シック ストーンズ メンバー。 ジャニーズJr.ストーンズのプロフィール!本名やメンバーカラーは?デビューはいつ?

SixTONES(ストーンズ)メンバー人気ランキング♡身長・メンバーカラー、性格を紹介

シック ストーンズ メンバー

Contents• Six TONESのメンバーは? 高地優吾 1994年3月8日生まれの24歳です。 神奈川県出身で、 2009年にジャニーズ事務所に入りました。 高1の時に、スクール革命!の番組のオーディションに合格してから9年経ちます。 成長ぶりをこの番組を通して、色々と見れますね。 お父さんは、気学・占い師で、雑誌やテレビ出演しているほどなので、かなり有名な方です。 京本大我 1994年12月3日生まれの23時です。 東京都出身で、 2006年にジャニーズ事務所に入りました。 京本政樹の息子としても有名です。 父のDNAを受け継ぎ、俳優業もセンスがあります。 しかし、2017年には、出張マッサージの女性に暴行したと週刊誌に掲載されました。 事務所マッサージを受けた事は認めるが、暴行に関しては違います。 と否定しています。 今後の活動に影響が無いと良いです。 田中樹 1995年6日15日生まれの22歳です。 千葉県出身で、 2008年にジャニーズ事務所に入りました。 Six TONESでは、ラップとMCで、盛り上げ役です。 ビックリ情報!は、兄が元KAT-TUNの田中聖で、弟は、俳優の田中彪さんです! 兄の影響が、樹さんと彪さんに来なくて良かったですね。 ファンも一安心です。 松村北斗 1995年6月18日生まれの22歳です。 静岡県出身で、 やまピーに憧れてオーディションを受け、2009年にジャニーズ事務所に入りました。 Hey! Say! JUMPの山田君率いるNYCboysが結成され、そのメンバーになりました。 ジェシー 1996年6月11日生まれの21歳です。 東京都出身で、 アメリカと日本のハーフで、2006年にジャニーズ事務所に入りました。 空手を8年やっており、ダンスも得意です。 ジェシーは、身長が184センチもあります。 高身長なのは、アメリカ人の親の影響もあると言われています。 羨ましいです。 俳優の仕事も多くしていて、演技がうまいと評判です。 森本慎太郎 1997年7月15日生まれの20歳です。 神奈川県出身で、 2009年にジャニーズ事務所に入りました。 運動系は全て得意ですが、中でもサッカーが1番得意です。 2011年に、同じジャニーズのHey! Say! JUMPだった兄の喫煙報道があり、本人も認めたことから、無期限活動停止処分を受ける事になりました。 その後、ジャニーズ事務所を辞めています。 Six TONESのメンバーカラーは? 1位・・松村北斗 2位・・ジェシー 3位・・京本大我 4位・・田中樹 5位・・森本慎太郎 6位・・高地優吾 Six TONESのデビュー間近!? Six TONESは、今までに4枚の曲が、オリジナル曲でオフィシャル登録されています。 「この星のHIKARI」「BE CRAGY」「IN THE STORM」「Amaging!!!!!! 」「JAPONICA STYLE」「Beautiful Life」です。 2017年のジャニーズのカウントダウンで、デビューするのではないか?と騒がれていました。 お先真っ暗になり、デビューは、いつになるか分かりません。 Six TONESのメンバーの学歴は?恋人は?• 高地・・高地さんは、教師になることが夢で、和光大学の現代人間学部子供教育専攻に通っていた?います? 恋人は、いくら調べても出てこないので、居ません。 京本・・成城学園中学校を卒業し、成城学園高校に入学しましたが、ジャニーズ事務所に入所する為、堀越高等学校に転校しました。 恋人は、今現在の恋人は居ないようですが、過去の恋人は、女優の稼農楓さん・三吉彩花さんです。 田中・・地元の中学校を卒業し、堀越高等学校を卒業し、明海大学経済学部に入学しますが、仕事と学校が両立できず退学しています。 恋人は、SKE佐藤すみれさんです。 交際していましたが、破局説が流れているので、今は別れたかもしれないです。 松村は・・静岡県島田市立初倉中学校を卒業し、高校は、中島健人と同じ杉並学院高校に入学して、2年生の2学期に堀越高等学校に転校しました。 松村は、大変頭が良く、堀越高等学校では、卒業まで成績がトップだったそうです。 大学は、亜細亜大学 経営学部経営学科 に行きました。 恋人は、高畑美月と言われていますが、ハッキリした事実が無いので、噂です。 ジェシー・・立川市立立川第二中学校を卒業し、通信制のクラーク記念国際高等学校を卒業しています。 恋人は、芸能界の人では無くて、一般の方みたいです。 芸能人で名前が浮上しているのは、渡邊渚さん・島崎遥香さんですが、ただの噂のようです。 森本の学歴は、横浜市立あざみ野中学校を卒業し、高校は、堀越高等学校に行きました。 恋人は、女優の山本舞香さんです。 高校も一緒で、高校の時から仲良かったみたいです。 山本さんは、目鼻立ちがしっかりした美人です。 お似合いです。 まとめ 次にメジャーデビューするジャニーズJr. は、Six TONESと言われていましたが、キスプリに決定してしまった為、無くなりました。 ファンは、凄く期待していたので、本人達と同じくらいショックを受けています。 いつになったら、デビュー出来るのでしょうか? 個々に俳優業をやったりしているので、別々に俳優として芸能界に残るかもしれないですね。

