芥川 龍之介。 作家別作品リスト:芥川 竜之介

芥川龍之介とは?死因や名言、作品などその激動の人生を解説!

芥川 龍之介

吾妻橋 ( あずまばし )の 欄干 ( らんかん )によって、人が大ぜい立っている。 時々巡査が来て 小言 ( こごと )を云うが、すぐまた元のように 人山 ( ひとやま )が出来てしまう。 皆、この橋の下を通る花見の船を見に、立っているのである。 船は川下から、一二 艘 ( そう )ずつ、引き潮の川を上って来る。 大抵は 伝馬 ( てんま )に 帆木綿 ( ほもめん )の天井を張って、そのまわりに紅白のだんだらの幕をさげている。 そして、 舳 ( みよし )には、旗を立てたり古風な 幟 ( のぼり )を立てたりしている。 中にいる人間は、皆酔っているらしい。 幕の間から、お揃いの手拭を、 吉原 ( よしわら )かぶりにしたり、米屋かぶりにしたりした人たちが「一本、二本」と 拳 ( けん )をうっているのが見える。 首をふりながら、苦しそうに何か唄っているのが見える。 それが橋の上にいる人間から見ると、 滑稽 ( こっけい )としか思われない。 お 囃子 ( はやし )をのせたり楽隊をのせたりした船が、橋の下を通ると、橋の上では「わあっ」と云う 哂 ( わら )い声が起る。 中には「 莫迦 ( ばか )」と云う声も聞える。 橋の上から見ると、川は 亜鉛板 ( とたんいた )のように、白く日を反射して、時々、通りすぎる川蒸汽がその上に眩しい横波の 鍍金 ( めっき )をかけている。 そうして、その 滑 ( なめらか )な水面を、陽気な太鼓の音、笛の 音 ( ね )、三味線の音が 虱 ( しらみ )のようにむず 痒 ( かゆ )く刺している。 札幌ビールの 煉瓦壁 ( れんがかべ )のつきる所から、土手の上をずっと向うまで、 煤 ( すす )けた、うす白いものが、重そうにつづいているのは、丁度、今が盛りの桜である。 言問 ( こととい )の 桟橋 ( さんばし )には、和船やボートが沢山ついているらしい。 それがここから見ると、丁度大学の 艇庫 ( ていこ )に日を遮られて、ただごみごみした黒い一色になって動いている。 すると、そこへ橋をくぐって、また船が一艘出て来た。 やはりさっきから何艘も通ったような、お花見の伝馬である。 紅白の幕に同じ紅白の吹流しを立てて、赤く桜を染めぬいたお揃いの手拭で、鉢巻きをした船頭が二三人 櫓 ( ろ )と 棹 ( さお )とで、代る代る漕いでいる。 それでも船足は余り早くない。 幕のかげから見える頭数は五十人もいるかと思われる。 橋をくぐる前までは、二梃三味線で、「梅にも春」か何かを弾いていたが、それがすむと、急に、ちゃんぎりを入れた馬鹿 囃子 ( ばやし )が始まった。 橋の上の見物がまた「わあっ」と 哂 ( わら )い声を上げる。 中には人ごみに押された子供の泣き声も聞える。 ひょっとこは、 秩父銘仙 ( ちちぶめいせん )の両肌をぬいで、 友禅 ( ゆうぜん )の胴へむき 身絞 ( みしぼ )りの袖をつけた、派手な 襦袢 ( じゅばん )を出している。 黒八の襟がだらしなくはだけて、 紺献上 ( こんけんじょう )の帯がほどけたなり、だらりと後へぶら下がっているのを見ても、余程、酔っているらしい。 踊は勿論、出たらめである。 ただ、いい加減に、お神楽堂の上の莫迦のような身ぶりだとか、手つきだとかを、繰返しているのにすぎない。 それも酒で体が利かないと見えて、時々はただ、中心を失って 舷 ( ふなばた )から落ちるのを防ぐために、手足を動かしているとしか、思われない事がある。 それがまた、一層 可笑 ( おか )しいので、橋の上では、わいわい云って、騒いでいる。 そうして、皆、 哂 ( わら )いながら、さまざまな批評を交換している。 その内に、 酔 ( よい )が利いて来たのか、ひょっとこの足取がだんだん怪しくなって来た。 丁度、不規則な Metronome のように、お花見の手拭で頬かぶりをした頭が、何度も船の外へのめりそうになるのである。 船頭も心配だと見えて、二度ばかり 後 ( うしろ )から何か声をかけたが、それさえまるで耳にははいらなかったらしい。 すると、今し方通った川蒸汽の横波が、斜に 川面 ( かわも )をすべって来て、大きく伝馬の底を 揺 ( ゆす )り上げた。 