明治 神宮 野球 大会 ライブ。 公益財団法人 日本学生野球協会

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明治 神宮 野球 大会 ライブ

DAZNは初登録1ヶ月無料。 Wi-Fi環境があればリアルタイムで観れる! 3. 明治神宮大会はその名の通り明治神宮球場で行われる学生野球のトーナメントです。 毎年11月に開催され、大学の部と高校の部があります。 高校の部は、• 北海道• 北信越• 九州 の秋の各地区大会優勝校が集ってトーナメント方式で優勝を争います。 なお、各地区大会の優勝校が出場するようになったのは2000年以降になります。 春のセンバツ高校野球大会は明治神宮大会のおよそ4ヶ月後に開催されます。 明治神宮大会に出場した高校は、翌年のセンバツ大会への出場はほぼ間違いなし。 夏以降の新チームで争う大会ではありますが、明治神宮大会出場メンバーが多く春のセンバツでもベンチ入りします。 多少のメンバーの入れ替えはあるにせよ、明治神宮大会での主力メンバーがチームの中心となってセンバツ大会に出てきます。 そのため明治神宮大会での成績がセンバツを占う意味でも重要なのです。 それでは次に明治神宮大会の優勝校・準優勝校の翌年センバツでの成績を見てみましょう。 明治神宮大会の優勝・準優勝校の翌年センバツ成績一覧 明治神宮大会の優勝校・準優勝校別に翌年春のセンバツ大会での成績を見てみましょう。 なお、ここでは各地区大会の優勝校が出場するようになった2000年以降の成績を紹介しています。 まずは優勝校からです。 明治神宮大会優勝校の翌年春のセンバツ成績一覧 年度 優勝校 翌年センバツ成績 2000 東福岡 福岡 ベスト8 2001 報徳学園 兵庫 優勝 2002 中京 岐阜 3回戦 2003 愛工大名電 愛知 準優勝 2004 柳ヶ浦 大分 1回戦 2005 駒大苫小牧 北海道 出場辞退 2006 高知 高知 1回戦 2007 常葉菊川 静岡 3回戦 2008 慶応 神奈川 1回戦 2009 大垣日大 岐阜 ベスト4 2010 日大三 東京 ベスト4 2011 光星学院 青森 準優勝 2012 仙台育英 宮城 ベスト8 2013 沖縄尚学 沖縄 ベスト8 2014 仙台育英 宮城 2回戦 2015 高松商 香川 準優勝 2016 履正社 大阪 準優勝 2017 明徳義塾 高知 3回戦 2018 札幌大谷 北海道 ? 明治神宮大会準優勝校の翌年春のセンバツ成績一覧 年度 準優勝校 翌年センバツ成績 2000 尽誠学園 香川 ベスト8 2001 関西 岡山 ベスト4 2002 延岡学園 宮崎 2回戦 初戦 2003 大阪桐蔭 大阪 2回戦 2004 愛工大名電 愛知 優勝 2005 関西 岡山 2回戦 2006 報徳学園 兵庫 1回戦 2007 横浜 神奈川 2回戦 初戦 2008 天理 奈良 1回戦 2009 東海大相模 神奈川 1回戦 2010 鹿児島実 鹿児島 ベスト8 2011 愛工大名電 愛知 ベスト8 2012 関西 岡山 2回戦 初戦 2013 日本文理 新潟 1回戦 2014 浦和学院 埼玉 ベスト4 2015 敦賀気比 福井 2回戦 2016 早稲田実 東京 2回戦 2017 創成館 長崎 ベスト8 2018 星稜 石川 ? 2000年以降の明治神宮大会優勝校で、翌年春のセンバツ大会に優勝したのは報徳学園の1校のみ! 準優勝は4校あります。 一方で準優勝校の翌年春のセンバツでの優勝も1校。 2004年の愛工大名電高校で、準優勝したチームはありません。 初戦敗退のチームもチラホラありますし、必ずしも明治神宮大会の成績が春のセンバツに直結するとはいえない結果です。 センバツ大会が開催されるまでの冬の期間に、大きくチームとして成長を遂げるところもあります。 この期間の充実ぶりがセンバツ大会に大きく影響してくるのではないでしょうか? 2018年秋の明治神宮大会の成績詳細 最後に2018年秋の明治神宮大会の戦績を詳しく紹介します。 春のセンバツ2019の参考として見ていただければ幸いです。 準優勝は擁する星稜高校でした。 果たしてこの2校のセンバツ成績はいかに!?

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明治神宮野球大会(高校の部・大学の部)を全試合ライブ中継|株式会社朝日新聞社のプレスリリース

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明治神宮大会第5日は大学の部準決勝2試合。 第1試合は慶大(東京6大学)が城西国際大(関東5連盟第1代表)に快勝し04年以来15年ぶりの決勝へ。 第2試合は関大(関西5連盟第1代表)が延長10回タイブレークの末、東海大(関東5連盟第2代表)を破り47年ぶりの決勝進出を決めた。 高校の部は休養日。 明日20日は午前10時から高校の部決勝・高崎健康福祉大高崎-中京大中京、引き続き大学の部決勝が行われる。 2番関本は三塁内野安打で無死一、二塁。 3番上神は一塁前へ送りバントも三封で1死一、二塁。 4番野口は一塁線を破る適時二塁打で2者生還。 送球間に三塁へ。 5番吉川がスクイズを決め3点を先制 東海大は1回裏、2死から3番杉崎が死球。 4番海野(ソフトバンク2位)は右前安打で一、二塁。 5番小松が左中間を破る適時三塁打を放ち2点を返した 関大は2回表、3者凡退 東海大は2回裏、7番串畑が中前安打。 8番代打小玉は三ゴロ併殺。 9番竹内は三ゴロ 関大は3回表、1死から3番上神が四球。 2死後5番吉川が左前打し一、二塁。 6番久保田は三ゴロで無得点 東海大は3回裏、3者凡退 関大は4回表、7番倉川が四球。 8番坂之下は捕手前へバントも併殺。 9番代打本城は遊飛で無得点 東海大は4回裏、4番海野が四球。 送って1死二塁。 6番長倉の右飛で2死三塁。 7番串畑の適時二塁打で3-3同点 関大は5回表、1番安藤が遊撃内野安打。 捕逸で二進。 2番関本は四球。 送って1死二、三塁。 4番野口は四球で満塁。 5番吉川は三振で2死。 6番久保田も三振で勝ち越しならず 東海大は5回裏、 9番竹内が左翼席へソロ本塁打し4-3と勝ち越し 関大は6回表、2死から代打森山が死球で出たが無得点 東海大は6回裏、3者凡退 関大は7回表、2番関本が中前安打。 暴投で無死二塁。 3番上神は四球。 4番野口は遊ゴロで1死一、三塁。 5番吉川は四球で満塁。 6番久保田は右中間を破る走者一掃の適時二塁打、6-4と逆転 東海大は7回裏、関大・肥後の前に3者三振 関大は8回表、3者凡退 東海大は8回裏、1死から3番杉崎が右前安打。 暴投で一気に三進。 4番海野の右犠飛で5-6 関大は9回表、1死から4番野口が右二塁打。 しかし後続倒れ無得点 東海大は9回裏、1死から7番串畑が四球。 8番代打亀田は三振で2死二塁。 串畑が三盗成功。 9番竹内は四球で一、三塁。 1番千野の中前適時打で6-6同点。 タイブレークへ 関大はタイブレーク10回表無死一、二塁。 7番倉川は送りバントをファウルした後、見逃し三振で1死。 8番坂之下は左越え適時二塁打で1点を勝ち越し。 9番代打原は申告敬遠で満塁。 1番安藤は押し出し死球で8-6とした 東海大はタイブレーク10回裏無死一、二塁。 3番杉崎は投ゴロで1死二、三塁。 4番海野は申告敬遠で満塁。 5番小松は三振で2死満塁。 6番植村の左前適時打で7-8。 7番串畑は遊ゴロに倒れ試合終了 関大は1972年(昭47)以来47年ぶりの決勝進出 関大対東海大 タイブレーク10回表関大1死満塁、押し出しで生還し、仲間とハイタッチする浜田(右)(撮影・大野祥一) 関大対東海大 タイブレーク10回表関大1死一、二塁、左越え適時二塁打を放つ坂之下(撮影・大野祥一) 関大対東海大 8回裏東海大1死三塁、右犠飛を放つ海野(撮影・大野祥一) 関大対東海大 7回表関大1死満塁、3点適時二塁打を放ち、ガッツポーズする久保田(撮影・大野祥一) 関大対東海大 7回表関大1死満塁、右中間を破る3点適時二塁打を放つ久保田(撮影・大野祥一) 関大対東海大 5回裏東海大無死、勝ち越しの本塁打を放ち、笑顔でハイタッチする竹内(右)(撮影・大野祥一) 関大対東海大 4回裏東海大2死三塁、左翼線に適時二塁打を放つ串畑(撮影・大野祥一) 関大対東海大 4回表関大無死一塁、坂之下(左)のバントを捕球し、二塁に送球してアウトにする海野(撮影・大野祥一) 関大対東海大 1回裏東海大2死一、二塁、左中間を破る2点適時三塁打を放ち笑顔の小松(中央)。 左は関大・牧(撮影・大野祥一) 関大対東海大 1回裏東海大2死一、二塁、左中間を破る2点適時三塁打を放つ小松(撮影・大野祥一) 関大対東海大 1回裏東海大2死一塁、右安打を放つ海野(撮影・大野祥一) 関大対東海大 1回表関大1死一、二塁、2点適時三塁打を放ち、ガッツポーズする野口(撮影・大野祥一) 関大対東海大 先発の東海大・村上(撮影・大野祥一) 関大対東海大 先発の関大・牧(撮影・大野祥一) 大学の部:慶大6-1城西国際大 チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 計 城西 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 慶大 1 1 0 0 0 1 3 0 X 6 【城】舘(平塚学園)中島(仙台育英)宮崎(進修館)島袋(長崎日大)長井(阪南大高) 【慶】木沢(慶応)増居(彦根東)津留崎(慶応)高橋佑(川越東)石井(慶応志木) 【本】中村健(慶) 【試合経過】 城西国際大は1回表、1番岸添が149キロ打って右前安打。 