人生に幸あれ 意味。 人生山あり谷ありの意味とは?ことわざの使い方を例文を用いて紹介

人間万事塞翁が馬

人生に幸あれ 意味

「幸薄い」と思われる人の特徴とは では、いったいどんな顔が幸薄い顔なのか。 そんなことを言うと、「ブサイクな顔が幸薄い顔」と考えている方もいらっしゃるかもしれませんが、実際、顔が悪いからというよりも、表情や立ち姿によって「幸薄そう」と思われることが多いのです。 で、具体的に、幸薄い男女の特徴を上げるとするなら「笑顔が少ない・姿勢が悪い・声が小さい」という3つの要素。 どんよりして口角が下がっている顔、立ち姿が情けない、声が聞き取りづらい、このような状態の人間であれば「幸薄そう」と言われてしまうのは必然。 そして、そういった人間には近寄り難い印象が生まれてしまうものです。 というより、もっと言ってしまえば「人生楽しくなさそうだな」なんて他人から思われた時点で、「幸薄そう」な人間の烙印を押されてしまう可能性もあります。 覇気(はき)やオーラという不確かな言葉。 でも実際、その人の雰囲気を左右するのは、表情・姿勢・声の大小と言ったものなのです。 「幸薄い」と言われる女性の顔の特徴とは さてさてここからは、女性を対象に「幸薄そう」と言われてしまう理由をご説明。 正直なところ、「幸薄い」という言葉は男性にはそこまで使用されず、女性に使用されていることが多いです。 で、この「幸薄い」という言葉が指す女性の顔の特徴、それは主に「色白・あまり笑わない・顔の線が薄い」という3つの要素。 身近に「幸薄い顔」のお知り合いがいる方には「確かにー」と思って頂けたはず。 そして、「んん?」と思った方もいらっしゃることでしょう。 「そこまでネガティブじゃないよね」と。 しかしその通りなのです。 実際、女性に対する「幸薄そう」という言葉には、そこまでネガティブな意味が含まれているわけではないのです。 もっとも近いニュアンスの言葉なら「美人薄命」と言った感じでしょうか。 「綺麗な顔立ちをしているものの、どこか儚く悲しげな雰囲気を纏って(まとって)いる」、それが「幸薄い顔」であるのです。

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アリストテレス・幸福・人生の意味――過去の講義テキストから|山口尚|note

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【注釈】 昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。 やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。 人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。 すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。 人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。 一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。 しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだという故事に基づく。 単に「塞翁が馬」ともいう。 人間は「じんかん」とも読み、「人類」ではなく「世間」を意味する。 【出典】 『准南子』人間訓 【注意】 「が」は所有を表す格助詞だが、「塞翁の馬」とはいわない。 人間を「にんげん」と読むのは間違いで、正しい読みは「じんかん」であるとの指摘も多いが、どちらの読み方をしても「世間」の意味があり、「にんげん」が誤読ということはない。 本サイトでは、一般に多い読み方である「にんげん」を採用している。 【類義】 / 【対義】 - 【英語】 Joy and sorrow are today and tomorrow. (今日の喜び明日は悲しみ) A joyful evening may follow a sorrowful morning. (悲しみの朝の後には喜びの夕べが訪れる) 【例文】 「就職試験に落ちたからと言って落胆する必要はない。 人間万事塞翁が馬というだろう?」.