その拍子にひょっとこの小柄な体は、どんとそのあおりを食ったように、ひょろひょろ前の方へ三足ばかりよろけて行ったが、それがやっと踏止ったと思うと、今度はいきなり廻転を止められた 独楽 ( こま )のように、ぐるりと一つ大きな円をかきながら、あっと云う間に、メリヤスの 股引 ( ももひき )をはいた足を 空 ( くう )へあげて、仰向けに伝馬の中へ転げ落ちた。 橋の上の見物は、またどっと声をあげて哂った。 船の中ではそのはずみに、三味線の 棹 ( さお )でも折られたらしい。 幕の間から見ると、面白そうに酔って騒いでいた連中が、慌てて立ったり坐ったりしている。 今まではやしていた馬鹿囃子も、息のつまったように、ぴったり止んでしまった。 そうして、ただ、がやがや云う人の声ばかりする。 何しろ思いもよらない混雑が起ったのにちがいない。 それから 少時 ( しばらく )すると、赤い顔をした男が、幕の中から首を出して、さも狼狽したように手を動かしながら、早口で何か船頭に云いつけた。 すると、伝馬はどうしたのか、急に 取舵 ( とりかじ )をとって、 舳 ( みよし )を桜とは反対の山の 宿 ( しゅく )の 河岸 ( かし )に向けはじめた。 橋の上の見物が、ひょっとこの頓死した噂を聞いたのはそれから十分の 後 ( のち )である。 もう少し詳しい事は、翌日の新聞の 十把一束 ( じっぱいっそく )と云う欄にのせてある。 それによると、ひょっとこの名は山村平吉、病名は脳溢血と云う事であった。 死んだのは四十五で、後には痩せた、 雀斑 ( そばかす )のあるお 上 ( か )みさんと、兵隊に行っている息子とが残っている。 暮しは 裕 ( ゆたか )だと云うほどではないが、 雇人 ( やといにん )の二三人も使って、どうにか人並にはやっているらしい。 人の噂では、日清戦争頃に、秋田あたりの 岩緑青 ( いわろくしょう )を買占めにかかったのが、当ったので、それまでは 老鋪 ( しにせ )と云うだけで、お得意の数も指を折るほどしか無かったのだと云う。 平吉は、 円顔 ( まるがお )の、頭の少し禿げた、眼尻に 小皺 ( こじわ )のよっている、どこかひょうきんな所のある男で、誰にでも腰が低い。 道楽は飲む一方で、酒の上はどちらかと云うと、まずいい方である。 ただ、酔うと、必ず、馬鹿踊をする癖があるが、これは当人に云わせると、昔、浜町の豊田の 女将 ( おかみ )が、 巫女舞 ( みこまい )を習った時分に稽古をしたので、その頃は、新橋でも芳町でも、お 神楽 ( かぐら )が大流行だったと云う事である。 しかし、踊は勿論、当人が味噌を上げるほどのものではない。 悪く云えば、出たらめで、善く云えば 喜撰 ( きせん )でも踊られるより、嫌味がないと云うだけである。 もっともこれは、当人も心得ていると見えて、しらふの時には、お神楽の おの字も口へ出した事はない。 「山村さん、何かお出しなさいな」などと、すすめられても、冗談に紛らせて逃げてしまう。 それでいて、少しお 神酒 ( みき )がまわると、すぐに手拭をかぶって、口で笛と太鼓の調子を一つにとりながら、腰を据えて、肩を揺って、 塩吹面舞 ( ひょっとこまい )と言うのをやりたがる。 そうして、一度踊り出したら、いつまでも図にのって、踊っている。 はたで三味線を弾いていようが、謡をうたっていようが、そんな事にはかまわない。 ところが、その酒が 崇 ( たた )って、卒中のように倒れたなり、気の遠くなってしまった事が、二度ばかりある。 一度は町内の 洗湯 ( せんとう )で、上り湯を使いながら、セメントの流しの上へ倒れた。 その時は腰を打っただけで、十分とたたない内に気がついたが、二度目に 自家 ( うち )の蔵の中で 仆 ( たお )れた時には、医者を呼んで、やっと正気にかえして貰うまで、かれこれ三十分ばかりも手間どった。 平吉はその度に、医者から酒を禁じられるが、殊勝らしく、赤い顔をしずにいるのはほんのその当座だけで、いつでも「一合位は」からだんだん 枡数 ( ますかず )がふえて、半月とたたない中に、いつの間にかまた元の 杢阿弥 ( もくあみ )になってしまう。 それでも、当人は平気なもので「やはり飲まずにいますと、かえって体にいけませんようで」などと勝手な事を云ってすましている。 心理的にも、飲まずにはいられないのである。 何故かと云うと、酒さえのめば気が大きくなって、何となく誰の前でも遠慮が 入 ( い )らないような心持ちになる。 踊りたければ踊る。 眠たければ眠る。 