2番横井は送りバントを試みたが投ゴロ併殺。 3番篠崎は四球。 4番浪川は三振で無得点 慶大は1回裏、 1番中村健が左翼席へ先頭打者本塁打を放ち先制。 1死後、3番柳町(ソフトバンク5位)は四球で出塁も二盗失敗。 4番郡司(中日4位)は二飛 城西国際大は2回表、1死から6番梅田が四球。 二盗成功。 7番真田は三振で2死二塁。 8番舘は三振で無得点 慶大は2回裏、5番正木が四球。 送って1死二塁。 2死後、 8番瀬戸西の右翼線適時二塁打で2-0 城西国際大は3回表、3者凡退 慶大は3回裏、1死から2番下山が敵失で出塁。 3番柳町は遊ゴロ併殺打で無得点 城西国際大は4回表、3番篠崎が中前安打。 その後2死三塁から 6番梅田の左越え適時二塁打で1-2 慶大は4回裏、3者凡退 城西国際大は5回表、2死から1番岸添が四球。 しかし二盗失敗で無得点 慶大は5回裏、3者凡退 慶大は6回から1年生左腕増居が登板 城西国際大は6回表、2死から4番浪川が中前安打。 5番村上は中飛で無得点 慶大は6回裏、1番中村健が中前安打。 送って1死二塁。 3番柳町(ソフトバンク5位)の中前適時打で3-1 慶大は7回から津留崎(楽天3位)が登板 城西国際大は7回表、1死から7番山田が右前安打。 しかし後続倒れ無得点 城西国際大は7回から中島が登板 慶大は7回裏、6番小原が内野安打。 城西国際大はここで3人目の宮崎が登板。 送って1死二塁。 8番瀬戸西は左中間を破る適時二塁打を放ち4-1。 その後2死二、三塁から敵失で2点を加え6-1とした 慶大は8回から高橋佑が登板 城西国際大は8回表、3者凡退 慶大は8回裏、1死から5番渡部が内野安打。 二盗成功。 6番小原は投手ライナー。 二塁走者戻れず併殺で無得点 慶大は9回から石井が登板 城西国際大は9回表、3者凡退で試合終了 慶大が15年ぶりの決勝進出を決めた 城西国際大対慶大 決勝進出を逃し肩を落とす城西国際大の選手たち崎(撮影・大野祥一) 城西国際大対慶大 決勝進出を決め、喜ぶ慶大の選手たち(撮影・大野祥一) 城西国際大対慶大 3番手の慶大・津留崎(撮影・大野祥一) 城西国際大対慶大 6回裏慶大1死二塁、適時打を放ち、笑顔の柳町(撮影・大野祥一) 城西国際大対慶大 6回裏慶大1死二塁、中前適時打を放つ柳町(撮影・大野祥一) 城西国際大対慶大 2番手の慶大・増居(撮影・大野祥一) 城西国際大対慶大 5回表城西国際大2死一塁、盗塁死する岸添(左)(撮影・大野祥一) 城西国際大対慶大 4回表城西国際大2死三塁、梅田に適時打を打たれ、マウンド上で話す木沢(左)と郡司(撮影・大野祥一) 城西国際大対慶大 4回表城西国際大2死三塁、左越え適時二塁打を放ち、ガッツポーズする梅田(撮影・大野祥一) 城西国際大対慶大 4回表城西国際大2死三塁、左越え適時二塁打を放つ梅田(撮影・大野祥一) 城西国際大対慶大 2回裏慶大2死二塁、右翼線に適時二塁打を放つ瀬戸西(撮影・大野祥一) 城西国際大対慶大 1回裏慶大無死、本塁打を放ち、ガッツポーズする中村(撮影・大野祥一) 城西国際大対慶大 先発の慶大・木沢(撮影・大野祥一) 城西国際大対慶大 先発の城西国際大・舘(撮影・大野祥一).

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施設データ 所在地 3番1号 座標 : 起工 (大正14年) 開場 (大正15年) 所有者 グラウンド ロングパイル ダグアウト ホーム - 一塁側 ビジター - 三塁側 照明 照明塔 - 6基 照度 投捕間3000Lx 内野2300Lx 外野1700Lx 建設費 53万円 設計者 旧称 STATESIDE PARK(1945年 - 1952年) 使用チーム• 開催試合 主なアマチュア関連• (開場 - 現在)• (1927年 - 1937年)• (1932年 - 現在)• (1952年 - 現在)• (1970年 - 現在)• (1974年 - 現在)• (1974年 - 現在) プロ野球の使用チーム• (1962年 - 1980年)• (1964年 - 現在) 収容能力 目次• 概要 [ ] (15年)に開場以来、においてはの主要球場として長年使用され、のほか1部リーグおよび入れ替え戦を中心に今日まで使用されている。 他にものおよびや、の他、(。 過去には、現在も東京都予選が)、日本リトルシニア全日本選手権など多くのアマチュアの大会が開催されている。 日本国内ではとならんで「野球の聖地」とうたわれる野球場でもある。 アマチュア専用として初期は公式戦での使用は認められなかったが、徐々に緩和され現在ではが(本拠地球場)として使用している。 なお、本来の表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない『明治神宫野球場』であるが(正面玄関上の球場名の文字看板はこの表記)、一般にはの「宮」が使用されている(球場公式サイトも同様)。 歴史 [ ] 建設から戦前まで [ ] 神宮球場が完成したのは(大正15年)である。 明治神宮外苑に(にに改築され、現在はが建設されている。 )などのスポーツ施設が建造されるなか建設された。 当時の金額で総工費は53万円、うちが48万円を出費し、東京六大学野球連盟が5万円を本工事に寄付。 敷地造成工事に着手したのは(大正14年)12月で、翌年1月に起工式、10月23日に竣功式が行われ、摂政宮裕仁親王(のちの)とが臨席し、初試合として東京対横浜の中等学校代表および東京六大学選抜紅白試合が行われた。 東京六大学はこの年の秋季よりリーグ戦の一部の試合で使用し、(2年)からはこの球場を会場として都市対抗野球大会も始められた。 なお、建設されるはるか前、江戸時代は江戸幕府に使えた甲賀者の「百人組」が住んでいた居住地「青山甲賀町」だった。 与力、同心の屋敷、鉄砲射撃場などがあったとされ、射撃場のあった場所がちょうど外野ライト前に当たる。 忍者頭高峰家の屋敷があった場所が、現在の球団クラブハウスに当たる。 などで収容能力に不足が見られたため、(昭和6年)には東京六大学野球連盟が工費55万円を負担して内野・外野スタンドを増築、球場正面を除いて外形が現在の形となった。 収容人員は29,000人 から58,000人(の実況アナウンスでは「6万の観衆、内野外野のスタンドに詰めかけまして」という表現が見られる) に増えている。 東京六大学はこの年からリーグ戦の全試合を神宮球場で開催するようになり、(昭和7年)には東都大学野球連盟のリーグ戦も開催され始めた。 建設の経緯、および明治神宮が管理運営するというスタイルから、戦前は「アマチュア野球の聖地」とされ、プロ野球の使用は論外という雰囲気があった。 社長のは「将来プロにする」ということを伏せて全日本チーム(後にとなる)を組織し、(昭和9年)にの招待試合を神宮球場で開催した。 正力は翌年2月にに切りつけられる事件に見舞われたが、犯人が取り調べで述べた動機には「読売がアメリカの野球チームを招き神聖な神宮球場を使ったこと」が、支持とともに挙げられており、当時の風潮がうかがえる。 第二次世界大戦前後 [ ] 勃発後の(昭和13年)には都市対抗野球大会が完成直後のに会場を移し、さらに(昭和18年)にはの激化によりからの通達で、東京六大学と東都は共に解散となってしまった。 (昭和20年)5月には、による(山の手大空襲)によって被災し、火災によって一部が崩れ落ちた。 後には、日本占領軍であるアメリカ軍により接収され、連合国軍専用球場として 「Stateside Park(ステイトサイド・パーク)」の名称で使用された。 それでも終戦年である1945年(昭和20年)には日本人の使用にも開放され、東京六大学OB紅白試合、オール早慶戦、などが行われた。 このうち、東西対抗戦は発足後に当球場で初めて開催されたプロの試合である。 (昭和21年)からは東京六大学と東都が復活、春季は神宮球場での試合は認められなかったが秋季から一部の試合で開放されている。 帝国主義者を養成してきた東京大学に球場を使用させないというのも接収が1952年まで続いた理由の1つであった [ ]。 1946年(昭和21年)5月から6月にかけ連合国軍により修復工事が行われ、照明設備が新たに設置され内野にも天然芝が敷かれている。 この時期には球場初のプロ野球公式戦、の前身である大学野球王座決定戦、第1回目のプロ野球第1戦(当時の呼称は「日本ワールドシリーズ」)などが開催されている。 東京六大学はなどと併用してリーグ戦を行っていたが、(昭和25年)秋季より全試合での開催を認められている。 ただし連合国軍による接収が解除されて明治神宮に返還されたのは、の発効間近である(昭和27年)3月のことである。 プロ野球球団の本拠地へ [ ] 連合国軍による接収解除後は内野天然芝と照明が撤去され、バックネット裏前列に(昭和28年)から放送が開始された放送席が新設されている。 には相撲場跡地に第2球場が完成した。 1962年(昭和37年)からは閉鎖されるの代わりとしてフライヤーズ(現・)が使用を開始し、次いで(昭和39年)に後楽園球場からスワローズ(現・)が、東映と入れ替わるように移転している。 これらの動きには学生野球界は強く反対したものの、結局は認められた(詳細は)。 相次ぐ改修 [ ] 東映の使用開始時の1962年にはバックネット裏の増築、ナイター設備新設、の設置といったプロ基準に合わせる改修を施した。 