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「人間万事塞翁が馬」の読み方、意味、語源、漢文、類語、英語

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「哲学」の講義のために以前書いたテキストがパソコンから出てきた。 もはや行き場を失った文章であるので、noteに載せておきたい。 全体としてアリストテレスの幸福論を主題とするものである。 対象の学生たちは本を読んだ経験が乏しく、哲学などいわば「遠い国の話」のようである。 そうした若者たちがゆっくりとものを考えるさいの何かしらの助けとなればと書いた結果、アリストテレスを或る種の「実存主義者」と見るような解釈が出来上がった。 いま読むと牽強付会なところがあり、《当時の私の何かしらの願望がアリストテレスに投影されている》という向きもある。 学的な批判に耐えうる解釈ではないことは確実だが、誰かの思索の糧になれば幸いである。 テキストは講義二回分であり、講義全体のテーマは「幸福と人生の意味」であった。 >>>>> 哲学 講義プリント(2) 前回述べたように、この世は苦しみで溢れています。 例えば仏教の始祖であるブッダもまた人生の本質を苦と捉え、次のように説法します。 生は苦なり、老は苦なり、病は苦なり、死は苦なり、怨憎するものに会うは苦なり、愛するものと別離するは苦なり、求めて得ざるは苦なり、略説するに五取蘊は苦なり。 (『阿含経』の初転法輪の部より、『東京大学仏教青年会編修 仏教聖典〔増補版〕』、三省堂、所収) 実際、ここで「愛別離苦」と言われているように、愛するひととも別れることがある以上、たしかに愛は人生における大いなる喜びですが、それは悲しみや苦しみの原因でもあります。 次は子を亡くしたある親の手記です。 悪夢のような日から五か月が過ぎ、友人や知人からは、「どう、少しは元気になった」「いつまでも悲しんでいてはだめよ」と声をかけられ、慰めてくださっているとはわかっていても、その言葉はとても冷たい。 大切なわが子を亡くして、元気でいられる親がいますか。 悲しまない親がいますか。 それでも「何とかね」と答え、何でもない人と同じように、何でもないような顔をしなければならない。 辛いです。 (若林一美『死別の悲しみを超えて』、岩波現代文庫、2000年、38-39頁) 子どもに先立たれる、というのは私たちが想像できる中で最悪の不幸のひとつだと言えます。 その苦しみは長い期間にわたって持続し、親をほとんど生きることのできない状態になるまで苛みます。 例えば子を亡くして七年目の母親の手記が次です。 あなたは今、どこにどうしているのでしょう。 「死ねば無になる」「霊は必ず残る」「生まれ変わる」等々。 […] 今日、七回忌の法要で、お寺でピトリということを聞きました。 インドの言葉で、良い霊のことだそうです。 あなたはピトリになったんですって。 ピトリ、ピトリ、ピトリ……。 あなたが突然いなくなって、もう六年もたちました。 信じられない。 本当に辛かった。 何故こんなことになったのかと、そればかり考えて、人間の頭はバクハツしないものかと思う毎日でした。 よく今日まで、私の命がもったと思います。 若いあなたを見送って、まだこの世に生きているひどい母、何て子不幸なずるい親でしょう。 私は、ずるいことは大嫌いなのに。 本当に本当にごめんなさい。 私の人生は、ある意味で終わったのです。 あの日、あなたと共に。 ニーチェの言葉に、「生きる理由があればほとんどどんな事態にも耐えられる」という言葉があるそうですが、私は生きなければなりません。 健康でいなければなりません。 こう心に堅く思って生きることは、幸せなことなのでしょうか。 不幸なことなのでしょうか。 つらくなることもあります。 でもがんばります。 (『死別の悲しみを超えて』、61-62頁) この世には不幸がある。 そして君や私もまた不幸とは無縁でない。 不幸とは、このように講義をしている私自身の問題でもあるし、この講義を聴いている君自身の問題でもあります。 前回述べたように、この講義でやりたいことは、次の問いを自分自身の問題として考えることです。 はたしてどれほど不幸な生であっても生きる意味はあるのか? この問いに「ある」と答えることを目指して、今後いろいろな哲学者の考えを見ていきたいと思います。 (1)幸福と幸運をめぐる問題 前回の講義でいじめを苦にして自らの命を断った少女の話を紹介しました。 そして、講義の最後に、この少女に対して「いつか幸福になれるかもしれないから死んではいけない」と呼びかけることについていくつか考察し、幸福と幸運の関係の理解を深めました。 要点をまとめると以下です。 とはいえ、ずっと不幸が続く、という可能性もあるように思われる。 