誰もそれを咎める者はない。 平吉には、何よりも之が 難有 ( ありがた )いのである。 何故これが難有いか。 それは自分にもわからない。 平吉はただ酔うと、自分がまったく、別人になると云う事を知っている。 勿論、馬鹿踊を踊ったあとで、しらふになってから、「 昨夜 ( ゆうべ )は御盛んでしたな」と云われると、すっかりてれてしまって、「どうも酔ぱらうとだらしはありませんでね。 何をどうしたんだか、 今朝 ( けさ )になってみると、まるで夢のような始末で」と月並な嘘を云っているが、実は踊ったのも、眠てしまったのも、いまだにちゃんと覚えている。 そうして、その記憶に残っている自分と今日の自分と比較すると、どうしても同じ人間だとは思われない。 それなら、どっちの平吉がほんとうの平吉かと云うと、これも彼には、判然とわからない。 酔っているのは一時で、しらふでいるのは始終である。 そうすると、しらふでいる時の平吉の方が、ほんとうの平吉のように思われるが、彼自身では妙にどっちとも云い兼ねる。 何故かと云うと、平吉が後で考えて、 莫迦 ( ばか )莫迦しいと思う事は、大抵酔った時にした事ばかりである。 馬鹿踊はまだ好い。 花を引く。 女を買う。 どうかすると、ここに書けもされないような事をする。 そう云う事をする自分が、正気の自分だとは思われない。 Janus の云う神様には、首が二つある。 どっちがほんとうの首だか知っている者は誰もいない。 平吉もその通りである。 ふだんの平吉と酔っている時の平吉とはちがうと云った。 そのふだんの平吉ほど、嘘をつく人間は少いかもしれない。 これは平吉が自分で時々、そう思うのである。 しかし、こう云ったからと云って、何も平吉が損得の勘定ずくで嘘をついていると云う訳では 毛頭 ( もうとう )ない。 第一彼は、ほとんど、嘘をついていると云う事を意識せずに、嘘をついている。 もっともついてしまうとすぐ、自分でもそうと気がつくが、現についている時には、全然結果の予想などをする余裕は、無いのである。 平吉は自分ながら、何故そう嘘が出るのだかわからない。 が人と話していると自然に云おうとも思わない嘘が出てしまう、しかし、格別それが 苦 ( く )になる 訣 ( わけ )でもない。 悪い事をしたと云う気がする訳でもない。 そこで平吉は、毎日平気で嘘をついている。 するとそこの 旦那 ( だんな )は大の 法華 ( ほっけ )気違いで、三度の飯も御題目を 唱 ( とな )えない内は、箸をとらないと云った調子である。 所が、平吉がお 目見得 ( めみえ )をしてから二月ばかりするとそこのお 上 ( か )みさんがふとした出来心から店の若い者と一しょになって着のみ着のままでかけ落ちをしてしまった。 そこで、一家安穏のためにした信心が一向役にたたないと思ったせいか、法華気違いだった旦那が急に、門徒へ 宗旨替 ( しゅうしがえ )をして、 帝釈様 ( たいしゃくさま )のお 掛地 ( かけじ )を川へ流すやら、七面様の 御影 ( みえい )を釜の下へ入れて焼くやら、大騒ぎをした事があるそうである。 それからまた、そこに 廿 ( はたち )までいる間に店の勘定をごまかして、遊びに行った事が度々あるが、その頃、馴染みになった女に、心中をしてくれと云われて弱った 覚 ( おぼえ )もある。 とうとう 一寸 ( いっすん )逃れを云って、その場は納まったが、後で聞くとやはりその女は、それから三日ばかりして、 錺屋 ( かざりや )の職人と心中をしていた。 深間 ( ふかま )になっていた男がほかの女に見かえたので、 面当 ( つらあ )てに誰とでも死にたがっていたのである。 それから廿の年におやじがなくなったので、紙屋を暇をとって 自家 ( うち )へ帰って来た。 半月ばかりするとある日、おやじの代から使っていた番頭が、若旦那に手紙を一本書いて頂きたいと云う。 五十を越した実直な男で、その時右の手の指を痛めて、筆を持つ事が出来なかったのである。 「万事都合よく運んだからその中にゆく。 」と書いてくれと云うので、その通り書いてやった。 宛名が女なので、「隅へは置けないぜ」とか何とか云って 冷評 ( ひやか )したら、「これは手前の姉でございます」と答えた。 すると三日ばかりたつ内に、その番頭がお得意先を廻りにゆくと云って家を出たなり、いつまでたっても帰らない。 帳面を検べてみると、大穴があいている。 手紙はやはり、馴染の女の所へやったのである。 