが、残りの20年の人生をそこで過ごした。 手の変形が悪化し、右肩は硬直。 これまでのように描けなくなったためルノワールは描き方を変える必要に迫られた。 リウマチの進行でルノワールは指に筆を直接巻き付けて描いていたと言われているが、これは誤りである。 ルノワールは筆をにぎることができたが、補助を付ける必要があった。 晩年の彼の写真で見られるように、包帯で手を包んで皮膚への刺激を保護していた。 1919年にルノワールはルーブル美術館に訪れ、巨匠作品とともに展示されている自身の作品を鑑賞する。 この時代、ルノワールは若手芸術家のリシャール・ギノの協力を得て、彫刻作品を制作していた。 腕を動かせる範囲が限られていたため、ルノワールは大きな絵を描くさいは絵巻形式にして、キャンバス側を動かして制作をおこなった。 1919年12月3日、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏カーニュ=シュル=メール村で死去。

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