なぜかと言えば、幸福になれるかどうかは当人のコントロールを超えた範囲の事柄だと言えそうだからです。 さて「幸運」とは〈当人のコントロールを超えた仕方で生じる良きこと〉です。 例えば「内的」条件には〈生活の内容に満足していること〉などが含まれ、「外的」条件には〈自分を攻撃するひとが周囲にいないこと〉や〈尊厳ある生活を送れていること〉などが含まれます。 ここで、「内的」条件はおくとして、少なくとも「外的」条件のいくつかが満たされるかどうかは当人のコントロールを超えた事態だと言えます(いじめられた少女の不幸が本人の力ではどうにもならなかったことの理由はここにあります)。 それゆえ、「外的」条件が満たされて幸福になれるかどうかもまた本人のコントロールを超えた事態であることになり、ここから《幸福は幸運の一種だ》という考えが成り立つことになります。 とはいえこの考えには問題があります(本講義はこの問題にも取り組みます)。 なぜなら、私たちが幸福になるために日々努力していることからも示唆されるように、私たちは普段は《幸福は自分の力や頑張りを通じて獲得されうる》と考えているからです。 すると気になる問いが生じます。 はたして幸福は、当人の努力の産物、すなわち当人の力でコントロールできるものなのか。 それとも幸福は、結局のところ、運の産物なのか。 歴史上最も早くにこの問いを考察したひとのひとりが古代ギリシアの哲学者アリストテレスです。 今回と次回はこの問いに関する彼の考えを確認しましょう。 (2)アリストテレスと『ニコマコス倫理学』 アリストテレス(BC384-322)は、ソクラテスやプラトンと並び、古代ギリシアの最も有名な哲学者のひとりです。 とはいえ彼の知的関心は、狭い意味の「哲学」の領域に留まらず、むしろ学問一般に関わっていると言えます。 実際、彼は論理学・自然学(現在の物理学に一部相当)・倫理学・詩学・政治学など多分野においてさまざまな業績を残しており、この意味において彼は「哲学者」というよりもむしろ「学者」(ザ・学者!)と呼ばれた方が適切かもれしれません。 今回と次回取り上げる彼の著作は現在『ニコマコス倫理学』という題名で呼ばれている本です。 これは、アリストテレスが倫理について行なった講義を弟子筋の誰かが編集したものなのですが(書き下ろしの本ではないです)、編集者の有能さのためか、あるいは原稿のデキが良かったためか、全体的な統一感のあるシッカリした書物になっています(などと言うと上から目線ですが)。 とりわけ第一巻の第四章から始まる幸福論は、今回確認するように、幸福をめぐる根本的な哲学的問題のひとつ(これが幸福と幸運をめぐる問題なのですが)を綿密に練り上げています。 本講義で彼を重点的に論じる理由もそこにあります。 では、さっそく『ニコマコス倫理学』を読んでいくことにしましょう。 (3)徳にもとづく活動としての幸福 まずは、アリストテレスが「幸福」という言葉でどのようなもの考えていたのか、という点を確認しましょう。 いきなり抽象的になりますが、アリストテレスは「幸福とは何か?」に対して「それはあるタイプの徳にもとづいた活動だ」と答えます。 君たちの多くは実生活において「徳」なんて単語を使わないでしょうから、彼の言葉はちんぷんかんぷんだと思います。 「徳」という語の意味を説明すれば以下です。 「徳」とか「卓越性」とか訳されるギリシア語の「アレテー」は、人間に関して言えば、〈人間を人間として素晴らしいものにしてくれる状態あるいは特質〉を指します。 具体例は以下。 例えば、アリストテレスによれば、〈勇敢さ〉は徳のひとつです。 〈勇敢さ〉を具えたひとは、例えば戦争において、傷つけられたり殺されたりする恐怖に打ち勝ち、逃亡せずに敵陣へ攻撃を仕掛けることができる。 こうした特質は人間に関してのみふさわしく、私たちはたんなる動物に関して(冗談や比喩でない限り)「あれは勇敢だ」などと言わない。 この点に関してアリストテレスは次のように言います。 野獣が苦しさや憤激のゆえに飛び出してきて、恐ろしいことがらが少しも眼に入らないで危険に立ち向かってゆくからといって、それが勇敢であるとはいえないであろう。 (『ニコマコス倫理学(上)』、高田三郎訳、岩波文庫、116頁) 押さえるべきは《この世の中には、人間を人間として素晴らしいものとするような種類の特質が、言い換えれば、他の動物には関わらずもっぱら人間の素晴らしさに関わるような種類の性質が存在する》という点です。 もうひとつ押さえて欲しい点があります。 〈勇敢さ〉は「徳」のひとつだ、とアリストテレスは指摘しますが、彼において「徳」はいわゆる「悪徳」(ギリシア語では「カキア(kakia)」)との対比で理解されます。 例えば〈勇敢さ〉と対比される悪徳は〈臆病さ〉や〈無謀さ〉です。 