書かせられた平吉ほど 莫迦 ( ばか )をみたものはない。 …… これが皆、嘘である。 平吉の一生(人の知っている)から、これらの嘘を除いたら、あとには何も残らないのに相違ない。 それから踊っている内に、船の中へころげ落ちて、死んだ事は、前に書いてある。 船の中の 連中 ( れんじゅう )は、皆、驚いた。 一番、驚いたのは、あたまの上へ落ちられた清元のお師匠さんである。 平吉の体はお師匠さんのあたまの上から、 海苔巻 ( のりまき )や、うで玉子の出ている胴の間の 赤毛布 ( あかゲット )の上へ転げ落ちた。 「冗談じゃあねえや。 怪我 ( けが )でもしたらどうするんだ。 」これはまだ、平吉が 巫山戯 ( ふざけ )ていると思った町内の 頭 ( かしら )が、 中 ( ちゅう )っ 腹 ( ぱら )で云ったのである。 けれども、平吉は動くけしきがない。 すると 頭 ( かしら )の隣にいた 髪結床 ( かみゆいどこ )の親方が、さすがにおかしいと思ったか、平吉の肩へ手をかけて、「旦那、旦那…もし…旦那…旦那」と呼んで見たが、やはり何とも返事がない。 手のさきを握っていると冷くなっている。 親方は 頭 ( かしら )と二人で平吉を抱き起した。 一同の顔は不安らしく、平吉の上にさしのべられた。 「旦那……旦那……もし……旦那……旦那……」髪結床の親方の声が上ずって来た。 するとその時、呼吸とも声ともわからないほど、かすかな声が、 面 ( めん )の下から親方の耳へ伝って来た。 「 面 ( めん )を……面をとってくれ……面を。 」頭と親方とはふるえる手で、手拭と面を外した。 しかし面の下にあった平吉の顔はもう、ふだんの平吉の顔ではなくなっていた。 小鼻が落ちて、唇の色が変って、白くなった額には、油汗が流れている。 一眼見たのでは、誰でもこれが、あの愛嬌のある、ひょうきんな、話のうまい、平吉だと思うものはない。 ただ変らないのは、つんと口をとがらしながら、とぼけた顔を胴の間の 赤毛布 ( あかゲット )の上に仰向けて、静に平吉の顔を見上げている、さっきのひょっとこの面ばかりである。

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芥川龍之介とは?死因や名言、作品などその激動の人生を解説!

芥川 龍之介

2017年7月、日本を代表する文豪のひとり、芥川龍之介が没後90年を迎えました。 芥川は『羅生門』や『芋粥』をはじめとした、古典を題材にしたものから、『蜘蛛の糸』など児童に向けた作品まで幅広い作品を残しており、国語の授業で読んだことがある方も少なくないはず。 芥川は友人たちと同人雑誌を出版し、その創刊号に掲載した『鼻』が夏目漱石から絶賛を受けました。 その後、新聞社に入社。 意欲的に作品を発表し続けるものの、1927年7月24日に 「将来に対する 唯 ただぼんやりした不安」という理由から服毒自殺に至ります。 当時の人気作家として多くの読者から愛されていた芥川が35歳という若さで自ら死を選んだことは文豪の間にも大きな衝撃を与えました。 今回は日本文学界に多大な影響を与えた作家、芥川龍之介の生涯に注目します。 芥川龍之介、生誕。 1892年3月1日、現在の東京都中央区明石町にて芥川龍之介は生まれました。 一説によれば、龍之介という名前の由来は「生まれたのが辰年・辰月・辰日・辰の刻に生まれたため」と言われています。 また、父親が42歳、母親が33歳という大厄の年に生まれた芥川には、旧来の迷信に沿って厄払いを目的に形式だけ捨て子とされたというエピソードがありますが、生後7ヶ月になった芥川は母親、フクの病が悪化したことにより母の実家、芥川家に引き取られます。 生家を出たことは芥川にとって辛い出来事となります。 芥川は、教育熱心な伯母のフキに育てられます。 伯母フキについて芥川は 「伯母がゐなかつたら、今日のやうな私が出来たかどうかわかりません」と 『文学好きの家庭から』という回想文で語るほど、人格形成そのものに大きく関わった重要な人物でした。 芥川が10歳の時に母フクは亡くなりますが、幼くして優秀だった彼を引き取ろうと実の父、新原敏三ははたらきかけます。 一方で、敏三はフクの妹、フユとの間に子供を授かっていました。 「よりによって、妻の妹に手を出すとは……」と新原家と芥川家はいがみ合い、最終的に芥川は叔父の芥川家の養子となりますが、幼少期の彼の心にこれらの出来事は暗い影を落としました。 