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news.adventure.travel vs news.adventure.travel(キンプリ)メンバーカラーやプロフィール紹介

シック ストーンズ メンバー

1962年、ロンドンで結成。 翌63年にシングル「カム・オン」でデビュー。 当時のメンバーはミック・ジャガー(Vo)、キース・リチャーズ(G)、ブライアン・ジョーンズ(G)、ビル・ワイマン(B)、チャーリー・ワッツ Ds)。 1968年の「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」以降は、よりルーツに根差した泥臭いサウンドを展開。 1976年、ギタリストがテイラーからロン・ウッドに交代した後も、変わらぬスタイルに流行も巧みに取り入れつつ、「ミス・ユー」「スタート・ミー・アップ」等のヒット曲を連発。 1990年には初来日公演が実現、1993年にビル・ワイマンが脱退するも、大規模なワールド・ツアーをコンスタントに実施するなど、 半世紀に亘りシーンの第一線に君臨し続けるロックの代名詞的な存在である。 50周年と言えば半世紀、メンバーの入れ替えは少々あったとはいえ、これはとてつもないことだ。 「活動50周年」というからには、活動のスタート地点が存在する。 それは、1962年7月12日のロンドンはマーキー・ジャズ・クラブでのコンサート。 彼らは、マーキー・クラブでブルース・インコーポレイテッドを中心としたR&Bセッションに参加して腕を磨く一方、リッチモンドのステーション・ホテルの中に、ジョルジオ・ゴメルスキーによって作られたクラブで定期的に演奏をするようになり(「その時期、彼らがクライマックスに演奏していた「Doing The Crawdaddy」という曲にちなんで、そのクラブはやがてクロウダディ・クラブと呼ばれるようになる)、そこで、彼らはロンドンの先鋭的な音楽ファンの間で次第に大きな存在となっていき、同時に、デビューに際し大きな役割を果すことになる若いマネージャー、アンドリュー・オールダムと出会う。 彼らの前年にデビューし、すでに成功の階段をハイ・スピードで昇り始めていたビートルズに続いて、ストーンズがチャック・ベリーをカヴァーしたシングル「カモン」でデビューするのは1963年6月7日。 レコード会社はデッカだった。 デッカは、それ以前に、ビートルズをオーディションで落としてしまうという大失態を演じてしまっており、その代わりになるグループを探していたところに、ピタっとハマったのがローリング・ストーンズだったのだ。 その存在をデッカ社長のディック・ロウに耳打ちしたのは、そのビートルズのジョージ・ハリスンだったというエピソードも最近ではかなり知られるようになってきた。 そのデビューの際には「イメージがバンドにそぐわない」とのマネージャーのアンドリュー・オールダムの指示により、イアン・スチュワートがプレイは続けるものの表側のメンバーからは外されることになった。 メンバーたちにとっては不本意だっただろうが、これがアンドリューの仕掛ける成功戦略の第一歩となった。 音楽的には、R&Bの追求を旗印にしていたストーンズは、クリフ・リチャード&ザ・シャドウズのような一世代上の人気ロックンロール勢と一線を画すためもあったのだろう、この時期は自分たちをロックンロール・バンドとは自称せず、あくまでR&Bバンドというスタンスを保持した。 ただし、R&Bだからといって、今で言うソウル・ミュージックだけを彼らは追求していたわけではなく、当然ブルースも大きな柱であったし(文献などもいろいろ検証してみると、当時のロンドンでは「R&B」と言えば、ブルースなども含む黒人音楽のかなり広い範囲のことを指していたようなニュアンスがある)、ロックンロールやフィル・スペクター・サウンドのようなポップスから多くのことを吸収していたはずである。 また当時のロンドンの先進的な音楽シーンではトラディショナル・ジャズやフォーク、カントリーといった音楽要素も非常に重要な位置を占めており、ストーンズが自分たちの周辺でいつもプレイされていたそれらの音楽に対して目を瞑っていたというわけでは決してない。 