このように、人間に関わる特質のうちで、人間を素晴らしくしてくれるような特質が「徳」と呼ばれる、というわけです。 その他の徳として、どのようなものがあるでしょうか。 アリストテレスは例えば〈節制〉というものを挙げます。 実際、大食漢で健康を損なうほどに食べてしまうひとは〈放埓〉の悪徳を具えているが、逆に〈節制〉を具えたひとは適度な食生活を行うことができる、と言えます。 現代的な(すなわちアリストテレスが必ずしも挙げていない)徳としては例えば〈責任感〉・〈創造性〉・〈コミュニケーション能力(他者理解力)〉などがあるでしょうか。 いずれの特質についても、それを具えれば人間としての素晴らしさが増すと言えます。 以上を踏まえて幸福の話へ戻りましょう。 アリストテレスにおいては、こうした人間的な徳にもとづく活動、すなわちこうした徳を発揮して生活することが幸福だとされます。 徳を開花させることが幸福だ、と言いかえてもいいでしょう。 彼自身が「活動」(ギリシア語で「エネルゲイア(energeia)」)という語を用いるように、徳を具えていたとしもそれを「寝かして」いては幸福と言えません。 むしろ、〈勇敢さ〉や〈節制〉や〈責任感〉や〈創造性〉などを十分に発揮して人間的にすばらしくなっているひとの生こそが幸福なのだ、ということです。 こうした疑問に対してアリストテレスは「アレテーに基づく働きはアレテーを愛するひとにとって快適である」と補足します(『ニコマコス倫理学(上)』、37頁)。 例えば〈責任感〉を大切にするひとは、たとえ肉体的に疲労を感じていても、与えられた使命に邁進して自らの〈責任感〉を発揮することに心地よさをおぼえるでしょう。 このように、たしかにアリストテレスは幸福の定義の一部に快適さを含めてはいませんが、《幸福なひとは、結果として、快適な生を送る》とも考えています。 この点で、「幸福は徳を発揮することだ」と考える彼の立場は私たちの素朴な意見と大きくズレてはいないと言えると思います。 というわけで、もちろん彼の考えは「幸福とは何か?」に対する唯一の正しい回答であるわけではないのですが(他の考え方も後の講義で紹介されます)、今回と次回は彼の考えを受け入れて考察を進めていきましょう。 (4)「幸福は幸運か?」に関するアリストテレスの考え 要点を繰り返すと、アリストテレスにおいて「幸福」は〈人間的な徳にもとづく活動〉を指します。 これはこれで学ぶところの多い考えですが、本講義において気になる点は次です。 幸福をこのような仕方で理解した場合、ひとは努力した結果として幸福になれるのか。 それとも幸福は運の産物なのか。 アリストテレスはこの問いを明示的に取り上げています。 すなわち、 ここからして、また、幸福とは学習や習慣づけとかその他の何らかの訓練によって得られるものであるか、それとも何らかの神のさだめ、あるいは運(テュケー)によって与えられるのであるかという問題も生じてくるのである。 (『ニコマコス倫理学』、39-40頁) アリストテレスは「幸福」で〈徳にもとづく活動〉を意味していますので、彼の問いは次のようにパラフレーズできるでしょう。 はたして徳の開花した生活は、習慣づけや学習などの努力を通じて得られうるのか、それとも神のさだめや運などの自分のコントロールによらないものの結果なのか。 私の考えでは、この問いを明示的に提起し、そしてそれに徹底的に頭を悩ませたことが、哲学史上におけるアリストテレスの卓越性のひとつだ、と考えています。 彼はむしろ(そこで論じる問題のひとつとして)「幸福は運の産物か」と問い、この問題に彼の倫理学における相当のウェイトあるいは重要性を与えています。 アリストテレスは最終的にある種の知的生活を究極的に幸福な生活と見なしますが、この考えは目下の問題と重要な関連をもっています(この点は次回説明します)。 では「幸福は運の産物か?」に対するアリストテレスの答えはどのようなものでしょうか。 彼は次のように言います。 幸福は、しかしながら、ひろく行きわたりうべきものであろう。 事実、アレテーに対して不具ならぬすべてのひとは、何らかの学習とか心遣いによって幸福を獲得することができるのである。 (『ニコマコス倫理学』、40頁) ここでアリストテレスは《事実として、多くのひとが、運によらない仕方で幸福を獲得しうるのだ》と指摘しています。 […]外的なもろもろの善なくして至福たりえないのは事実だとしても、だからといって、幸福であるためには大がかりなものを必要とするであろうなどと考えてはならない。 […]ほどほどものからしてもひとは徳に即して行為することができるはずであり[…]その程度のものがあれば充分である。 徳に即して活動しているひとの生活はそれで十分幸福たりうるであろう。 (『ニコマコス倫理学(下)』、高田三郎訳、岩波文庫、181頁) 要するに、徳を発揮するためにはそれほど多くの「外的な」もの(例えば財産や評判)は必要ない、ということです。 