さらに(昭和42年)にはホームベースを動かすなど当時の標準的な球場に近づける大改修が行われた。 その後幾たびも改修が重ねられ、個別座席・人工芝グラウンド・照明塔・電光スコアボードなどが取り入れられている。 収益を優先する観点から、1981年に一度は廃止されたフェンス広告をのちに再開した。 またコンサートなど大型イベントの開催も行うなどの動きもある。 収益の高いプロ野球を人気の低下が見られる学生野球より優先しようとする意見もあるが、優先度の変化のみで学生野球優先の方針は維持されたまま現在に至っている(詳細は)。 (19年)からは大規模な改修工事を実施し、(平成20年)に竣工式が行われた。 スコアボードの全面フルカラーフリーボード化やフィールドの拡張、ロングパイル人工芝への張替えなどを行った。 総工費は約15億円。 (平成23年)シーズンからボールカウントの表示方式を、日本国内で旧来使用されていた「SBO」(上からストライク、ボール、アウト)順から、国際ルールに則した「BSO」順に変更した。 当球場のカウント表示はを使用しているため()表示部分 の改修は必要なく、の更新などで対応した。 同年には内野席に、2013年には外野席にウッドデッキ調の特別席が設置された。 2013年オフからは3年計画でスタンドの老朽箇所の改修と、耐震補強工事を実施する。 施工業者は。 工事は継続的に野球の試合に利用できるようにするため、シーズンオフ(年度下半期)のみに限定し、2016年3月の完全竣工時にに基づく耐震認定の検定を受ける。 第1期(2013年度)は内野正面スタンド部(屋根を除く)、第2期(度)は1・3塁側内野スタンドと正面スタンドの屋根、第3期(度)は外野席の改修を行う。 また外壁の改修は耐震補強工事に従って順次行う。 正面スタンドは一部が耐震補強壁となることから歴史性を忍ばせ、耐久性に優れたレンガ素材を使用した壁面を使用する。 正面スタンドの大屋根は鉄製からテフロン製テント膜に変更される。 また正面スタンドの大屋根は現在の鉄骨骨組を補強した際は、2階席から視界が遮られてしまうので、鉄骨の骨組みを盛替えて改修する。 屋根の軽量化を図るためにこれまで使用していた鉄板からテフロン膜を使用することで、最小限の構造部材でくみ上げられるような形状とする。 建て替え計画 [ ] ウィキニュースに関連記事があります。 現球場は築90年を超え、老朽化や耐震補強が課題となっており、上記の通り2013年から3年計画による工事を実施(上述以外ではに人工芝の張替を施工)しているが、2013年ごろから、が2021年から神宮外苑の再開発を行う構想を打ち出している と、複数の報道機関が報じた。 この報道がなされた2013年現在はまだ地権者との話し合いが行われている段階だった。 、の開催後に、明治神宮外苑をスポーツの聖地とするための再開発を進める一環として、近接の 区境を跨ぎにある との土地交換で新球場を建設する計画を明らかにした。 計画案としては、まず東京大会前までに現ラグビー場を撤去・解体し、開催期間中は暫定的に駐車場として利用する。 大会終了後、正式に新球場の建設工事に取り掛かり、完成後に現在の神宮球場を撤去・解体する。 また現在の神宮球場の跡地に新ラグビー場を建設する方針である。 また第二球場についても、再開発をするにあたり解体する予定で、工事中も野球・ラグビーなどが滞りなく、可能な限り開催できるようにすべく、新たな球技場の建設を予定している。 その後、2017年7月に当初の計画案から順番を入れ替えた形で秩父宮ラグビー場、神宮球場の順に建て替える方向で調整が進められていることが明らかになった。 そして、2019年2月25日に神宮球場を所有する、秩父宮ラグビー場を所有する、、の4者で神宮球場と秩父宮ラグビー場の場所を入れ替えて再整備する神宮外苑地区の再開発の基本協定が締結された。 2020年東京大会の翌2021年に神宮第二球場を解体し、2022年以降に新たなラグビー場の建設を開始する。 新たなラグビー場の工事が一旦完了する2024年以降に現在の秩父宮ラグビー場を解体し、その跡地に新たな野球場を建設する。 新たな野球場が完成する2027年以降に現在の神宮球場を取り壊してラグビー場の観客席を増設、神宮外苑地区の再開発完了は当初の計画では2030年の予定であった。 しかし計画の見直しにより、新たなラグビー場の工期を2023年〜2026年に変更、新たな野球場は2027年に工事を開始し2031年ごろに完成する予定となり、再開発全体の完了時期は5年ほど遅れて2035年に変更されることになった。 年表 [ ]• (15年) - 10月に完成。 東京六大学野球連盟の使用開始。 (2年) - 米選抜との日米親善試合が行われる。 が球場初の本塁打を放った。 またこの年より(昭和12年)まで都市対抗野球大会が開催された。 (昭和6年) - スタンド増築工事竣工。 初めてを採用。 (昭和7年) - 東都大学野球連盟の使用開始。 (昭和9年) - 日米親善大会として行われた選抜チームと全日本チーム(の原型)の対戦でプロが初めて神宮球場を使用。 (昭和18年) - 東京六大学と東都が解散。 リーグ戦中断。 (昭和20年) - 空襲により一部損壊。 終戦後にに接収され、「STATESIDE PARK」(ステイト・サイド・パーク)と改称される。 (昭和21年) - 修復工事実施。 内野天然芝・照明設備完成。 秋季シーズンより東京六大学の使用再開。 (昭和23年) - プロ野球公式戦初試合 (対戦)と大学野球王座決定戦(第2回、以降(昭和26年)まで)開催。 (昭和25年) - の第1戦(対戦)が行われる。 (昭和27年) - 明治神宮に返還される。 内野天然芝・照明設備撤去。 開催(以降毎年開催)。 (昭和33年) - スコアボード改修。 (昭和37年) - が使用開始((昭和55年)まで)。 がプロ野球開催時のみ登場。 バックネット裏スタンド拡張。 同年6月には照明設備が完成。 (昭和39年) - より移転したのとなる。 東映フライヤーズは後楽園球場に事実上移転。 (昭和40年) - ラッキーゾーン固定、金網フェンスを従来のコンクリートフェンス内側に設置。 (昭和42年) - スタンド・グラウンド改築。 グラウンドを縮小(一部拡大)、ラッキーゾーン廃止。 (昭和44年) - フェンス広告設置。 (昭和45年) - 金網フェンス廃止。 コンクリートフェンスにラバーを貼り付け。 を開催(以降毎年開催)。 (昭和47年) - 開催(以降不定期開催)。 (昭和48年) - が主催試合の一部で使用する((昭和52年)まで)。 (昭和50年) - 照明塔ランプ改良。 (昭和51年) - 神宮球場竣工50周年記念試合として東京六大学選抜対東都大学選抜の対抗試合を実施。 (昭和53年) - 外野席改修工事完成。 芝生席をプラスチック製の座席に変更。 が初のリーグ優勝。 ただし、この年のは開催されなかった(参照)。 (昭和55年) - 電光スコアボード完成、看板広告を設置。 ファウルグラウンド人工芝を敷設。 アーケード部分に塗装が施される。 、明治神宮鎮座60年を記念し、第1回を開催(以後毎年開催)。 (昭和56年) - フェンス広告抹消。 フェンスを濃い緑色に変更。 (昭和57年) - フェアグラウンドに人工芝敷設。 フェンスを青色に変更。 こけらおとし興行として東京六大学と東都の前季優勝校対決を実施。 塁ベースを黒土からに変更。 (昭和58年) - マウンドおよびブルペンをアンツーカーに変更。 ネット裏にの電動式広告設置。 (昭和60年) - 内野側照明塔4基建て替え。 (昭和61年) - 外野側照明塔2基建て替え。 (昭和62年) - 外野身障者席・トイレ新設。 (昭和63年) - 野球規則の一部変更に対応しマウンドの高さを変更。 併せて人工芝も全面張り替え。 (昭和64年・元年) - ファウルポールの塗色を黄色から白色に変更。 (平成4年) - ヤクルトスワローズ主催の日本シリーズをこの球場では初めて実施し、デーゲームで行われた。 なお、学生野球はナイトゲームで実施。 (平成5年) - 内野部分の人工芝張り替え。 内野席の椅子を折り畳み式に取替え。 (平成7年) - スコアボードを改修、カラービジョンを設置。 外野フェンス上部に1. 5mの金網フェンスを追加。 (平成8年) - 神宮球場竣工70周年記念試合として東京六大学選抜対東都大学選抜の対抗試合を実施。 (平成13年) - 内野フェンス改装に伴い、大学野球用の応援台設置用金具をフェンス支柱と一体化(応援台の所有者は)。 (平成15年) - 内野部分の人工芝張り替え。 (平成17年) - 第1回(ヤクルトスワローズ対戦)開幕試合開催。 (平成18年) - 広告を大幅変更。 、明治神宮外苑の創建80年を記念して、東京六大学選抜対のプロ・アマ交流試合開催。 (平成20年) - スコアボードを全面化、グラウンド拡張、ロングパイル人工芝導入。 (平成23年) - 内野スタンドに調の特別席「ドリームシート」を設置。 (平成25年) - 外野スタンドにウッドデッキ調の特別席「デッキシート」を設置。 オフより改修・耐震補強工事を開始。 (平成27年) - 改良型ロングパイル人工芝に張り替え。 (平成28年) - 改修・耐震補強工事終了。 (令和2年)- 照明設備を高演色形LED投光器に改修。 2019年(平成31年)2月22日時点の明治神宮野球場• 同左(2019年7月27日撮影) プロ野球 [ ] 東映の使用 [ ] (昭和36年)、東映フライヤーズ(現: )の本拠だったが、(1964年)の開催に伴いから用地返還を求められたため、閉鎖されることになった。 