2枚目のシングル「彼氏になりたい」をジョン・レノン&ポール・マッカートニーに提供されながら、その後のストーンズは、自らをビートルズの対抗馬、それもビートルズが「明」ならストーンズが「暗」、つまり社会に対してより反抗的な存在、というイメージ操作を行なうことで、イギリスのポップ・ミュージック界の中に居場所を確保することに成功した。 彼らの初めての英国ツアーは、アメリカからのエヴァリー・ブラザーズ、ボー・ディドリーらとのパッケージ・ショウ形式。 次にはザ・ロネッツらと回ったが、そのロネッツを追っかけるようにして英国入りした、彼女たちのプロデューサー、フィル・スペクターも立ち会ってレコーディングされた彼らのファースト・アルバム『ザ・ローリング・ストーンズ』が4月にリリースされると、すぐに全英チャート1位を獲得。 グループ名すらも印刷されておらず、シックな出で立ちの5人を捉えた写真を前面に押し出したジャケットで成功を収めたのは快挙だった。 またその時にレコーディングされた一曲「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ」(ヴァレンティノズのカヴァー)がシングル・カットされると、英国で初のナンバー・ワン・ヒットに輝いた。 これ以降2年ほど、ストーンズは拠点のロンドンより米国でのレコーディングを重要視するようになるが、これは彼らが当時の英国のスタジオ環境に不満を持っていたことに加えて、LAのRCAスタジオには、フィル・スペクターの下で辣腕を振るっていたアレンジャーのジャック・ニッチェが現われ、自らキーボードを弾いたりしながら彼らの次第に「クリエイティヴ」になっていく創作活動を見守ってくれたからだった。 また、米国での成功を決定づける曲も、そんな態勢の中から生まれてくる。 ファズを通したギター・リフに先導されるように若者の立場からの社会に対するハッキリした形のないフラストレイションを高らかに歌い上げたオリジナル曲「サティスファクション」は、ジャック・ニッチェがピアノを弾き、LAのRCAスタジオで完成した曲。 この時点からストーンズの活動の場は次第に「世界」的スケールに広がっていくことになる。 それまで学んできたR&Bテイストをベースにしつつも、モータウン・サウンドからビーチ・ボーイズまで、米国の音楽の「新しい風」も吸収して作られたヤワではないポップ・アルバムは、英国でも米国でも高く評価された。 2月にキースの自宅レッドランズで開かれていたパーティ会場を警察に踏み込まれたことを皮切りに、ミック、キース、そしてブライアンの3人が裁判にかけられることになったのだ。 数日で保釈されたとはいえ、ミックとキースが実際に投獄もされたことで、彼らの活動を大きく制約を受けることになる。 さらに問題化してきたのは、初期の音楽的リーダーであったブライアン・ジョーンズの精神状態だ。 前マネージャー、アンドリューの戦略で、ミックとキースが作曲を任されるようになり、次第にグループ内で主導権を奪われる格好になっていた上に、彼もドラッグ裁判に巻きこまれることとなった。 その上、恋人だったアニタ・パレンバーグをキースに奪われるというようなプライヴェートな問題も重なり、ブライアンの気持ちは次第にストーンズから離れがちになり、レコーディング現場で本来の担当楽器であるギターを弾くことも少なくなっていった。 それまで以上にソリッドなギター・リフを持つこの曲は、リリースに合わせてプロモーション・フィルムも制作され、ギターを手にしたブライアンを含む、毒々しいイメージのストーンズの5人がプレイする姿が視聴者に鮮烈な印象を与えたこともあり、ストーンズは久々に全英チャート1位に返り咲いた。 「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」に続いて12月(米国では11月)にリリースされたアルバム『ベガーズ・バンケット』は、ボブ・ディランらが先導するルーツ・ミュージック回帰の動きから刺激を受けたこともあって、アコースティック・ギター使用の比率がこれまでになく高く、英国でのブルース・ブームにも呼応した見事な「バック・トゥ・ザ・ルーツ」アルバムとなった。 また、その冒頭を飾った「悪魔を憐れむ歌」は、「サタンの視点からの文明批評」というテーマにこそサイケデリックな喧騒の残り香を感じさせるが、ガーナ人のパーカッション奏者によるコンガと、もともとジャズ・ドラマーだったチャーリーによるテクニカルなリム・ショットの組み合わせで聴かせるアフロ・ビートはかなり先鋭的なもの。 