こうした見方の大切さは次のように説明できます。 考えの浅いひとは富を多く蓄えることが幸福に必要だと信じ馬車馬のように働いたりするが、そのようにしたところで幸福には近づかない。 むしろ、所有する富の多寡によらず、〈勇敢さ〉や〈責任感〉などの徳を発揮することそれ自体が幸福なのだ。 この点に注目すると、アリストテレスは幸福から「外的な」条件を減らすよう努めている、とも言えます。 本講義において気になるのは《アリストテレスが、みんな運によらない仕方で幸福になれる、とは考えていない》という点です。 実際、彼は次のように言います。 というのは、容姿がはなはだ醜く、または劣った生れであり、または孤独で子供のないひとはあまり幸福でありえないからであって、またもし子供や親しいひとびとがすこぶる劣悪であるとか、またいいのがいても死んでしまったとかいう場合にあっては、ひとはおそらく幸福から遠いであろう。 (『ニコマコス倫理学(上)』、39頁) この言葉は、読み方によっては、反感を引き起こします。 私自身、アリストテレスが書いている内容の重さと彼の筆致の軽さのギャップにイラッとします。 押さえるべき点は、たとえ〈徳を発揮すること〉という比較的慎ましい事柄に幸福の条件を限定したとしても、私たちのみんなが確実に幸福を得られるようになるわけではないのだ、という点です。 実際、冒頭で見たように、多くの親は、わが子をなくしてしまえば、〈勇敢さ〉や〈創造性〉などの徳を発揮できないほどに打ちのめされてしまいます。 子をなくして七年目の母親の手記に「私の人生は、ある意味で終わったのです。 あの日、あなたと共に」とありましたが、はたして彼女がいつの日か人間的な徳を発揮して溌剌と暮らせるようになるかどうかは、少なくとも彼女の意志で自由になる事柄に属しません。 思うに、時が癒してくれるのを待つしかないのでしょう。 子どもをもつ親はときどき《この子がいなくなったら自分はどうなるだろう》と考えるでしょう。 そして、子どもに何かあったときには、まともには生きられなくなるかもしれません。 アリストテレスのいささか無神経な(あるいはそう見える)書きぶりにはひとをイライラさせるところがありますが(とりわけ「いいのがいても死んでしまった」というフレーズ)、彼が例えば「わが子を亡くしても、徳は発揮できるのだから、確実に幸福になれる」などと書かなかったこと、そしてむしろ息子のヘクトルをトロイア戦争で亡くしたプリアモスについて「このような不幸に遭遇して惨めに死んで行ったひとを、幸福だとは何人も考えないのである」などと書いたこと、こうした点には私自身何となく「深いもの」を感じます。 まとめましょう。 《幸福になれるかどうかは、究極的には、運に左右される》というのはこの講義で何度も確認する真理です。 この真理から目を逸らして「誰でも心の持ち方次第で幸福になれる」などと言うことには無視できない欺瞞があります。 結局、どうにもならない不運に見舞われて、出口のない不幸の中にいるひとが存在する、そして自分もまたそうしたひとでありうる、というのはこの世の苦い真理でしょう。 次回はアリストテレスの幸福論をさらに踏み込んで考察します。 哲学 講義プリント(3) この講義のテーマは「幸福と人生の意味」であり、今回で三回目の講義です。 そろそろこの講義の方向性、すなわちどのような方向へ話をもっていくか、を述べておきます。 私自身の積極的な主張を粗っぽく定式化すれば以下です。 私たちには人生において目指すべきものがふたつある。 それは〈幸福な生〉と〈意味のある生〉である。 私たちは、日々のさまざまな努力を通じて、幸福になることを目指す。 とはいえ幸福になれるかどうかは、究極的には、運次第である。 そして、どうしようもない不運の結果として、不幸を強いられるひともいる。 他方で、「意味」というものに関しては、ひとはどのような苦境においてもそれを見出すことができる。 すなわち、どのような生についてもそれを生きる意味はあり、私たちはそのつど自らの生に意味を見出して、何らかの「希望」をもって生きることができる、ということである。 このように、幸福は究極的には〈私たちのコントロールし切れないもの〉の領域に属すのだが、意味は〈私たちが何とかコントロールできるもの〉の領域に属している。 以上のように私は「幸福」と「(人生の)意味」を区別したいと考えています。 なぜならこれらを区別することによって見えてくるものがたくさんあるからです。 (1)「絶望 = 不幸 マイナス 意味」 障害学の研究者である福島智さんはいわゆる「全盲全聾」の障害をもちます。 彼の言葉をひとつ引きます。 私は病気のため、三歳で右目、九歳で左目をそれぞれ失明しました。 右耳は中学生の頃に聞こえなくなり、左耳も一八歳になったばかりの一九八一年一月から三月までの三ヶ月間に急速に悪くなり、完全に聞こえなくなりました。 