敏三とフユの間に生まれた得二について、芥川があまり良い印象を抱いていなかったのは 「弟と叔母が来たので、折角楽しみにして居た読書も十二分にできませんでした」という12歳の頃の日誌からもうかがえるでしょう。 伯母フクの教育のおかげで早熟だった芥川と、なかなか成績が振るわなかったという得二。 兄を見習えとばかりに家族から発破をかけられる得二にとっても、芥川は迷惑な存在でしかなかったのです。 さらにそのまま東京帝国大学英文科に入学します。 芥川はこの時、「英文科へ行かうか外の科へ行かうかそれも今では迷つてゐます」と叔父への手紙の中で述べていますが、家族には誰もそんな芥川の意思に反対する者は現れませんでした。 その理由は、『文学好きの家庭から』でこう語っています。 「父母をはじめ伯母もかなり文学好きだからです。 その代わり実業家になるとか、工学士になるとか言ったらかえって反対されたかもしれません。 」 また、この頃、 芥川は生家にお手伝いとしてやってきた女性、吉村千代に恋心を抱きます。 そして彼女に宛てて恋文を書きます。 ぼくはほんとうに 今では心のそこからお前を愛してゐる。 お前はだまってゐるときも わらつてゐるときも ぼくにとつてはだれよりもかはゆいのだ 一生、だれよりもかはゆいのだ。 ぼくのじゆうにならなくとも かはゆいのだ さうして、ぼくがお前をかわゆがると云ふ事が お前のしあはせのじやまになりはしないかと思つて心ぱいしてゐるのだ、ぼくは心のそこから おまへのからだのじようぶな事とお前がしあはせにくらう事をいのつてゐる この手紙で芥川は主に平仮名を使って書いていますが、これは千代が小学校を卒業した程度の知識しか持っていなかったため。 しかし芥川は、格式高い家の自分とお手伝いの千代は結ばれない運命にあることを十分に分かっていました。 だからこそ、千代への手紙ではただ一心に彼女を思い、案じるような内容となっているのです。 芥川、第二の恋愛。 芥川は大学に入学した翌年の 1914年、菊池寛や久米正雄をはじめとする一高の同級生たちと雑誌第三次「新思潮」を創刊。 同時期に、 幼馴染みの吉田弥生に恋愛感情を抱きます。 芥川の実家、新原家と吉田家は家族ぐるみで付き合いがあり、青山女学院の英文専科に通っていた弥生は芥川と学歴においても釣り合いが取れていました。 ときには久米正雄を連れて弥生の家に遊びにいくほどであり、弥生に宛てた手紙の 「眠る前に時々東京の事や 弥ぁちやんの事を思ひ出します」と慣れ親しんだ呼び方からも芥川と親密な関係にあったことがうかがえます。 順風満帆にいくかと思われたそんなふたりの関係は、ある日、弥生に舞い込んだ縁談で雲行きが怪しくなります。 相手は吉田家と遠い親戚の陸軍中尉であり、弥生の両親は親戚からの強い薦めで弥生を嫁がせる気持ちを固めます。 好意を持っていたものの、具体的な行動に出ていなかった芥川は、突如として弥生への気持ちを強く意識するようになります。 縁談がまだ本格的に進んでいないことを知った彼は 弥生へプロポーズしようと思い立ちますが、弥生が芥川家と折り合いの悪い新原家と親しい家の娘であること、吉田家が芥川家よりも身分の面で劣っていたことなどを理由に芥川家の人々から激しい反対を受けます。 芥川はそんな失恋の経緯と率直な気持ちを、親友の井川恭への手紙で打ち明けています。 ある女を昔から知つてゐた その女がある男と約婚をした 僕はその時になつてはじめて僕がその女を愛してゐる事を知つた(中略) 僕は求婚しやうと思つた (中略)家のものにその話をもち出した そして烈しい反対をうけた 伯母が夜通しないた 僕も夜通し泣いた 芥川にとって大切な幼馴染みとの恋は、身分を重んじる考えにとらわれていた芥川家によって叶わなかったのです。 家の呪縛によって自分の愛が終わってしまったことに芥川は思い悩むようになります。 失恋から創作へ。 家族のエゴイズムから吉田弥生との悲恋を経験した芥川は、 人間のエゴについて克明に描いた小説『羅生門』を執筆。 当時は評判にもならず、創作においても結果が出ないことに葛藤を抱いたものの、ここで劇的な出会いを迎えます。 そこでわざわざ芥川の名前が出されたのは、やはり強い友人関係が構築されていたからなのでしょう。 こうして芥川にとって重大な存在となる夏目漱石との出会いは果たされたのですが、初回の訪問時に芥川は 「どうも先生に反感を持たれてゐるやうな気がした」という印象を回想 『夏目先生』で語っています。 