さらに「ストリート・ファイティング・マン」は、パリ五月革命やヴェトナム反戦運動など、この年、世界各地で吹き荒れた「政治的に過激な動き」を助長する曲として放送禁止扱いになったり、暴動騒ぎになったシカゴ民主党大会での写真を使った同シングルのジャケットが問題になって回収騒ぎになったり、アルバムに関してもジャケットをめぐってレコード会社とバンドが対立したことでリリースが遅れたりと、前年のドラッグ裁判をめぐる騒動に続いて、単に反社会「的」というだけでなく、具体性のあるトラブルメイカーとしてのストーンズのイメージはこの頃に固まったと言っていいだろう。 一方、日本でもこの年を頂点とするGSブームの中で「テル・ミー」「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」といった初期ストーンズのレパートリーがいろんなグループに取り上げられ、日本でのストーンズ人気を大きく底上げしたということも注目すべき出来事だった。 69年に入るとバンドはついに大きな決断を下す。 さらに衝撃的だったのは、そのブライアンが7月2日の深夜、自宅プールで死体となって浮いているところを発見されたことで、それを受けたストーンズは、その二日後に予定されていたハイド・パークでのフリー・コンサートを急遽ブライアンの追悼コンサートとして開催することになる。 ミック・テイラーを加えた第2期ストーンズの不穏なスタートだった。 しかし、そのツアーの最後にギリギリになって加えられたサンフランシスコ近郊オルタモントでのフリー・コンサートでつまずいてしまう。 準備不足で殺伐とした雰囲気の中、一人の黒人生年が警備に雇ったヘルズ・エンジェルズにより刺殺されるという事件が起こってしまったのだ。 ひとつは、自分たちの新しいレーベルの立ち上げ。 前者に関連して前マネージャー、アレン・クラインとの代理人契約解消に多少モタついたが、かつて憧れていた米国のレコード会社、チェスの創業者の息子マーシャル・チェスを代表にした新レーベル「ローリング・ストーンズ」を、やはりファンだった米国のアトランティック・レコーズ傘下に設立することができた。 後者に関しては、英国の高い税率から逃れるために、メンバーがいったんフランスに移住するという「税金逃れのための国外移住(tax exile)」という手段を選ばざるを得なかった。 また、カントリーに造詣の深かった米国人ミュージシャン、グラム・パーソンズとの交流から生まれた「ワイルド・ホース」、さらにブルース・カヴァーや、サザン・ソウルからの影響をモロに感じさせる曲も含んだこのアルバムは、ストーンズのアメリカ大衆音楽研究の成果が一段と「深化」したことを示す作品でもあった。 2枚組18曲というヴォリュームの中には、「ブラウン・シュガー」が持っていたビート感覚をさらになめしたようなコクのあるグルーヴに仕立てた「ダイスをころがせ」や、キースがリード・ヴォーカルを務め、ステージでの彼の代表的なレパートリーともなる「ハッピー」のようなロックンロールもあり、またカントリーなど米国南部的なものからさらに南に下ってカリブ海方面を見据えたような音楽要素がうまく取り込まれている。 といってそれらが行儀よく収まっているのではなく、視座の広さとロック的要素がミックスされた素晴らしい仕上がりとなった。 この事件が逆に、以後の日本のストーンズ・ファンに「オレたちは日本では見ることができない特別なバンドのファンなのだ!」という一種独特のマニアックさ、熱さをもたらすことになった点も見逃すことができない。 ストーンズ流ディスコ・ナンバーとして作られた先行シングル「ミス・ユー」のヒット(全米1位)の勢いもあって、続く米国ツアーでは9万人収容の巨大スタジアムから3,000人規模の小会場まで使って、最小のサポートメンでプレイ。 パンキッシュなストーンズを見せつけた。 ツアー後の10月にトロントで下された判決は条件付き執行猶予。 その条件とは、6か月以内にカナダの盲人協会のために特別コンサートを開くように、というものだった。 前述のようにこのツアーで、古いレパートリーを引っ張り出して自分たちの歴史そのものを「売り」にし始めたストーンズだったが、その歴史解釈の中には、自分たちこそがロックの歴史を象徴する存在であるという、見方によっては少々傲慢な部分があったのかもしれない。 それがまたストーンズらしいのかもしれないが…。 しかし、好調なツアーの影で、バンドとしてのストーンズには問題も生じ始めていた。 ミックとキースとの関係がギクシャクしてきたことが、曲作り~レコードの制作現場に暗い影を落とし始めたのだ。 他にもチャーリーのドラッグ使用が問題になるなど、この時期、グループ内の軋みが伝わってくるようになってきており、そのせいか、『アンダーカヴァー』、そしてこの『ダーティ・ワーク』と、ツアーを伴わないアルバムが2作続くことになってしまった。 ただしこれは彼の死後リリースされたもので、内容も基本的にはモロッコのミュージシャンの演奏を彼が録音したもの。 また、ロン・ウッドは、ストーンズ加入前からソロ・アルバムを発表してきていた。 