だんだんと聞こえなくなるプロセスは「世界が遠のき、自分が透明に、幽霊になっていくような」感覚です。 三ヶ月間の恐怖は、今でも強いトラウマになっています。 (福島智、「絶望=苦悩マイナス意味。 つまり、絶望とは意味なき苦悩である」、『imago 現代思想4月臨時増刊号 Vol. 41-4』、青土社、2013年所収、84頁) すでに両目の見えなかった福島さんにとって左耳の聴力は、彼と外の世界をつなぐ交通路としてたいへんな重要性をもっていたはずです。 だがいまやそれさえも奪われてしまう。 音を失う不安と恐怖の最中、福島さんは『1981年2月の俺』と題した文章を書きました。 その終盤にある文章が以下です。 俺にもし使命というものが、生きるうえでの使命というものがあるとすれば、それは果たさねばならない。 そしてそれをなすことが必要ならば、この苦しみをくぐらねばならぬだろう。 (中略)俺はこの考えを仮定し、その仮定のうえで生きていくしかない。 それは、俺の使命がこの苦しみがあって初めて成り立つものだ、と考えることである。 (「絶望=苦悩マイナス意味。 つまり、絶望とは意味なき苦悩である」、85頁) ここには〈苦しみという不幸〉と〈使命という意味〉の二項をめぐる重要な考え方が表現されています。 細部を無視して要点を抽出すれば次のようになるでしょうか。 すなわち、光と音を失うなどのとてつもない不幸においても、その生に何か使命のようなもの、すなわち意味のようなものが見出せれば、ひとは前を向いて生きていくことができる、と。 ここには不幸と意味を区別する見方が姿を現しています。 私は、本講義においても、この見方を重視したい。 なぜならこれこそが、いつでも不幸に陥りうる私たちにとって、不幸にいわば「殺され」ないための姿勢あるいは構えでありうると思われるからです。 福島さんは後に、精神医学者のヴィクトール・フランクル(このひとについては後の講義でも論じます)の著作を読んで、そこに「絶望=苦悩マイナス意味」という表現を見つけました。 そしてそこに十八歳の頃の「わが意」を再発見したようです。 福島さん曰く、 苦悩に意味を見出さなければ、そこには絶望しか残らない、というのがフランクルの主張だと思います。 私は一八歳の時はまだフランクルを読んでいませんでしたが、どうにかして自らの苦悩に意味を見いだそうとし、そしてフランクルの言うように、意味を見いだすことによって、絶望から抜け出したのだと思います。 (「絶望=苦悩マイナス意味。 フランクルは「苦悩」という表現を用いていますが、これは「不幸」と読み換えてもいいでしょう。 そして「絶望=不幸マイナス意味」という公式を本講義でも大事にしたいと考えています。 なぜなら、この公式においては、とてつもない不幸の最中において何らかの「希望」を持ち続けるための鍵が表現されていると思われるからです。 (2)究極的幸福と知性的な生 前回は「徳」と「幸福」に関するアリストテレスの立場を見ました。 簡単に復習すれば以下です。 アリストテレスは〈人間的な徳を発揮して生きていること〉を「幸福」と見なしました。 というわけで逆から言えば、例えば勇気を発揮できずつねに臆病な行動をとり、節制できずに暴飲暴食を続けるひとは、たとえ得られる快楽は多くとも、決して幸福ではない、ということです。 このようにアリストテレスは幸福と快楽を区別する。 したがって、たしかにアリストテレスは「幸福」の定義に〈快適さ〉を含めてはいませんが、《幸福な生は、結果として、快適な生でもある》と言うことができます。 以上が前回の復習。 そして今回考察したいのはいわゆる「究極的幸福」に関するアリストテレスの立場です。 彼は次のように言います。 […]それぞれのものに本性的に固有なものが、それぞれのものにとって最も善きもの、また最も快適なものなのである。 ところで人間に固有なのは、知性に即しての生活にほかならない。 […]したがって、こうした生活が、また最も幸福な生活たるのでなくてはならない。 (『ニコマコス倫理学(下)』、177頁) 注目すべきは「知性」という言葉です。 引用においては、「知性に即しての生活」が、すなわち知性を発揮した生活が、最も幸福な生活だ、と述べられています。 このことはアリストテレスが知性を徳の一種と見なしていたことを示唆しますが、これは実際にそうです。 簡潔にまとめると次のようになるでしょう。 アリストテレスの考えでは、知性という徳を発揮した生活が最も幸福な生活だ、と。 これは問題的な考え方に見えます。 なぜアリストテレスは知性的な生活を最も幸福と見なすのでしょうか。 「幸福」というものは誰もがそれを目指すものであるので、《知性的な生が最も幸福だ》という考えは《誰もが知性的な生を目指している、あるいは目指すべきだ》という考えを含むように思われます。 