以前より憧れていた漱石を前に、芥川は漱石の顔色を見て過敏に受け取ってしまうほど緊張していたことがうかがえます。 漱石を中心とした木曜会に足を運ぶうち、 芥川たちは「ただ話を聞くだけでなく、作品を漱石先生に読んでいただきたい」と思うようになります。 やがて菊池寛なども加わり、第四次「新思潮」を創刊。 ここで芥川は『今昔物語』、『宇治拾遺物語』から題材をとったユーモラスな短編小説 『鼻』を発表しました。 漱石によって高い評価を受けた『鼻』を書いたときの芥川は25歳。 大学卒業を間近に、大人気作家の漱石から激励の手紙を受け取りました。 このことは確実な自信を持つきっかけになったのです。 時代の寵児だった芥川の最期。 大学を卒業した芥川は、横須賀の海軍機関学校の英語教師として教鞭を振るうこととなります。 その傍らで創作の熱が冷めやらなかった芥川は初の短編集『羅生門』を出版します。 次々と舞い込む執筆の依頼から一躍人気作家になろうとしていた芥川でしたが、佐藤春夫宛の手紙には 「僕を 流行児 はやりっこ扱ひにするのはよしてください」と書くなど、あくまでも謙虚でした。 そんな芥川は1919年に教職を辞して大阪毎日新聞社へ入社。 「出社の義務がなく、年に何回か紙面で小説を発表する。 雑誌への発表は自由だが、大阪毎日新聞と東京日日新聞以外の新聞へは執筆しない」という条件のもと、勤め始めます。 経済的に安定を得た彼は東京の田端にて執筆に専念。 教職を辞して朝日新聞社へ入社、新聞小説の創作を行った漱石と同じく、芥川も作家として成功します。 同年には 塚本 文 ふみと結婚。 吉田弥生との恋愛とは異なり、芥川家の後押しもあっての結婚でした。 文は芥川より8歳も年下ではありましたが、素直で正直な性格に惹かれた芥川は熱烈な恋文を度々送っています。 文と鎌倉に構えた新居で暮らした1年あまりの日々は、芥川の生涯のなかでも最も幸福な時期だったと言われています。 創作も順調であり、大阪毎日新聞の紙面で『地獄変』をはじめとする作品を発表していました。 ただ、そんな幸せな日々は長くは続きませんでした。 当初は文の素直な性格に惹かれて結婚、新生活を待ち遠しく思っていた芥川でしたが、 次第に理想と現実の間にギャップが生じていたことに気づきます。 「うちへ帰つてみると妻が君のところへ出す 筈 はずの手紙を 未 いまだに出さずにあると云ふ 封筒の上書きがしてないからまだ出しちやいけないんだと思つたんださうだ 莫迦 ばか してなきやしてないと云ふが好いや こつちは忙しいから忘れたんだと云ふと私莫迦よと意気地なく悲観してしまふ」 芥川はそんな文への苛立ちを、井川恭への手紙に綴っています。 それまで何かと世話を焼いてくれる伯母がいた芥川は、文の気が利かない点が特に気に障ったのでしょう。 「知識や金のある女とは幸せになれない」と考えていた芥川にとって、どちらにもあてはまらない文は願ってもない女性です。 しかし、文は創作における刺激やアイデアを求める相手にはふさわしくありません。 妻が芸術を解さない点もまた、文に失望する理由のひとつでした。 そんな矢先に芥川は、歌人の 秀 ひでしげ子と出会います。 お互いに結婚している身ではあったものの、愁いを帯びた表情と文学の知識を有していた彼女に惹かれた芥川は、関係を持ってしまいます。 しげ子と芥川が関係を持ったのはたった一度でした。 芥川は、しげ子が自分の弟子である南部修太郎とも関係を持っていたとを知るや否や、急速に気持ちが冷めていきます。 それでも芥川との関係を続けたいしげ子は、この頃に出産した子供を「芥川の子」と主張。 追い込まれた芥川は1921年、新聞社の海外視察員として中国出張をすることで体良く別れようと考えます。 これでしげ子から逃げられる……そう思って中国から帰国した芥川でしたが、次第に心身が衰え、病床へ伏すことが多くなります。 病状が悪化する一方で、なかなか筆が進まない状況に不安を感じた芥川を襲った悲劇はこれだけではありませんでした。 1927年、芥川の姉ヒサが嫁いだ西川家で火災が発生。 家には火災保険がかけられていたことから放火の嫌疑を受けたヒサの夫、西川豊が鉄道自殺を遂げるという事件が起こります。 掃除した際にアルコールを使用していたこと、漏電が火事の直接的な原因であったことが明らかになったものの、悲観した西川は自殺したと後に娘が 『影燈籠 芥川家の人々』において記しています。 