「いよいよストーンズ解散か?」と言われ始めた時期だったし、グループとしての来日公演も実現していなかっただけに複雑な思いを抱いてコンサートに足を運んだファンも多かったのかもしれない。 しかし、完成したばかりの東京ドームでミック・ジャガーが「ホンキー・トンク・ウィメン」を歌い始めた瞬間、そんな思いはどこかに吹き飛んでしまったという経験を持つファンも多かったはずだ。 何しろあの頃、それからたった2年後に本当にストーンズの初来日公演が実現するとは、誰も想像すらできなかった。 実は1月にミックとキースが密かにバルバドス島で再会し、二人でみっちり曲作りを行なってからストーンズとしてのレコーディングに臨んだ、というようなインサイド・ストーリーが知られるようになるのは後のこと。 記者会見場に揃った5人が嬉しさを隠せない様子でツアーの予定を語るシーンから受けた感動は、そこでサワリの部分が流されたシングル・カット曲「ミックスト・エモーションズ」(全米5位)のハーモニーの美しさとしっかりと重なる。 そして同年8月にスタートした世界ツアーの一環で翌90年の2月、ついにストーンズが初めて日本にやってきたのだった。 それも、2年前のミックと同じ東京ドーム(55,000人収容)で10回連続公演という破格のスケール! 多くのメディアも巻きこみ、マニアックなファンは勿論、普段は洋楽、それもロックに関心がなさそうな層まで巻きこむ大イベントとなった。 少なくとも日本では「選ばれた音楽ファンにとっての神」のような存在だったストーンズがここで一気に「誰もが知る存在」になったことで、少し気持ちが離れがちになった往年のファンもいたようだが、単なる「話題性」を超え、実際にそのパフォーマンスそのもので東京ドーム10回分の観客を圧倒したストーンズを、ファンはもっと誇りに思っていいのではないだろうか。 これ以降、ストーンズの正式メンバーは4人となり、ベースにはマイルス・デイヴィスやスティングのバンドへの在籍経験もある凄腕の米国人、ダリル・ジョーンズをレギュラー・ゲストとして迎え入れることになる。 続く世界ツアーも同じ布陣で乗り切ったのだが、前回の初来日公演成功に気をよくしてか(その証拠にあれ以降、世界ツアーには必ず日本公演が組み込まれるようになった)、この頃からストーンズは自分たちの歴史に新たなページを刻むべく、未踏の地を次々と制覇していくようになる。 何とそこには、発掘されたアイク&ティナ・ターナーとB・B・キングの前座演奏に加え、今までファンが熱望しながらもなかなか出て来なかった、未発表ライヴ音源5曲(映像版も含めると5曲10テイク)が含まれていたのだ。 そこには、CD一枚分10曲のボーナス・トラック 日本盤は1曲追加)が追加収録されており、しかもその中にはミックが新たにヴォーカルを入れる、といった追加レコーディングを経て完成度を高められた曲まで含まれていたのだ。 過去音源の素直な「お蔵出し」ではないことに戸惑う声もあったことは事実だが、この「ストーンズ流アーカイヴ・ビジネス」に、現役感にこだわる彼らの意地のようなものを感じたのはぼくだけではないはず。 この年の末には、さらなるサプライズもあった。 それも、一連のアーカイヴCDシリーズと同様、ボブ・クリアマウンテンの最新リミックスによるピカピカのサウンドに磨き上げたものを! 今のところCDリリースがないために、その衝撃は熱心なマニアとインターネット~ソーシャル・メディア・レヴェルに留まってはいるが、ついにここまでやってくれたか!と快哉を叫ぶ声は多く目にした。 昨年末から、50周年に向けて何か動きにつながりそうなニュースはいくつか伝わってきている。 ひとつはスペシャル・コンサート、あるいはツアーの噂。 メンバーからも「何かやりたい」というメッセージは断片的に伝わってきているし、ビル・ワイマン、ミック・テイラーも50周年に向けたリハーサルを兼ねたジャム・セッションに招待するとキースが発言、というようなニュースまであったのだが、それがどういう動きにつながっていくのかは現在のところまだ具体的には見えて来ていない。 だが、大いなる期待を持って最新ニュースに注目しておくべき価値は十分にある。 それとは別にアーカイヴ・ビジネスの方にもいろいろな期待ができる。 まず、この3年間1年に1作ペースでリリースしてきた「デラックス・エディション」形式の再発盤は今年も出してきてくれるはず。 それに、発掘ライヴ音源が何作かリリースされることも間違いない。 ストーンズ・ファンにとっては、忙しくも嬉しいアニヴァーサリー・イヤーになりそうである。 2012年1月31日 寺田正典.

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SixTONES(ストーンズ)メンバープロフィールとグループの成り立ちを徹底解説!