とはいえ「知性的な」生は万人の目指すべきものなのでしょうか。 むしろ「知的な」ことが好きな一部のひとが目指していればよいものなのではないでしょうか。 そして、ひとによっては、「知性的な」生を目指せば却って不幸になったりするのではないでしょうか。 なぜアリストテレスは「知性」と「幸福」を結びつけるのでしょうか。 この問いが今回の主題です。 君たちの中には《知性的な生活が最も幸福である》という考えに反感を抱くひともいると思います。 とはいえアリストテレスの考えには重要な洞察が含まれているのです。 そして、その洞察を掴むには、「知性」ということでアリストテレスがどのようなものを理解していたのかを確認する必要があります。 以下、アリストテレスの「知性」という語の内容を確認したうえで、「知性的な生活が最も幸福だ」という考えの真意を解明したいと思います。 (3)アリストテレスの「知性」理解 現代人にとって「知性的」とは、ひとつに、いろいろな学問の知識をたくさんもっていることでしょう。 あるいは、ひとによっては、〈他人の言うことを的確に理解できること〉や〈文脈に応じて、すべきことや言うべきことを適切に判断できること〉などのコミュニケーションスキルを「真の知性」と見なしたりもします。 とはいえアリストテレスは「知性的」というものでもう少し哲学的な事柄を理解していました。 それは、〈人間を人間たらしめるもの〉としての知性、と表現できます。 先の引用でも「知性」は「人間に固有」と言われていましたが、アリストテレスにおいて知性は人間の本質的特徴です。 彼は、人間とたんなる獣に関して、例えば以下のような区別を置いています。 いま、われわれの魂において、われわれの実践や真理認識をつかさどるものに三あり、感覚(アイステーシス)、知性(ヌース)、欲求(オレクシス)がすなわちそれである。 しかしながら、これらのうち、感覚はいかなる実践の端緒ともならないものなのであって、このことは、獣類は感覚を持ってはいても実践にあずからないということに徴して明らかである。 (『ニコマコス倫理学(上)』、218頁) 「欲求」や「実践」などの言葉使いが現代のものとズレるのでなかなか理解できないところがあるかもしれません。 とはいえ要点は明確で、たんなる獣は、「知性」や「欲求」などの比較的高度な認知能力をもたず、「感覚」という低次の認知能力しかもたない(それゆえ獣の行動は、たんなる本能的反射であって、実践とは見なされえない)、ということです。 あるいは、同様の事柄が、アリストテレスの別の著作ではさらに細かく論じられています。 動物は、(1)自然的に感覚を有するものとして生まれついてくる。 (2)この感覚から記憶力が、或る種の動物には生じないが、或る他の種の動物には生じてくる。 そしてこのゆえに、これらの動物の方が、あの記憶する能のない動物よりもいっそう多く利口でありいっそう多く教わり学ぶに適している。 さて、このように、他の諸動物は、表象や記憶で生きているが、経験を具有するものはきわめてまれである。 しかるに、人間という類の動物は、さらに技術や推理力で生きている。 (『形而上学(上)』、出隆訳、岩波文庫、21-22頁) 注目して欲しい点は、ここでもアリストテレスが人間とその他の動物を、知性的な要素(技術や推理力)の有無を基準に区別している、という点です。 もちろん、人間も動物の一種ですので(アリストテレスはこの点もキチンと認めています)、人間もその他の動物と同じく「感覚的な」認知機能を有しています。 とはいえ、これに尽きないのが人間だ、というのがアリストテレスの人間理解です。 彼は人間が「知性」をもつことを強調する。 彼の立場においては、人間に対して自然界における人間の地位を与えているものはまさに知性なのだ、と言うことができるでしょう。 さて、人間は知性的な能力をもつので、さまざまな知的活動に携わることができます。 アリストテレスは、こうした人間固有の知的活動の具体例として、以下のようなものを挙げています(『ニコマコス倫理学(上)』、220頁以下)。 ・学問(エピステーメー)= 一般的に成立する事柄に関する知 ・技術(テクネー)= 理屈を通じてものを生ぜしめる技 ・知慮(プロネーシス)= 自分にとって真に「ためになる」事柄を判断すること ・智慧(ソフィア)= 存在を「哲学的に」理解すること こうした活動にたんなる動物(犬や猫など)は携わることができませんよね。 この意味で、こうした知的活動は人間を人間として特徴づけている、と言えます。 ところで心に留めておいて欲しいことは「学問」と「智慧」の区別です。 智慧とはアリストテレスにおいては〈物事を哲学的に理解すること〉を指しますが、この講義を受けている君たちもすでに何となく気づいているとおり、「哲学」という学は物理学や生物学のようなその他の学問と趣を異にします。 