芥川は西川の残した借金の後始末と、姉一家を経済的に支えることを迫られます。 自分がなんとかしなければ、家族だけでなくあらゆる人が食べていけない……そんなプレッシャーは、芥川の精神をさらに追い詰めていくのでした。 そして1927年の7月24日、芥川は睡眠薬を飲んで自殺を図ります。 2017年3月に発見された、芥川の主治医・下島勲の日記には 「(カンフル剤を)二百注射しておいて聴診器を当てゝみると音がしない」、「全く心臓が停止して絶望的である」と生々しい様子が記されています。 」と書いています。 経済的な悩みや体を蝕む病は、少しずつ彼に死を意識させていたのでしょう。 sankei. html 芥川の最後の恋人、片山廣子。 shogakukan. これまでほとんど知られていませんが、その女性とは歌人でアイルランド文学の翻訳を手掛けていた 片山廣子です。 1924年の夏、芥川は仕事と休養をかねて長野県の軽井沢を訪れます。 軽井沢の旅館、つるやで彼は廣子に出会います。 歌作で知り合った芥川と廣子はもともと、手紙を交わすような親しい仲。 そんなふたりは軽井沢で出会ったことをきっかけに、交流を深めていきます。 才色兼備で文学の知識も豊富である廣子は、室生犀星や堀辰雄をも魅了します。 好色ですぐに快楽にふけるような男だった芥川も、怪我をした廣子に見舞いの句を即座に届けるほど夢中になるのでした。 「あなたと話していると魂が飛翔していく。 希望に満ちた十九世紀のアラン島に舞い降りたようです」 廣子の横顔を芥川が眩しそうに見つめた。 それが亡き夫との違いなのだと思った。 亡き夫は、アイルランドの詩人に希望を見出すことはできなかった。 目の前の生活が満たされていれば幸せになれる人間だったからだ。 結婚後、妻と芸術的なものを分かち合えなかった芥川と同じように、廣子も亡き夫と文学の知識を共有できませんでした。 それもあってか、お互いに文学を愛する廣子と芥川が惹かれ合うのはごく自然なことだったといえるでしょう。 廣子との日々を芥川は 「もう一度二十五歳になったように興奮している」と手紙につづっていますが、 25歳とは芥川が漱石に『鼻』を絶賛された頃。 創作に絶対的な自信を持ち、創作に意欲を見せた年のような情熱を廣子に見出したのです。 廣子は芥川の死を新聞で知って以来、世間との交わりを捨ててひっそりと生きていきます。 その胸には、わずかな時間をともに過ごした恋情の相手、芥川との思い出がありました。 やがて芥川が晩年に残していた詩、『越し人』から廣子は隠された思いを知ることに……この詳細は、 にて述べられています。 没後90年を迎えた今だからこそ、知っておきたい芥川。 優れた作品を多数残した一方で、晩年には人間社会を痛烈に批判した 『河童』や孤独と絶望に対する暗い心象風景を映し出した 『歯車』などで生きることへの疑問を投げかけた芥川。 死の8年後には友人の菊池寛が芥川の業績を讃えて創設した「芥川龍之介賞」は今、大変重要な文学賞となりました。 文学賞としての知名度はもちろん、時代を超えて今でも多くの人に愛される芥川龍之介。 作品だけでなく、彼の生涯に注目することで新たな発見があるはずです。

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芥川龍之介 ひょっとこ

芥川 龍之介

芥川龍之介の生い立ち 芥川龍之介は明治25年(1892)現在の東京都中央区明石町である東京市京橋区入船町8丁目で牛乳製造販売業を営んでいた父・新原敏三と母・フクから長男として誕生します。 2人の姉がいましたが、長姉は芥川龍之介が誕生する前に6歳で亡くなっていました。 芥川龍之介が生後7ヵ月後頃に母・フクが精神を患ったため、 東京市本所区小泉町にある母・フクの実家の芥川家に預けられます。 芥川家では伯母フキに養育されていましたが、芥川龍之介が11歳の時、母・フクが亡くなったため、叔父・芥川道章の養子となり、芥川の姓を名乗るようになりました。 明治31年(1898)江東尋常小学校に入学し、その後、府立第三中学校を卒業します。 芥川龍之介は中学校を卒業する際「多年成績優等者」の賞状を受けたため第一高等学校第一部乙類に入学しました。 同期入学者の中には、小説家の久米正雄(後の小説家)、松岡讓(後の小説家)、佐野文夫(後の日本共産党幹部)がいたとされています。 その後、大正2年(1913)東京帝国大学文科大学英文学科へ進学します。 