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出典: SixTONESのメンバーは日本テレビの深夜ドラマ「私立バカレア高校」に出演していたジャニーズjrのメンバー6名で結成されました。 結成が発表されたのは、 2015年5月1日、「ジャニーズ銀座2015」昼の部の公演でのことでした。 グループ結成当時は 「シックストーンズ」という読み方で発表されたのですが、2015年8月のMyojyoで「ストーンズ」に変更したと発表されました。 グループ名の由来は グループ名はジャニーさんのひらめきでつけられました。 SixTONESのグループ名の由来は、 「音の6原色」なんです。 かっこいいですね、SixTONES。 jrの中でも人気が凄かった 出典: SixTONESはグループ結成後間もなく、2015年9月には「少年たち 世界の夢が…戦争を知らない子供達」の舞台に同じくジャニーズjrの「snow man」と出演しました。 2018年の3月に始まった、ユーチューブのジャニーズJrチャンネルではSixTONESは金曜日の配信を担当しています。 横浜アリーナでのSixTONES単独公演の一曲目の「jungle」の再生回数が、 一ヶ月も経たないうちに100万回以上再生されて、現在も ジャニーズJrチャンネルの最高再生回数を更新中なのです。 滝沢秀明プロデュースで一気に注目度アップ 2018年11月5日に発表された、 滝沢秀明さんの初プロデュースによる、SixTONESの 「JAPONICA STYLE」のMV。 その再生回数が、たった一日で100万回を超え、ストーンズの注目度の高さが浮き彫りになりました。 滝沢効果もあるかもしれませんが、「JAPONICA STYLE」MVのかっこよさで、ファンをさらに増やしたのではないでしょうか。 ジャニーさんがデビューを決めた最後のグループ! SixTONESはSnow Manとともに、2020年のCDデビューが決定しました。 実は ジャニー喜多川さんが、病に倒れる前の2019年6月16日にSixTONESのCDデビューがきまったのです。 ジャニー喜多川さんと滝沢秀明さんの話し合いで2020年のデビューが決定。 その 2日後の2019年6月18日にジャニー喜多川さんは入院してしまいました。 同月28日にジャニー喜多川さんの病室に集められてSixTONESはデビューが決まったことを知らされました。 そして2019年7月9日にジャニー喜多川さんは87歳で亡くなられたのです。 SixTONESはSnow Manとともに、 ジャニーさんがデビューを決めた最後のグループとなったのですね。 デビュー曲は2020年1月22日発売 SixTONESのデビュー曲は1月22日発売。 「Imitation Rain」でYOSHIKIさん作詞作曲です。 このブッキングは滝沢秀明さんの熱烈オファーで実現したそうですね。 JAPONICA STYLEとはまた違った世界感ですよね。 ジャニーズで一番の高身長のグループ 実はいままではジャニーズウエストがジャニーズの中で一番高身長だったんです。 2018年の ジャニーズウエストのメンバーの平均身長が176cm。 なんと SixTONESのメンバーの平均身長は176. 66cm!高い。 メンバーの平均身長がこれって、凄くないですか!?スタイル良すぎです。 ちなみに、今までのジャニーズといえば、身長が低いイメージもありましたよね。 ちなみに キンプリのメンバーの平均身長は171cmなんですよ。 そう考えると、SixTONESがどれだけ高身長のメンバー揃いだということがわかりますよね。 名前:松村北斗(まつむらほくと) 生年月日:1995年6月18日 身長:177cm 出身:静岡県 松村北斗さんは、小学校から 空手を習っていて、黒帯ももっているのです。 中学では静岡県の県大会で2位になり、 全国大会にも出場するほどの腕前だったのです。 ジャニース事務所には中学のときに入所の応募をし、 13歳のときに、3回めでやっと合格しました。 雑誌 viviの国宝級イケメンランキングでは常連で、毎年ジワジワと順位をあげてきているんですよね。 ちなみに松村北斗さんは、2019年のランキングでは10位でした。 (1位はキンプリの平野紫耀くんですね。 ) ドラマ出演も着実にこなして、今後が楽しみです。 松村北斗のメンバーカラーと呼び方 松村北斗さんのメンバーカラーは 黒です。 とても似合っていて、よく考えられているな、と思います。 2015年のSixTONES結成当初は青だったり、ピンクの衣装を着ていることもありましたが、現在は松村北斗さんのメンバーカラーは黒で決定しています。 松村北斗さんの呼び方は、 ほっくん、ほくてぃーです。 松村北斗の性格は 松村北斗さんの性格は、 クールな努力家です。 