東映は次の本拠を探す中で、明治神宮側へ神宮球場の隣に建設中だった第2球場の使用を申し出た。 一度は断られたものの原因を作った都に仲介を持ちかけ、結局は、6月から9月にナイターで試合を行うことなどを条件に、から神宮球場の方を使用することが認められた。 あくまでも仮の処置であり、後楽園球場や(1962年6月完成)と併用する形で、主催試合数の半数近くが神宮で開催され事実上のとされた。 球場別試合数では神宮が多かったものの、これは半数以上の試合開催を求める現在のでは認められない試合数である(1962年:神宮32試合、後楽園24試合、東京3試合、その他6試合、1963年:神宮31試合、後楽園26試合、東京18試合)。 その年、パ・リーグ優勝を果たした東映は・戦の主催3試合中第3、4戦の2試合を開催。 第5戦は学生野球優先の取り決めもありで開催された。 また(昭和38年)には東京オリンピックの協賛というサブタイトルでを初開催した。 (昭和39年)から国鉄スワローズが神宮球場を正式に専用球場としたため、その年の東映は日程の余裕が出る後楽園球場で主に試合を開催し(後楽園46試合、神宮25試合、その他3試合)、翌(昭和40年)より正式に後楽園球場を専用球場として結果的に入れ替わることになった。 ただし試合数を段階的に減らしながらも(昭和55年)まで準本拠地として使用している。 ヤクルトの本拠地 [ ] (昭和38年)のシーズンには、を専用球場としていたスワローズ(現・)も地方開催扱いで数試合開催した。 シーズン終了後、国鉄球団は第2球場を専用球場にしたい意向を明らかにし、・が主体となって30,000人収容の球場とする具体的な改装計画まで明らかにしたものの、は反対の意向を表明。 更に学生野球が将来神宮球場から追い出され、第2球場に追いやられるのではという噂まで流布し、国会の文教委員会でも問題となり、更には右翼団体までもが介入し元陸軍大将までもが神宮プロ野球進出反対運動に担ぎ出されたという。 結局、第2球場はアマチュア専用にしたいという管理者の意向や、プロ側が要求する球場設備を満たすための拡張用地の確保が既に無理なこともあり、第2球場の使用は却下され改修工事は第1期工事で中断となった。 代わりに、国鉄の専用球場として(昭和39年)のシーズンより神宮球場の通年使用が認められた。 これは、国鉄を実質的に経営していたフジテレビに対して後楽園球場のテレビ中継権が与えられていなかったこと(主催球団を問わず日本テレビが独占していたが、1962年には駒沢球場廃止との兼ね合いから、東映主催試合に限りNETテレビの中継が認められた)と、それに付随してフジテレビが国鉄戦テレビ中継を強化したかったこと等も絡んでいる。 プロ使用への反対はすぐになくなったわけではなく、1965年2月の衆議院体育振興特別委員会ではの議員が「外苑の経済的維持が困難なら、国立野球場にしてもよいのではないか。 またプロ球団に貸さなくても外に財源の道はあるのではないか」と質問したり、予算委員会で文部大臣が「プロ野球の根拠地となることは歓迎できない」と発言するなど、保守系の議員から国会で反対する意見が出されていた。 国鉄はプロ野球球団で初めて神宮球場を専用球場にしたものの、球場側には東映と同様に学生野球を優先することを求められた。 そのため神宮でのデーゲームは例年、学生野球の行われない時期(4月上旬・6月下旬・8月中・9月上旬)に限定される(8月についてはまでは暑さのため自発的に行わなかったが、以後、17時開始の薄暮という形でデーゲームを組む試合が数回ある。 2015年には7月にも17時開始の薄暮デーゲームがある)。 (平成16年)まで毎年5月下旬に行われていたでの公式戦は、同時期に神宮で行われるの開催を考慮したものである。 一般的にプロ野球では試合前の練習を球場のグラウンドで行うが、神宮球場では日中に学生野球の試合が行われる際に外野側場外にある軟式野球場や屋内練習場を使って行われる。 (平成20年)までは試合開始時間をずらすことも行われた(詳細は)。 (昭和53年)にはヤクルトスワローズ(に改称)が初めてリーグ優勝したものの、東京六大学が優先され(対戦)は後楽園球場で振り替え開催された。 その後東京六大学、東都大学両野球連盟との調整により、と翌(いずれもヤクルト-戦)では、ヤクルトのホームゲームが初めて神宮球場で開催された(デーゲーム。 これに伴い大学野球はナイトゲーム開催)。 以降、日本シリーズのヤクルト主管試合は全て神宮での開催となっている。 には、日本シリーズの表彰式終了直後に六大学野球の試合が行われたため、普段よりはるかに多い観客が六大学の試合を観戦したというエピソードが残っている。 (平成7年)以降は日本シリーズがナイター開催となったため、シーズン中同様に大学野球はデーゲームで開催されている。 このほかにも初め頃まで大学野球との日程の絡みで、を神宮で行えずや東京スタジアム、(現・)を借りて行った事例もある。 神宮球場はヤクルトの本拠地ではあるが昔はビジターチームのファンが多かった。 レフトスタンドは大抵の試合でビジターチームのファンで埋まり、特にが終盤まで優勝争いを演じている年はライトスタンドですらビジター側のファンが大半を占めることも珍しくなかった。 が監督就任時に「東京」ヤクルトスワローズへの改称やユニフォームの一新など、「神宮をヤクルトファンで満員にしよう」の合言葉のもと進めた「」発足の理由の1つとして、この状況が挙げられる。 その甲斐もあり、近年ではレフト側にヤクルト応援席ができる試合も登場するなど、ヤクルトファンがスタンドを埋めることも少なくはない。 ロッテの使用 [ ] (昭和47年)オフのの閉鎖に伴い本拠地を失ったは、監督在任時代の(昭和48年)からに移転する前年の(昭和52年)まで主催公式戦の一部を神宮球場で開催した。 1973年当時、ロッテは都内での試合数確保の観点から、年20試合程度を当球場で開催する意向だった。 ところが、ヤクルト球団、東京六大学野球連盟・東都大学野球連盟との日程調整で折衝するも折り合いがつかず、年6試合(その後10試合に増加)の開催にとどまざるを得なかった (その後、1974年4試合に一度減るも、1975年6試合、1976年8試合と微増。 1977年はジプシー期間中で最大の12試合を行った)。 1973年のパ・リーグ(前期)でロッテはと熾烈な優勝争いを展開。 優勝がかかった6月の対3連戦では1試合あたり6万人ものファンが詰めかけロッテ優勝の瞬間を見届けようとしたが、ロッテは惜しくも前期優勝を逃している(この頃のロッテについてはを参照)。 優先使用権 [ ] 神宮球場が他の球場と決定的に違うのは、学生野球(東京六大学と東都)に優先使用権が認められていることである。 これは神宮球場の建設と拡張に東京六大学連盟の尽力や資金提供があったという事実からである。 また、所有者の明治神宮がアマチュア野球を優先してきたという歴史的な経緯もある。 しばしば他の一般的なプロ野球の本拠地球場になっている球場と同じように「神宮球場はスワローズの本拠地で大学野球は間借りしている」と誤解されることがあるが、スワローズ側が間借りしているのが正しい(ただし他の球団の本拠地球場も球団所有ではなく間借りであるものが少なくない)。 収益力の高いプロの日程を最優先させるべきだとの意見は以前から一部にはあり、時代の経過とともに大学野球全体の人気の低下がその声を後押しする傾向が強まり、近年は興行収入の問題から大学連盟側がヤクルト球団側に譲歩するようになってきている面もある。 ただし、神宮球場側の基本的な認識は、前述の歴史的な経緯から、現在でも球場使用の割り当ての最優先権を東京六大学野球連盟に与えている。 明治神宮とヤクルト球団は、神宮球場の使用契約を1年ごとに更新している。 このことが、度々取り沙汰されるヤクルトの他地域への移転の根拠として挙げられている。 学生野球の使用割り当てを優先的にするのは、あくまで基本的には春先に行われるその年度の球場使用割り当てを決定する場合においてである。 一年を通して、春先に決定した内容が年間を通して遵守される。 後日に順延等の都合で調整が必要な場合は、基本的に未使用で空いている日時をやりくりして調整を行うことになる。 この手の誤解を招く元になっている代表例として、東京六大学(以下、六大学)と東都の関係を紹介する。 大学野球のリーグ戦期間中は、基本的に六大学が土曜日 - 水曜日、東都が木曜日・金曜日の割り当てとなっている。 実際には東都が火・水の日程で組まれているが、これは「六大学のリーグ戦期間中で六大学が使わない日は東都側が使用しても構わない」という六大学と東都間の従来からの協定に従ってのものである。 そのため六大学が順延などで月曜までにその週の対戦(前週の未消化試合がある場合はそれも含む)が決着しない場合は、翌日以降も六大学の開催日に変更される。 東都の開催日はそれに従い順延され、最悪木・金のみに変更されることもある。 この順延の制度のためいつでも六大学が自由に使えるという誤解が一部に生じている。 事前の球場使用割り当て時では六大学のリーグ戦の日程および六大学連盟からのその他の使用申し出に従った割り当てを優先的に行う(従来から行われている使用申請がほぼ認められる)が、リーグ戦期間外では優先権はない。 そのためリーグ戦後に行う新人戦と、リーグ戦が消化しきれなかった場合では六大学が優先的に割り込めるわけではない。 東都側についても同様で、リーグ戦期間外でも東都が木・金曜日を自由に使えるわけではない。 