芥川龍之介は在学中の大正3年(1914)に 菊池寛、久米正雄とともに同人誌『新思潮』(第3次)を刊行しました。 この際、 「柳川隆之助」という名前でアナトール・フランスの「バルタザアル」、イエーツの「春の心臓」を和訳したものを寄稿すると10月になると処女小説「老年」を発表します。 こうして 作家としての活動が始まりました。 この頃、芥川龍之介は青山女学院英文科卒の吉田弥生という女性と交際し結婚を考えましたが、芥川家が結婚に反対したため、結婚の話はなくなりました。 作家として 大正4年(1916) 芥川龍之介は『新思潮』(第四次)を刊行します。 この時、菊池寛、久米正雄、松岡譲らとともに刊行しました。 この創刊号の中に掲載された 芥川龍之介の作品「鼻」は夏目漱石によって絶賛されます。 同年、卒論「ウィリアム・モリス研究」を提出し、 東京帝国大学文科大学英文学科を卒業します。 同年12月、海軍機関学校英語教官を務めていた浅野和三郎が新宗教に入信するため辞職しました。 その 海軍機関学校英語教官の後任に芥川龍之介は浅野和三郎から推薦され、海軍機関学校の嘱託教官となります。 その傍らで執筆活動は続け、大正6年(1917)5月、 初の短編集となる『羅生門』を刊行します。 11月になると 第二短編集『煙草と悪魔』も刊行しました。 大正7年(1918)慶應義塾大学文学部への就職の話を聞き履歴書を出すも、実現にはならず大正8年(1919)3月、 海軍機関学校の教職を辞め大阪毎日新聞社に入社します。 大正8年(1919)3月12日、 友人・山本喜誉司の姉の娘・塚本文と結婚しました。 同年5月には菊池寛とともに長崎旅行を行い、日本画家・近藤浩一路から劇作家・永見徳太郎を紹介されます。 また同年には海外視察員として中国へと旅立ち、7月に帰国すると 紀行文「上海遊記」を記しました。 この 旅行後から芥川龍之介は、神経衰弱、腸カタルなどを患うようになり大正12年(1923)には湯河原町へ湯治を行います。 大正12年(1923)9月1日に関東大震災が発生すると病弱であるものの自警団に参加しました。 大正14年(1925)頃になると文化学院文学部講師に就任し、大正15年(1926)になると 胃潰瘍、神経衰弱、不眠症などを患い再び湯河原町で湯治を行いました。 これまで、妻・文とは自身の弟・塚本八洲の療養のために別居していましたが、7月20日は妻・文、三男・也寸志と一緒に東屋の貸別荘「イ-4号」を借り暮らすようになります。 7月下旬になると親友・画家小穴隆一も隣の「イ-2号」を借りて住むようになりました。 芥川龍之介の最期 昭和2年(1927)1月、義兄・西川豊が放火と保険金詐欺の疑惑をかけられ自殺を図ります。 このことによって 芥川龍之介は義兄・西川豊の遺した借金や家族の面倒をみなければなりませんでした。 同年4月、作家・谷崎潤一郎が「物語の面白さ」を主張するのに対して芥川龍之介は「物語の面白さ」は小説の質を決めないと反論しています。 この頃、芥川龍之介は秘書・平松麻素子と帝国ホテルで心中未遂事件を起こします。 同年、7月24日未明、 「続西方の人」を書き上げた芥川龍之介は、精神科医・斎藤茂吉から貰った睡眠薬を大量に飲み自殺し、35歳で亡くなりました。 この芥川龍之介の自殺は社会に衝撃を与えたとされています。 死因 芥川龍之介は睡眠薬を大量に飲み自殺したとされていますが、 山崎光夫さんは、芥川龍之介の主治医であった下島勲が残した日記から、芥川龍之介の死因は青酸カリによる服毒自殺であったと推測しています。 作品 芥川龍之介の作品は短編小説が多く知られています。 芥川龍之介の作品は初期、中期、晩年で全く異なった特徴を持つとされています。 初期作品 「羅生門」「鼻」「芋粥」などの作品は説話文学を典拠とされた、歴史物、またキリシタンを題材にしたキリシタン物、また児童向けの作品「蜘蛛の糸」「杜子春」などが有名です。 人間のエゴイズムを描き出した作品が多いとされています。 中期作品 芸術至上主義的な「地獄変」「トロッコ」などを残しました。 この頃になると長編小説「邪宗門」を執筆します。 晩年作品 晩年、自殺を図った芥川龍之介でしたので、この時期になると生死を取り上げた作品が多く残されました。 告白的自伝である「大導寺信輔の半生」「点鬼簿」などを残し、代表作「河童」は河童から見た人間社会を描きました。

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