スポーツに没頭した経験や、ジャニーズ入所まで3回もチャレンジしたこともありますが、ジャニーズとして活躍しながら、堀越高校に進学し、 3年間トップの成績だったのです。 努力家でもあり、知的な面を持ち合わせていますね。 松村北斗さん、SixTONESのメンバーの中で 一番の知性派ですね。 また意外なことに、松村北斗さんは めちゃくちゃ偏食で、白いごはんに七味をかけて食べるという一面も。 名前:ジェシー 生年月日:1996年6月11日 身長:184cm 出身:東京都 ジェシーさんの 本名はルイス・まさや・ジェシー。 母親が日本人で、父親がアメリカ人のハーフです。 8歳のころから、ダンスや空手をしていて運動が好きだったそう。 空手道場の友達につれて行かれたのがなんと、少クラの番組見学だったのです。 そこでジャニーさんの目にとまり入所が決まったという、エリートジャニーズさんです。 しかも ジェシーさんの初めての外食はジャニーさんと。 小学校4年生のときに、焼き肉を食べたのだとか。 これはいろいろ凄い! そして、実はジェシーさん、ジャニーズ先輩の 伊野尾慧さんと遠い親戚だったというから驚きです。 出典: 当時、ジェシーさんは伊野尾慧さんが自分の遠い親戚だと知っていたそう。 それを言われた伊野尾慧さんは知らなかったので、ちょっとびっくりして若干ひいていたみたいです。 でも伊野尾慧さんがおばあちゃんに確認して、本当にジェシーさんが親戚だとわかって一安心したようですね! ジェシーのメンバーカラーと呼び方 ジェシーさんのメンバーカラーは 赤です。 SixTONES結成当時は紫の衣装なんかも着ていましたが、メンバーカラーは赤で確定。 ジェシーさんも、本当に赤がぴったりですよね、似合っています。 ジェシーさんの呼び方は、そのままで ジェシー、または 「じぇっさん」「じぇしお」なんて呼ばれていますね。 ジェシーの性格は ジェシーさんの性格は 順応性があって、心が広いです。 全く変なガンコさがないそうです。 自然体で温厚なところが、 ジャニーズ先輩の木村拓哉さんからもお墨付きをえているそう。 優しくて心がひろくてイケメンってなんの非の打ち所もないじゃないですか! ジェシーさんはSixTONESのメンバーの中で 一番包容力があると思います。 そして ジェシーさんの特技が意外! たけしさんのモノマネや、極めつけは ドナルドダックで「バカヤロウ」とたけしさんのモノマネをする姿をみて爆笑してしまいました。 かなり安定感あるモノマネなので、見ていて安心できます。 ジェシーさんのサービス精神の高さが伺えますよね! 京本大我のプロフィール 出典: 山本博美さんといってアイドルとして活動していました。 京本大我さんは、父母とも美形でビジュアル的にもサラブレッド。 12歳のときに、家族写真をみたジャニーさんが京本家に連絡をとり、スカウトしたというフォトジェニックな逸材です。 父譲りの 中性的なビジュアルはとてもミステリアスな魅力ですよね。 2015年にもミュージカル「エリザベート」への出演をしましたが、途中で体調不良により降板。 2019年夏にも同ミュージカルに出演している、実力派です。 【エリザベートムック、早売り】京本ルドルフと城田トートの闇が広がる。 これはけっこう文句なくピンクでしょうね。 ピンクしかないだろ、というくらい似合っています。 京本大我さんの 色気のなせる技でしょうね。 京本大我さんの呼び方は、そのまま 大我、京本を略してきょも、きょもちゃんです。 意外ときょもちゃんとか、かわいいし、呼びやすいですよね。 京本大我の性格は 京本大我さんの性格は、 かなり大胆で他のメンバーを驚かしているようです。 親の七光り、2世という枠にはまることを嫌い、自ら切り開く性格の京本大我さん。 ダンスも歌も努力してトレーニングして、歌唱力がついたそうです。 前向きで努力家なんですね。 京本大我さんはSixTONESの メンバーの中で一番歌がうまいでしょう。 メインボーカルで高音がとてつもなくセクシーです。 京本大我さんは歌マネも得意。 kinkikidsの堂本剛さん、堂本光一さんやNewsの増田貴久さん、手越祐也さんのモノマネはかなりの完成度です。 名前:田中樹(たなかじゅり) 生年月日:1995年6月15日 身長:175cm 出身:千葉県 田中樹さんは、 元KAT-TUNの田中聖さんの弟なんですね。 かつては兄弟でジャニーズに所属していたのです。 お兄さんが退所したときは、いろいろと考えるところがあったのかもしれませんね。 田中樹のメンバーカラーと呼び方は 田中樹さんのメンバーカラーは 青です。 SixTONESの結成したころは、オレンジの衣装なんかも着ていましたが、青にきまりました。 オレンジより青の方が似合うかもしれません。 個人的には、白とかも似合いそうだな、と思いました。 