シーズン固有の事情などにより事前に何らかの使用権が成立している場合は例外となる。 球場の年間使用スケジュールの概況は例年の「神宮球場ガイドブック」春季号に掲載される。 プロ野球(ナイター開催)と大学野球(日中開催)の併用日には、大学野球の試合開始時間を通常より30分ないし1時間早めたり(東京六大学と東都では別の処置となる)、延長なしの9回打ち切りとなる。 (平成21年)からは併用日でもプロ野球の試合開始時間が18時となっているが、それまでは遅らせて試合を開催していた。 (平成元年)までは一律18時30分、延長戦が15回までに変更されたことをきっかけに(平成2年)から(平成20年)まで18時20分開始となっていた(併用日以外は一部年度を除いて18時)。 大学野球が長引いた場合は試合開始時間を遅らせる処置が取られている。 このように学生野球のスケジュールが優先されてきたが、(昭和60年)にが21年ぶりのリーグ優勝を決めたヤクルト対阪神戦の試合当日は、日中に予定されていた東都大学リーグの試合が延期される事態となった。 これは前日から阪神ファンが球場前に多数詰め掛けたため、学生野球の試合を開催した場合の混乱を避けるべくなされた措置で、当球場始まって以来の異例のものであった。 ヤクルトではオープン戦期間中と、公式戦でも主として学生野球の試合が組まれない4月初旬、ないしは9月初旬にデーゲームを組むことがある。 1990年以降、神宮でのデーゲームは(平成3年)と(平成13年)の4月に各2試合開催したのみだったが、近年は大学野球側との折衝交渉を積極的に行うようになり開催数が若干増加している。 (平成17年)は、の戦、の戦(交流戦予備日)と、の戦をデーゲームで開催した。 更に(平成18年)、「F-PROJECT」の一環としてデーゲーム開催数の増加について大学野球側と折衝を行った結果、前年に引き続き、に加えて、従来の東都大学野球連盟のリーグ戦使用分であった、もデーゲーム開催(東都大学リーグ戦はナイター開催)に変更した。 (平成23年)もによる省エネ・節電の対策によりの公式戦・ヤクルト主催試合の一部をデーゲームで行うことになり、東京六大学・東都大学両野球連盟の協力を得て、プロと同日開催である場合、学生野球の試合は1試合に減らし(それも午前9時開始)、プロ野球の試合を午後から開催できるようにした。 (平成29年)は・の戦をデーゲームで開催することにし、これに伴い、本来であれば上記の木・金曜日(および東京六大学連盟が使用しない火・水曜日)のデーゲームを基本使用日としている東都大学野球連盟のリーグ戦は、・(3回戦にもつれたり、雨天延期が生じた場合はに予備日を設定する)の月・火曜日に前倒して開催を行った。 学生野球とプロ野球が同日に開催される場合、観客は通常入れ替え制とするのが原則である(学生野球の観客がすべて出場してから、プロ野球の観客を入場させる)。 ただし、曜日・注目カード・優勝決定等の理由で入場待ち列が長くなり、神宮外苑内に並ばせる余地がない場合は学生野球の試合中にプロ野球の観客を入場させることがある。 下記はその一例(六大学野球・東都大学野球の双方で例外入場歴あり)である。 (平成9年) - ヤクルトの優勝がかかった試合・日曜日などの条件が重なり、さらには隣接する国立競技場での日韓戦が行われており、神宮周辺は史上最高の人出と言われるほどにまでなったため、外野自由席の客を東京六大学の試合中に入場させた。 六大学野球でも(当時4年)が(昭和43年)(当時法政4年)の持つリーグ戦通算本塁打記録を更新する可能性があり、こちらも多くの集客があった。 高橋はヤクルトファンで埋まったライトスタンドにホームランを打って記録を更新している。 (平成19年) - ヤクルトの大功労者である古田敦也の引退記念試合であり、日曜日ということもあって早朝から多数の観客が詰めかけたため、東京六大学の試合中に入場させた。 上記のようにファンサービスの観点で、学生野球(高校野球も)が組まれていない時期にもデーゲームが行われることがあるが、これまで8月の開催については暑さ対策のためデーゲームとはしなかった。 以後は、8月にも17時開始の薄暮開催の形でデーゲームをする試合が増えている。 なお2018年は4月から6月に昼間開催を行ったほか、6月30日と7月1日には17時からの薄暮デーゲームを実施した。 それ以後はすべて18時以後のナイターとなり、夏季薄暮を含めたデーゲームは行われない。 施設概要 [ ] この節のが望まれています。 球場データ [ ]• 所在地 - 東京都新宿区霞ヶ丘町3-1• 竣工 - (大正15年)• 収容人数 - 31,828名(うち車椅子席17席)• グラウンド面積 - 12,659m 2• 両翼 - 97. 5m, 中堅 - 120m, 左右中間 - 112. 外野フェンスの高さ - 3. 3m(ラバーフェンス1. 8m+金網フェンス1. 5m)• 内外野 - 全面透水性モノフィラメント・ロングパイル(製 ハイブリッドターフExciting)• スコアボード - 全面フルカラー式2基• 2m、面積: 326. 4m 2、1,170相当。 サブスコアボード - 東芝ライテック製 スーパーカラービジョン、表示部大きさ: H 3. 4m、面積: 23. 04m 2、289インチ相当。 グラウンド [ ] (昭和42年)から(平成19年)までの公称は両翼91m、中堅120mで、グラウンド面積は12,525m 2であった。 野球場研究家の沢柳政義によれば左中間は112. 3m、右中間は112. この広さは1967年の改修当時において標準的なものであったが、1980年代後半以降から日本各地で2. 01(両翼は約99. 1m、中堅は約122m)に合わせた球場が増えたために相対的に狭くなった。 特に両翼は拡張される前の時点でプロ野球の本拠地球場としては最も距離が短く、そのためにファウルポール際の打球は詰まった当たりや低いライナーなどが容易にスタンドインしてしまうことが目立っていた。 これを改めるため、2007年オフには改修に着手、両翼の距離は97. 5mに拡張された。 この際は101mに拡張したと発表されていたが、2013年オフに耐震工事開始前の測量を行った際に誤りだったとされ訂正された。 ただしそれ以前から97. 5mとする資料も存在する。 拡張されて両翼97. 5m、中堅120mとなったがこの数値は他のプロ野球の本拠地球場と比較すればまだ狭いものである。 また左・右中間から両翼にかけて拡張された面積は僅か134m 2でフェンスは直線となっており、に似たような広さ・形状となっている。 ファウルゾーンはバックネットが直線状であるためダッグアウト前がやや広めである。 外野側ファウルゾーンには2組の屋外があるが、プレイングフィールド内にブルペンがあるのは日本プロ野球12球団の本拠地球場中唯一である。 ブルペン側のスタンド下にはダッグアウトと別にリリーフピッチャー用の控え室が用意されている。 グラウンドは全面ロングパイルであり、ベース付近やマウンドなどにはを主に使用した土が敷かれている。 完成当初は両翼100 m、中堅118 mでグラウンド面積は13,566m 2。 内野がクレー舗装(黒土)、外野が天然芝であった。 には東映フライヤーズの要請により、プロ野球開催時のみ左・右中間から両翼にかけてを設置した。 設置時の両翼は91. 4mであった。 には前年の東京六大学の試合において、外野手がコンクリートフェンスに激突して怪我を負った事故の対策としてラッキーゾーンが固定式になり、他のコンクリートフェンスの内側にも金網フェンスが付けられた。 さらに、ホームベースの位置を中堅方向へ8. 5m移動し、内野スタンドと外野スタンドの両翼側を内側へ増築、外野スタンドの中堅部分を削る工事を行った。 この工事により両翼が91m、中堅が120m、外野フェンスの高さが1. 8mとなり、当時としては標準的な広さとなった。 ラッキゾーンは廃止されたが危険防止用の内側金網フェンスは存続、のちに全面ラバーフェンスとなった。 (昭和55年)、ファウルグラウンドにのみ人工芝を敷設してテストし、から全面透水性人工芝化。 日本初の透水性人工芝と謳われた。 マウンドなど土の部分は当初黒土のままであったがまもなくアンツーカーへ変更された。 その後、・(内野のみ)・(内野のみ)・と張替えを行っている。 ロングパイル人工芝となったのはからで、それに合わせ人工芝下の舗装とも全面改修され、古くなった人工芝は隣接の第2球場に使われた。 なお過去にも当球場で使われた人工芝はやのグラウンドで再利用されている。 (平成7年)には人工芝の導入により増加していたエンタイトルツーベースへの対策として、ラバーフェンスの上部に1. 5mの金網フェンスが追加され、全体で3. 3mとなった。 スタンド [ ] 完成当初の収容人員は29,000人で、外野スタンドは芝生席(収容人員約20,000人)、内野スタンドはベンチシート(収容人員約9,000人)。 バックネット裏最上段には貴賓席が設けられた。 景観に配慮された設計となっており、貴賓席からレフト場外にある全体が見えるように高さを調整するため、外野スタンドは内野スタンドに比べ小さく、傾斜も緩くなった。 58,000人収容となるの増築ではそのまま外側に継ぎ足すように行われ、内野スタンドと外野スタンドの奥行きが同程度となった。 傾斜に関してはそのままとなったため内野スタンドの外野寄りは、外野席側にやや傾きのあるようになった。 