《どう違うのか?》については、徐々に明らかにしていきたいと思います。 (4)観照的生と〈生の意味〉 「知性的な生が最も幸福だ」というアリストテレスの主張の真意の説明へ進みましょう。 はたしてこれはどういう意味なのでしょうか。 たったいまいくつかの知的活動を区別しましたが、アリストテレスは、幸福への道として、とりわけ〈智慧〉を重視します。 智慧を発揮する生が最も幸福だ、ということです。 そして、智慧を「観照(テオーリア)」という語で言い換えつつ、次のように言います。 […]人間以外の諸動物は全然観照的な活動に参与しないがゆえに幸福を有しない。 かくして、観照のはたらきの及ぶ範囲に幸福もまた及ぶわけであり、しかも「観照する」ということがより多く見出さされれば見出されるほど、「幸福である」こともまたより著しい。 (『ニコマコス倫理学(下)』、180頁) ポイントのひとつは、観照こそがひとびとに幸福を与えるのであり、逆に、獣には観照能力がないので、獣はそもそも幸/不幸の範囲外にいる、という点。 これはなかなか重要な指摘です。 押さえるべきは、人間は、ある種の知的能力の高さゆえに、幸福であったり不幸であったりできる、というところ。 なぜならこの点を押さえることは不幸という事象の意味づけに無視できない変化を与えるからです。 さて、「観照」は智慧のことであり哲学的理解のことであるので、結局、アリストテレスの主張は「物事を哲学的に理解する生こそが最も幸福なのだ」と言い換えられるでしょう。 とはいえなぜこう言えるのか。 この点はジックリ説明する必要があります。 ポイントを理解するには、ここまで「幸福」と訳してきたギリシア語の「エウダイモニア(eudaimonia)」の意味を押さえねばなりません。 語源をめぐる複雑な話を避けて核心部だけ述べると、「エウダイモニア」が指す事柄は「幸福」よりも広い。 実際、アリストテレスは、「エウダイモニア」の意味を解釈する際に、これを「エウ・ゼーン(よう生きている)」や「エウ・プラッテイン(ようやってる)」などと言い換えています(『ニコマコス倫理学(上)』、20頁)。 私たちがアリストテレスを読む際には、次のように理解するのが最も分かりやすいと思います。 それは、アリストテレスは私たちに、「幸福」を〈よう生きていること〉や〈ようやってること〉と捉えなおすよう提案している、という理解です。 このように理解すると、アリストテレスの語る「幸福」は、私たちの考える幸福よりだいぶ広い。 それは、文字通り「しあわせ」な生を指すだけでなく、苦難においても「よう生きている」あるいは「ようやってる」ような生も指します。 「幸福」に関するこうした理解は、彼の次の言葉にも表れています。 もしひとが数多くの大きな不幸を、苦悩への無感覚のゆえにではなく、高貴であり矜持高きがゆえに平然として耐えるならば、かかる不幸のなかにおいてもうるわしさは輝き出るのである。 他方で、不幸のうちに「うるわしさ」が「輝き出る」ためには、何が必要なのでしょうか。 アリストテレスが観照という哲学的姿勢こそが〈よう生きていること〉への道だと主張している点に鑑みると、物事の意味を理解しようとする態度、とりわけ自らの苦難や不幸の意味を理解しようとする態度こそが、そうした「うるわしさの輝き出し」の鍵だと言えそうです。 この点を具体的に説明するために、冒頭で触れた福島さんの言葉を引きましょう。 (Yomiuri Online: 君たちにはまずは、福島さんの語る内容よりも(もちろん内容も大事ですが)、苦難あるいは不幸に向き合う姿勢に注目して欲しいと思います。 福島さんが左耳の聴力を失うことはまさしく「不幸」です。 とはいえ福島さんは、こうした不幸に打ちのめされたにために、その意味を理解しようとする。 そうした仕方で、不幸から目を逸らさず、むしろそれに対峙する。 ここには、否定しがたい悲痛さを伴いながらも、それでも「うるわしさ」が「輝き出る」、と呼べる事態が生じていると思います。 福島さんは、その後、大学進学を決意し、3年後、いわゆる盲ろう者として全国初の大学入学を果たしました。 アリストテレスが「観想的な生こそが幸福だ」と主張することの真意のひとつも以上のような観点で理解できる、と私は考えています。 じつに、人生においてはどうにもならない仕方で苦難が生じます。 私たちは多くの場合こうした苦難を避けることができません。 そして私たちは、苦難に「意味づけ」を行ない、前を向いて歩んでいくことができる。 このように事物の意味を問う態度は、ひとが不幸に打ちのめされることを防ぎ、〈よう生きること〉を可能にします。 こうした点は今後の講義でも深めていきたいと思います。

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