田中樹さんの呼び方は、そのまま、 「じゅり」や「じゅったん」「じゅじゅ」です。 じゅりってかわいい名前ですからね。 田中樹の性格は 田中樹さんの性格は、とても 優しくて真面目。 そして 素直な性格なんです。 じつは田中樹さんは、 過去に電車でチカンにあった女性をみつけ、チカン撃退して救助するという 正義感の持ち主なんですね。 その助けられた女性は、 惚れたわ!!と思ったそうです。 確かに、困ったときに助けてくれただけでも、え!?と気になりますよね。 それが田中樹さんのようなかっこいい子だったらなおさらでしょうね。 まだ 無名だった田中樹さんは、この女性に、「たなかじゅり」と名乗ったそう。 女性が聞き取れなくて、 「じゅじゅ」と聞き間違いそれが、ニックネームになっているんですよ。 田中樹さんは、SixTONESのメンバーの中で一番の正義感の持ち主といえるでしょう。 名前:森本慎太郎 生年月日:1997年7月15日 身長:175cm 出身:神奈川県 森本慎太郎さんの 兄も、元ジャニーズでHey! Sey! JUMPに所属していた、森本龍太郎さんなんです。 現在は退所してしまいましたが、兄弟ジャニーズは意外と多いんですよね。 2019年には、ドラマ「監察医 朝顔」に出演し、一気にメジャーになってきた森本慎太郎さん。 今後の活躍が楽しみですね。 森本慎太郎のメンバーカラーと呼び方は 森本慎太郎さんのメンバーカラーは 緑です。 SixTONESの結成時のころは、赤の衣装なんかも着たことがありましたが、緑に固定しましたね。 緑って、着こなしがけっこう難しいし、似合う似合わないが分かれるところですよね。 森本慎太郎さんはなかなか緑色が似合っているのではないでしょうか。 森本慎太郎さんの呼び方は、そのまま 慎太郎や、しんちゃんです。 森本慎太郎さんってけっこうマッチョな感じがするので、しんちゃんって呼び方、けっこうギャップです。 森本慎太郎の性格は 森本慎太郎さんの性格は、 温厚で優しいんです。 ふざけているように見えても、 実はしっかりしていて、負けず嫌いなところがあるのだとか。 先にジャニーズで活躍していた兄の森本龍太郎さんに負けじとがんばって活動してここまできたのですね。 やっぱり他人より、兄弟が同じ世界でいると色々と複雑な思いやジレンマがあったのではないでしょうか。 そこを乗り越えてJrの活動を頑張っていました。 森本慎太郎さんは、SixTONESの メンバーの中で一番のグループ愛の持ち主で情熱家。 そして一番年下のメンバーです。 髙地優吾のプロフィール 名前:髙地優吾(こうちゆうご) 生年月日:1994年3月8日 身長:175cm 出身:神奈川県 髙地優吾さんの 父親は人気の占い師でKOHCHさんといいます。 テレビや雑誌連載などマルチなタレントとしても活躍するほど人気で有名な方です。 髙地優吾のメンバーカラーと呼び方は 髙地優吾さんのメンバーカラーは 黄色です。 SixTones結成初期には、黄緑の衣装も着たりしていました。 暖色系が似合うのかもしれませんね。 髙地優吾さんの呼び方はそのまま、 髙地、「ゆーご」、「ゆご」などです。 髙地優吾さんの優しい雰囲気にぴったりな呼び方ですね。 髙地優吾の性格は 髙地優吾さんの性格は、とにかく マイペースでおっとりしています。 しかし 落ち着いたしっかり者で常識人。 おそらく世間一般の感覚を持ち合わせた、珍しい芸能人のひとりなんじゃないでしょうか。 髙地優吾さんは、SixTONESのメンバーの中で 一番の年長者であり、ホッとする安定感のある存在です。 品行方正で、女性の噂も全く聞きませんね。 メンバーの年齢は 出典: 最後にSixTONESメンバーの年齢についてまとめました。 メンバーの誕生日と年齢順を一覧でみてみましょう。 年齢順は SixTONESメンバーを年齢順に若い順から並べてみました。 森本慎太郎(1997年7月15日) 22歳 ジェシー(1996年6月11日) 23歳 松村北斗(1995年6月18日) 24歳 田中樹(1995年6月15日) 24歳 京本大我(1994年12月3日) 25歳 髙地優吾(1994年3月8日) 25歳 このようにSixTONESは、 メンバーの年齢が3歳しか間が空いていないんです。 年が近いのもあって、みんな仲良しな感じがしますよね。 まとめ SixTONESのメンバーの身長や年齢や性格などのプロフィール、メンバーカラーなどについてもまとめてみました。 これからも活躍することが間違いないのですが、メジャーデビューをとにかくしてもらいたいですね! みんなで応援しましょう。 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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