スタンドの増築分の下にはをイメージしたアーケードが作られたが、バックネット裏の球場正面部分は増築されずそのまま残された。 東映フライヤーズが使用を開始した(昭和37年)には球場正面部分も増築し、2階席が作られてその下に貴賓席や放送席が設けられた。 (昭和42年)の改修ではスタンドの傾斜の見直しと共に座席の前後幅を広げ、背もたれ付きの個別座席も設けられるようになった。 その後は断続的に日本人の体格向上に合わせる座席の更新を行ったため収容人数は減少し、(平成10年)には公称が45,000人になった。 2000年代には収容人数を実数の36,011人と訂正、さらに外野スタンドを削った(平成20年)の改修で収容人数は35,650人となった。 なお2008年の改修ではバックネットも鋼製から繊維ネットに張り替えられた。 (平成23年)にはボックス式のテーブルシートのドリームシートが設置されて収容人数は35,429人となり、2012年にもPontaペアシートが増設され収容人数は35,133人に、2013年にもセブン-イレブンデッキシートが設置されて収容人数は34,572人となった。 その後改修工事に伴い2015年は34,092人、2016年は31,941人、2017年は31,828人、2018年現在は神宮球場公式ホームページによると31,805人となっている。 プロ野球の本拠地球場としては延床面積が狭いなどやや施設面で欠点を抱えている。 球場外の通路が駐車場として使用されており、試合終了後は観客の通行に支障が出る場合もある他、スタンドの面構成も適切とは言えないものとなっている。 (昭和42年)の改修で増設されたスタンドの前方(下段)は内野席、外野席とも傾斜が緩く(中堅部分になるにつれ解消される)、特に外野側(ヤクルト試合時の外野指定席)の一部では、前の客の頭でグラウンドが見えづらい席もある。 一方、スタンドの後方(上段)は勾配のある造りとなっているものの、段差が不規則であることから、席により観戦のしやすさはかなり異なる(特に内野寄りにある外野席のはね上げ式座席部分)。 選手用のスペースも小さく、クラブハウスと球場との行き来の際は内野スタンドと外野スタンドとの間にある通路から入り、ここからベンチへはグラウンド内を歩いていく。 試合前や勝利後はファンとの触れ合いが見られる一方、連敗や惨敗した日は観客からの罵声や野次が飛び交い、時には物が投げ込まれるなど特にビジター側の選手にとっては「つらい移動」と呼ばれている。 試合後の移動では取材陣がコメントを取るために監督や選手を囲んでいる様子が見られる(いわゆる)。 なお、スワローズの選手は通路とクラブハウスの間は原則として地上を歩いて行くが、地下道もあって選手の移動に支障がある場合に使用される。 この地下道はが入団時、ファンに囲まれて身動きが取れなくなるのを避ける為に設置されたため、通称「大輔トンネル」もしくは「荒木トンネル」と呼ばれている(は荒木トンネルで生まれたという設定)。 ビジター側は通路とクラブハウスが陸橋で繋がっている。 1・3塁のスタンドには、大学野球の応援用に使用するパネルを設置するための金具が設けられている。 1stステージのヤクルト対巨人戦( - )は、と日程が重複したため、慶応の応援団が陣取る3塁側の応援パネルが撤去されずそのままの状態で飾られた中で試合が行われた。 禁止事項 周辺住民に配慮し太鼓を叩いての応援は原則的には禁止。 最初に規制が実施されたのは昭和天皇崩御に際しての自粛規制であったが、これを機会に以後も応援での太鼓使用についての規制が何らかの形で継続して現在に至っている。 周辺住民からの再三再四にわたる抗議も影響していたとされる。 プロ野球では2009年まで太鼓形態の打楽器は一切使用が禁止であったが2010年より、デーゲームに限って太鼓の使用が許可され、その後、2013年からはナイターにおいても太鼓の使用が認められるようになった。 太鼓が使用出来ない応援の際はメガホンなどのリズムが、ポール際やセンター側でずれることがしばしばある。 また高校野球では東京都高野連の規制により一切の打楽器使用は禁止(明治神宮、日本学生野球協会が主催する明治神宮野球大会高校の部を除く)、大学野球、その他アマチュア野球などでもいわゆる 大太鼓は、試合前後と7回の校歌斉唱(学校により応援形態は様々なので、必ずしも校歌である必要はない)時のみの使用に原則的に制限される。 ただし 18時以前に限り吹奏団体所属の太鼓なら使用が許可されている。 さらに、 18時以降は太鼓を含む全ての打楽器類が使用禁止になり、 22時以降は全ての楽器類が使用禁止になる。 これは都条例におけるスタジアム等での楽器応援規制とは別なものである。 全日本大学野球選手権では、校歌・応援歌・応援曲がアカペラで行われることがある。 近年では神宮第二球場で行われる東都大学リーグ戦において、試合開始時および7回表裏の校歌斉唱以外は一切の楽器使用が禁止されている [ ]。 よりの使用を禁止している。 当初はライトスタンドのみ禁止されていたが、の日本国内での感染拡大を受けて、他球場に倣い同年5月から使用自粛を呼びかけ、から球場周辺への風船ゴミ飛散防止と観客の衛生面への配慮を理由に全面禁止に移行した。 スコアボード [ ] 2007年当時のプロ野球開催時の表示。 選手名表示部には出場各選手の打率・本塁打数を表示。 審判名はイニング間に不定期で表示される(2007年10月7日・ヤクルト対広島最終戦にて) 外野観覧席背後に設置したは、完成当初から得点表示部分は巻き取り式で、得点・カウントなどを遠隔操作で自動的に表示できる、当時としては近代的なものだった(選手名表示部はパネル式)。 1931年の拡張工事で得点表示部は延長15回まで、それにヒットやエラーなどを表示する装置も付けられた。 (昭和55年)には電光化、次いで(平成7年)に高輝度放電管に置き換わって、フリーボードがスーパーカラービジョンとなりフルカラー化された。 さらに(平成20年)にはによる全面フルカラーフリーボードとなった。 屋外野球場としては国内最大規模の表示面積を誇る。 映像表示時は16:9ワイドサイズのデジタルに対応している。 電光化以降、独特の表示方式を用いており2008年の全面フリーボード化以降もこの方式がによってほぼ踏襲されている。 特色として以下の点があげられる。 大時計及び両端の広告のレイアウトはかつて存在したおよびと同じで、製である。 広告主がない時期は「JINGU」「STADIUM」と表記している。 電光化されたと同時に選手名表示部には出場中の全選手の打率・本塁打数を表示することができる。 2007年までは両チームとも常時表示していたが、全面LED化後から試合中は広告スペースとなり現在打席に立つ打者の成績のみをスコアボード上部に表示している。 選手の登録名に従って旧字体はそのまま表示される。 また制に対応するため選手名の枠が10名分あり、指名打者制がない場合でも空欄の枠が表示されている。 また、2008年からはデーゲームとナイトゲーム文字のカラーレイアウトを変更、デーゲームでは新しい表示方法として選手名を白文字・打順など表記を橙文字、ナイトゲーム(なお、デイゲームでも延長などで18時を過ぎるとナイトゲームレイアウトに変更される)ではその逆で従来のスコアボードのレイアウトを継承し、選手名を橙文字、打順など表記を白文字とし、それぞれ視覚性の向上を図っている。 電光化直後は選手名の表示部分が9名分しかなかったため、指名打者制を使用する試合では投手名をチーム名表示の箇所に、後に中央下部にあるビジョンの両端に表示されていた。 得点表示部には各イニングの得点と合わせて安打数も表示される。 ただし写真にあるように高校野球等、一部ヒット数の表示がされない場合もある。 その関係で通常は得点表示部の上に出すイニング表示が上下のスコア表示部の間にある。 また総得点の右横に並べることの多いチームの総安打数は総得点の上側に表示される。 数はチーム全体で得た四死球の数と共に、普段何も表示されていない中央下部の両サイドに表示される。 イニング表示は9回までで10回以後は一度表示をクリアした上で1回のところから表示する。 この場合は最大18回まで表示できるが、規定以上の回は空欄となっている。 電光化前はイニング表示が15回まで用意されていた。 これは、東京六大学野球の引き分け規定が延長15回まで(一時期、場合により18回まで)であったためである。 電光化直後は、9イニング分までしか枠がなかったため、延長10回時に「計」の部分(スコアが2桁となった場合の十の位の部分)を代用し、合計得点が表示できないでいたが、カラービジョン設置以後は10回の枠もあり、延長戦でも合計得点の表示が出来るようになった。 巻き取り式の時代は1イニングの得点は最大9点までしか表示が出来なかった。 このため、に当球場で行われたアトムズ戦・6回において、阪神が達成した当時の1イニング最多得点・13点を直接は表示できなかったため、6回にとりあえず9点を表示し、残り4点分は10回表の欄に表示して間に合わせするという異例の事態があった。 カラービジョン前の1994 - 2007年は、のチームロゴ表記が「 Ys」でなく「 S」となっていた。 ボールカウントはCGで信号灯を模して上部中央に表示している。 その左横には試合開始からの経過時間とプレーの判定表示(H・E・Fc)がある。 電 光化以降は数字で表示していたが全面LED化時に変更となった。 映像は普段何も表示されていない中央下部のみで表示される場合と、全画面で表示される場合、スコア表示部分を含めた中間の大きさで表示される場合の3パターンがある。 球速の表示も中央下部になっている。 審判名を常時表示する部分がなく、中央下部に適宜表示される。 通常はダイヤモンドを模した図で表示されるが、や、のように、複数の連盟から審判が派遣される大会では、審判名の他に所属連盟が、横書き縦スクロールで表示される。 スコアボードの中央下部には、の広告スペースが設けられている(初期は同社のオーディオ機器のブランド「」であった)。 電光化と同時に設置されたもので、当初はナイターの試合中に常時点灯していた。 しかしホームベースからは投手の投球が見えづらいと選手から苦情が出され、試合前後とイニング間に限って点灯されるようになった。 スーパーカラービジョン化以降は両端が自由表示による広告スペース()となった。 明治神宮記念館やなどが日替わりで表示されている。 この他、バックネット裏2階席の屋根にサブスコアボードを1基設置している。 メインと同じく2008年に全面フルカラーLEDフリーボードに変わり、映像表示が可能となった。 またプロ野球の開催球場ではスコアボード上に5本のポールがあるのが一般的だが、当球場には3本しかない。 セ・リーグ連盟旗を通常が掲げられる中央に掲げ、代わりに国旗はサブスコアボード上のポールに掲げられている。 広告 [ ] 広告のある箇所はフェンスや周辺など、プロ野球の本拠地球場としてはかなり限定されている。 広告が最初に設置されたのは(昭和44年)で、改修費用の捻出という目的があった。 コンクリートのフェンスと金網フェンスの間に差し込む仕組み で、当初はプロ野球使用時のみに限定、大学野球開催時にも設置されるようになったのはこの年の秋からである。 翌年にはラバーフェンスとなったため、ラバーに貼り付けられた。 またこの頃にスコアボード付近(時計のある箇所の両サイドと、スコアボード下)の合計5箇所に広告が貼り付けられた。 (昭和55年)の電光掲示板設置時には、その周辺のみではあるが電光看板広告を設置(その後にスコアボード寄りの左中間・右中間スタンド最上段にも1枚ずつ設置 )した。 後楽園、、、、、に続いてであった。 逆にフェンス広告はに一度全て撤廃され、1990年代にはで(平成25年)オープン戦までの通常ネット裏スポンサーだった のスペースが使用できなかった為に一時的に掲示したケース以外は全く掲示を行なわなかった。 この理由として当時の神宮宮司は「フェンスは芝生の延長であり、芝生に広告を出さないだろう」と語った。 その後再び老朽化した球場を含む神宮外苑のスポーツ施設の管理・維持捻出のため初期からベンチ付近に復活、(平成18年)からは外野部分にも貼り付けられた。 - は外野側にヤクルト球団の協賛スポンサー・の広告が集中的に貼り付けられていたが、ユニデンとの契約が切れたから広告が減らされた。 は当初、左中間部分に、右中間部分にはの二つのみであったが、以降はヤクルト製品の広告が外野側に貼り付けられるようになった。 (平成23年)は左中間・右中間に一部ヤクルト以外のスポンサーの広告(・明治記念館、復興応援スローガン「がんばろう! 日本」など。 2015年からは新たに(「」名義)も加わった)も掲示された。 また、バックスクリーンは回転板になる前から、NKホーム(旧・グループの住宅メーカー、すでに解散し現存せず)やの広告が両サイドに掲載されていた。 ただし節電対策と、バックスクリーン中央部のスポンサー・トヨタの広告自粛の影響のため、2011年は中央部の稼動は中断した時期があった。 スコアボード本体については、2008年の改修実施後のフルビジョン化の実施に伴い、それまで選手の個々の打率・ホームラン数を表示していた箇所に広告が表示されるようになった。 売店 [ ] バックスクリーン裏や内野、外野観客席裏に軽食や類、やなどを提供する店舗が多数入居している。 なお、や陳麻家、など、複数のチェーン店の店舗も入居している。 また、ヤクルトスワローズを中心としたプロ野球グッズ(、等)を販売する売店があるほか、試合開催時には対戦チームのグッズを専用に販売する売店も設けられる。 なお球場の構造上、観客が内野スタンドと外野スタンドを行き来することは出来ない(野球以外のイベントでは認められる場合がある)。 2011年からは内野席の観客が外野スタンド内の売店を利用することが認められており、場外から再入場する形で行われている(直接の往来は不可のまま)。 2019年(令和元年)7月24日時点の明治神宮野球場• 同左 明治神宮第二球場 [ ]• 竣工 - (昭和36年)4月19日• サイズ - 両翼91m、中堅116m• 内外野 - 全面透水性人工芝• スコアボード - パネル式(右中間側・15回まで なお合計得点は原則として15回の部分に掲示する。 収容人数 - 5,600人 (大正15年)、明治神宮相撲場として開設された。 (昭和22年)から1948年にかけて大相撲の興行が行われた。 その後野球場に改築されることになり、1961年に竣工したが国鉄スワローズの移転の見込みに伴いすぐに増改築が行われた。 当初は神宮球場のレフトスタンドとセンターが接する形となっていたが 、一塁側スタンド(現在のゴルフ練習場)が接する向きに変更された。 以前フィールドは全面クレー舗装だったが、(平成5年)に人工芝が敷設された。 2020年のでは当敷地を投擲種目の練習場とすることになっているが、具体案は公表されていない。 球場自体の用地が狭隘で外野後方には道路があるため外野スタンドがなく、また1・3塁側についてもベンチの上以外に座席が設けられていない。 メインスタンド(バックネット裏)は二層式スタンドで、通常は1階席の部分のみ開放。 多客時には2階も開放される。 2階席の一部には神宮球場のグラウンドを見下ろすことができるエリアがあり、神宮球場で試合が行われている場合は満員時を除き立ち入り禁止となっている。 2019年時点では主管の大会(や春季・秋季大会)に使用された。 以前は創設当初の、やの2部リーグも使用していたが大学野球は日程が祝日になった場合、加盟校のグラウンドを使用するため、原則として明治神宮大会、及び東京都高野連主管大会で使用する場合を除いて、アマチュア野球が第2球場を週末(土・日)と祝日に使うことはなかった。 明治神宮大会ではかつて高校の部は準決勝までの試合が行われ、以後本球場への開催に移った際も大学の部1回戦は数試合が組まれていた(明治神宮大会では本球場との共通券が販売され、各球場分で両辺が切り取れる形態となっていた)。 その後は夏季大会の準々決勝や秋季大会の準決勝以降の会場から外されるなど、高校野球での使用も減少傾向にあった。 なお東都大学2部リーグではから第2球場を主会場としていたが、球場が狭いことにより打球が場外に飛び出すケースが比較的多いことや、施設の老朽化などから、秋季をもって第2球場の使用を中止することになり、春季リーグ戦以後は、基本的に2部リーグに加盟する大学のグラウンド、あるいはなどの首都圏公営球場で開催する方針を固めている (ただし、東京六大学連盟のその週の大会が日曜日までに終わっていれば、神宮球場を会場として使う場合もあった ) 上記事情によりプロ野球1軍の試合には使用されていないが、過去に2軍・の試合に使用された例はある(の国鉄対大毎戦他)。 また第二球場は(外苑ゴルフクラブ)の西練習場を兼ねており、一塁側ダッグアウト付近から右翼ポール際にかけて練習用の打席が121打席設置されている。 ゴルフ練習場のうち東練習場は通年営業しているが、第二球場を兼ねる西練習場は、アマチュア野球公式戦の行われる日は早朝(基本的に6時 - 8時45分)と夜間(アマチュア野球大会の試合終了後 から深夜)のみの営業となる。 アマチュア野球公式戦が行われる時間帯以外はゴルフ練習場として供用しており、野球場としての草野球の一般利用は受け付けていない(ゴルフのみ運営の場合でも9:00-9:30はボールの回収作業を行うため利用不可。 また周辺道路や施設への影響を考慮し、練習場では飛距離を抑制した低反発球を使用することになっており、一般のゴルフコースや他のゴルフ練習所で使用する通常のボールの使用・持ち込みは厳禁となっている)。 フェンス広告はないが、ゴルフ練習場として活用されていることを踏まえて、レフト側にゴルフ関連の広告看板が設置されている。 また、過去には、神宮球場に合わせて右翼側のスコアボード上に、の広告看板が設置されていた。 東都2部撤退後の2014年頃から外野を中心として人工芝の劣化が顕著となり、2016年頃には外野の大半は下地がむき出しの黒ずんだ状態となっていた。 2017年頃から一部の芝が張り替えられているもののこれらはゴルフ練習場としての使用を前提としたものとみられ、外野の芝は2018年時点でも継ぎ接ぎ状態となっている。 前述の通り、神宮外苑地区の再開発に伴い、2021年をもって第二球場は解体され、跡地には新しいラグビー場が建設される予定である。 2019年(平成31年)2月22日時点の明治神宮第二野球場• 同左 天覧・台覧試合 [ ] 初試合に皇太子(のちの)が臨席するなど、皇族を招いての試合が幾つか行われている。 (昭和6年)の増築はを観戦した際、入りきらなかった観衆を見たが勧めたのがきっかけであった。 (平成21年)にはと皇太子夫妻(現・両陛下)がの解説で東京ヤクルトスワローズ対の試合を観戦した。 事故 [ ] 当球場で起きた大きな事故(選手・観客)として以下のものがある。 1929年(昭和4年)5月18日 - 1回戦の試合に集まった三塁側スタンドの観衆がなだれ落ちる形で場内に落下、7 - 8名の負傷者が出た。 1948年(昭和23年)6月9日 - 早慶戦の観衆による群集事故で負傷者14人。 1948年(昭和23年)11月4日 - 読売ジャイアンツ創設15周年記念の無料オープン戦(相手は・・3球団からの選抜チーム)に集まった群衆が数万人にもおよび、その圧力で入口の扉が開けられそうになったため、予定より30分ほど早く開門したところ、将棋倒しが発生して圧死2人、重軽傷者32人が発生。 なお、この当時戦争中のにより入口の鉄柵が撤去されていた。 1964年(昭和39年)9月19日 - 東京六大学リーグ戦の早稲田対立教戦で、早稲田の直江輝昭(右翼手)が飛球を負って背走した際にフェンスに激突し、重傷。 事故後の1965年にフェンスの内側に金網が設置されたが、金網に手が入って負傷する事故が発生したことから、1970年に金網を取り除いてラバーフェンスに変更している。 胴上げ [ ] ヤクルトが(昭和53年)にセ・リーグで初優勝した時、ファンが優勝を祝うが余りに客席から飛び出して選手や監督を胴上げするという光景が見られ、優勝記念の表彰式どころの騒ぎではなくなっていた。 その模様は、フジテレビの製作によって全国テレビ中継された。 そういったこともあり、同じ神宮で、21年ぶりの優勝を決めた阪神タイガースの試合のときには警備員を多数増員して、乱入をしないように警戒を強めたという。 現在、当球場で監督の優勝胴上げを行っていないセ・リーグのチームは(前身球団含む)だけとなっている。 胴上げを行ったチームは順にヤクルト(、、、、)、阪神()、広島()、中日()、巨人()となる。 なお、のチームが優勝で胴上げを行ったのはのとのの2例だけ。 では胴上げこそ行われなかったが、にが交流戦初代優勝をこの球場で決めている。 硬式野球以外での使用 [ ] 終了後、に接収された明治神宮野球場では、1945年11月11日にアメリカ合衆国軍人らによるロデオ大会が開催された。 また戦後初めてとなる公式の試合が行われたのもこの明治神宮野球場である(1947年4月3日開催のサッカー東西対抗戦)。 この翌年の1948年にも同所で東西対抗戦サッカー試合が開催された。 人工芝導入後より一般貸し出しが行われており、ではの決勝会場や交流試合などで使用している。 周辺には(に閉鎖され、解体された)やなどの球技場があるために野球以外のスポーツイベントが行われることはほぼないが、には対の親善試合が行われている。 やイベントの会場としても使われることがあり、毎年8月には(主催)のメイン会場として使用され、の打ち上げを第二球場から行っている。 近年行われた主なイベントとしては以下のものがある。 ( - )• (・ゴール地点として使用) - が行われた関係により日程が変更され、変更された日(12月9日)がサッカーのと日程が重なり国立競技場が使用出来なくなったため。 ( - ゴール地点として使用) - 国立が改修のため• プロレスリング世界ヘビー級選手権試合・対() - 当球場で初開催となる興行• 「GINGU CLIMAX 」()• 「D4DJ Groovy Mix Presents SUMMER STRUGGLE in JINGU」(2020年8月29日)• (・敗者復活戦)• 第26回(・関東地区予選会場)• -定時制と通信制高校の軟式野球の全国大会。 開会式および開幕試合(第一試合)と決勝戦と、その他一部試合に使用されている。 ( - ・ - ・) - 主催の体感型謎解きイベント。 2010年はオリジナル作品『 あるスタジアムからの脱出』、2011年は・とのコラボ『 終わらない合戦からの脱出』、2014年はとのコラボ『 ある城塞都市からの脱出』東京公演、2015年はとのコラボ『 頂上戦争からの脱出』東京公演(東京追加公演も含む。 ただし、東京最終公演はで実施)、2017年はとのコラボ『 大戦場からの脱出』東京公演として開催し、リアル脱出ゲームの野外ツアー東京公演の会場として定着した。 コンサート [ ]• ・(1986年8月20日)• (1986年8月30日)• (1986年8月31日)• (1998年8月22日、2000年8月12日・13日)• (2014年8月30日、2015年8月30日・31日、2016年8月28日 - 30日、2017年7月1日・2日、2018年7月6日 - 8日 、2019年8月30日 - 9月1日) 交通機関 [ ]• 、 - より徒歩13分• JR中央線、総武線 - - より徒歩15分• - より徒歩5分• 東京メトロ - より徒歩15分• 東京メトロ - より徒歩17分• - より徒歩13分• - 霞ヶ丘団地バス停より徒歩7分 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 1962年・1963年は本拠地扱いであるが、以降は準本拠地であった。 他の5球場の前日に試合が組まれたものの、雨天順延により6球場同時開幕となった。 球団もしくはその親会社が本拠地球場を直接運営しているのは、中日、阪神、オリックス、西武、ソフトバンクが該当する。 また、所有団体から下請けの形で球団もしくはその親会社が球場運営しているのは、楽天、ロッテ、広島、 DeNAが該当して、この4球団は本拠地球場の所在する自治体が球場を所有して、下請けの形で本拠地球団かその親会社が球場運営をしている。 また、巨人は本拠地所有及び運営会社は直接の関係は無いが、親会社との株主関係はあるため、所有も球場運営も球団ともその親会社とも全く関係の無い本拠地間借り球団はヤクルトと日本ハムの2球団だけである。 土、日に他球場がデーゲームでプロ野球の試合が実施されているのに、神宮だけナイター開催というのが頻繁にあるのは大学野球との関係の為である。 も内野は(昭和58年)まで、外野は撤去前の(バックスクリーン付近のみ)までは差込脱着式の広告フェンスを使用していた。 2008年までは反転フラップ式だったが、2009年から回転式広告板になっている。 2013年オープン戦をもって1983年から長年にわたってネット裏スポンサーだったブリヂストンが撤退し、2013年シーズンは、2014年シーズンはヤクルト本社がネット裏スポンサーを務め、2015年からは2 - 3社の複数社によるスポンサー広告となっており、同年はヤクルト本社と、シーズン途中からはがスポンサーに加わり、2016年は前年からの伊藤忠商事に加えて、新たに、がスポンサーとなっている。 1945年5月にも、3月の東京大空襲で初代の両国国技館が罹災したため、明治神宮相撲場で本場所が開催される予定で、番付も発表されたが、5月の空襲で明治神宮も罹災し、本場所は初代国技館で開催されるように変更された。 営業開始時間については概ね16:30前後であるが、アマチュア野球の試合展開により前後するため、 にも掲載されている。 正確には「JINGU CLIMAX」と表記されるべきだが、同団体の看板興行である「」に似せるためにこの表記を用いた。 秩父宮ラグビー場と2会場同時併催。 隣接する両会場間をメンバーが2組に分かれて行き来し、それぞれの会場でパフォーマンスした。 出典 [ ]• 平成28年 秋季東京都高等学校野球大会 準々決勝 早大学院対日大三戦の模様• 『歴史の愉しみ方』 中公新書• 『「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史』 第一巻、1988年、62頁• 2013年11月1日, at the. 朝日新聞デジタル• (NHK 2015年4月1日 2015年4月2日閲覧)• (FNN 2015年4月1日 2015年4月2日閲覧)• サンケイスポーツ、2017年7月29日閲覧• - 、2015年3月17日• - 明治神宮野球場、2020年3月2日• - 、2020年3月2日• 徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史』社、徳永喜男は元代表(国鉄・サンケイ時代を含む)• 『阪神タイガースの正体』(太田出版、2003年)P215 - 216。 明治神宮奉賛会 『明治神宮外苑志』 1937年、168-169頁• 明治神宮奉賛会 『明治神宮外苑志』 1937年、171-172頁• (サンケイスポーツ2013年11月16日付 2014年4月10日閲覧)・(産経新聞2013年12月19日付け 2014年4月10日閲覧)• (東京新聞2019年10月28日 2020年1月6日閲覧)• 沢柳政義『野球場大事典』大空社、1990年、pp. 288 - 289• NHK戦争証言アーカイブス. 日本放送協会 1945年11月22日. 2019年8月15日閲覧。 日本蹴球協会機関誌『SOCCER』第1号(29頁) 1948年8月• 日本語 HTML プレスリリース , 新日本プロレスリング, 2020年7月25日 , 2020年7月25日閲覧。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 平日の神宮の外野席でヤクルト戦を見ていた際に小説家になろうと思い立って、『』が生まれた。 - が本拠地としている「球場」は当球場がモデルとされており、実写による映画版、並びにドラマ版でも神宮が撮影に使用されている。 [ROOKIES]] - 実写版のロケに使用された。 ただし、バックスクリーン周りの広告(フジテレビ・ニッポン放送・コカコーラ・東芝・麒麟麦酒)は隠された。 外部リンク [ ]•

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