あつ森 田の字植え。 「日本の林業は100年古い」 森林ジャーナリスト・田中淳夫さんに聞く:朝日新聞GLOBE+

【あつ森】美術品の偽物と本物の見分け方|絵画・名画・彫刻一覧【あつまれどうぶつの森】

あつ森 田の字植え

World Now 2016. 15 奈良県川上村の山林=田玉恵美撮影 日本の林業や、人と森との関係は、どこへ向かうべきか。 奈良県生駒市を拠点に取材と発信を続ける森林ジャーナリストの田中淳夫さんに聞いた。 (聞き手・田玉恵美、左古将規) 人類史的に見れば、森は明らかに減少し、劣化しています。 地球上に原生林はほとんど残っていないと言っていいでしょう。 アマゾンやボルネオの森もほぼすべて人の手が入っています。 森の中に暮らす先住民が、自分たちにとって便利なように森を利用してきたのです。 人が手を入れることで森がすべて劣化するかというと、そうではありません。 日本の里山のように、草刈りや間伐をすることで、かえって生物の種類が増している場合があります。 人が手を入れた方が、むしろ森が豊かになるケースも多い。 でも、ここ100年、200年で、人間の手の入れ方が急速に激しくなった。 そのため森は劣化して減少しているのです。 「U字仮説」と呼ばれる仮説があります。 経済発展するときに木を利用するので、森はいったん減りますが、経済発展が一段落して、教育が行き届き、国情も安定すると、森の面積は回復する、というものです。 南米やアフリカでは今でも森が減り続けていますが、欧州や東アジア(日本・韓国・中国)ではむしろ増えています。 欧州は「石の文明」というイメージがありますが、もとはと言えば「木の文明」でした。 ゲルマン民族は「森の民」です。 経済発展したときに森は減りましたが、このまま伐採を続けると森がなくなってしまうという考えが生まれ、18世紀から19世紀にかけて「林学」が登場しました。 木の生長量とバランスをとって伐採量を決めて、切った後は植林するようになりました。 ドイツ・バイエルン州の森=田玉恵美撮影 今のドイツの林業はさらに一歩進んで、「近自然林業」「合自然林業」と言われています。 「自然に近い林業」「自然に合った林業」という意味です。 天然林と人工林を区別しない。 いろんな樹種が交ざった混交林を理想とします。 同じ樹種の森をつくって、一斉に全部切ることはせず、必要なときに必要な分だけを抜き切りします。 一つの樹種だけを植えた森の方が木材の生産量は多いかもしれませんが、嵐が来たら一斉に倒れたり、病害虫で一斉に枯れたりします。 自然に近い多様な森の方が、被害を最小限に食い止められて、結果的にプラスになるのです。 ドイツ人が今の日本の林業を見たら、「100年前のドイツだ」と言うでしょう。 日本は天然林と人工林を明確に区別して、人工林にはスギなどを全面的に植えています。 日本は明治維新の時代に欧州に留学した人たちがドイツから採り入れた林業を、いまだに引きずっているのです。 ドイツは平地が多いですが、隣のスイスでは日本よりもきつい急斜面で林業をして、成功しています。 「スイス・クオリティー」と呼んで木材に付加価値をつけ、高い値段で販売しているのです。 ドイツの人に趣味を尋ねたら、「森歩き」という答えが普通に返ってくると言います。 森を利用しながら森とともに生きてきた、という歴史的な背景があるのです。 日本でもアンケートで「森が好きか」と問えば、「森は好き」という答えが返ってくるかもしれません。 でも、実際はどうでしょう。 森に入ると虫に刺されるから嫌だ、という人も多いのではないでしょうか。 人は森と、もっと交わるべきだと思います。 森から収奪するのではなく、手つかずにするのでもなく、もっと柔らかく交わることで新しい関係を築けるはずだと思っています。 たなか・あつお 1959年生まれ。 静岡大学農学部林学科を卒業後、出版社や新聞社を経て、森林専門のジャーナリストに。 著書に『森は怪しいワンダーランド』(新泉社)、『森林異変』『森と日本人の1500年』(平凡社新書)、『樹木葬という選択』(築地書館)など。

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柳田国男 遠野物語

あつ森 田の字植え

この書を外国に在る人々に呈す [#改ページ] この話はすべて 遠野 ( とおの )の人佐々木鏡石君より聞きたり。 昨 ( さく )明治四十二年の二月ごろより始めて夜分おりおり 訪 ( たず )ね 来 ( き )たりこの話をせられしを筆記せしなり。 鏡石君は 話上手 ( はなしじょうず )にはあらざれども誠実なる人なり。 自分もまた一字一句をも 加減 ( かげん )せず感じたるままを書きたり。 思うに遠野 郷 ( ごう )にはこの類の物語なお数百件あるならん。 我々はより多くを聞かんことを切望す。 国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。 願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。 この書のごときは 陳勝呉広 ( ちんしょうごこう )のみ。 昨年八月の末自分は遠野郷に遊びたり。 花巻 ( はなまき )より十余里の路上には 町場 ( まちば )三ヶ所あり。 その他はただ青き山と原野なり。 人煙の 稀少 ( きしょう )なること北海道 石狩 ( いしかり )の平野よりも 甚 ( はなは )だし。 或いは新道なるが故に民居の来たり 就 ( つ )ける者少なきか。 遠野の城下はすなわち煙花の街なり。 馬を駅亭の主人に借りて 独 ( ひと )り郊外の村々を 巡 ( めぐ )りたり。 その馬は 黔 ( くろ )き海草をもって作りたる 厚総 ( あつぶさ )を 掛 ( か )けたり。 虻 ( あぶ )多きためなり。 猿 ( さる )ヶ 石 ( いし )の渓谷は土 肥 ( こ )えてよく 拓 ( ひら )けたり。 路傍に石塔の多きこと諸国その比を知らず。 高処より展望すれば 早稲 ( わせ )まさに熟し 晩稲 ( ばんとう )は 花盛 ( はなざか )りにて水はことごとく落ちて川にあり。 稲の 色合 ( いろあ )いは種類によりてさまざまなり。 三つ四つ五つの田を続けて稲の色の同じきはすなわち一家に属する田にしていわゆる 名処 ( みょうしょ )の同じきなるべし。 小字 ( こあざ )よりさらに小さき区域の地名は持主にあらざればこれを知らず。 古き売買譲与の証文には常に見ゆる所なり。 附馬牛 ( つくもうし )の谷へ越ゆれば 早池峯 ( はやちね )の山は淡く 霞 ( かす )み山の形は 菅笠 ( すげがさ )のごとくまた 片仮名 ( かたかな )のへの字に似たり。 この谷は稲熟することさらに遅く満目一色に青し。 細き田中の道を行けば名を知らぬ鳥ありて 雛 ( ひな )を 連 ( つ )れて横ぎりたり。 雛の色は黒に白き羽まじりたり。 始めは小さき鶏かと思いしが 溝 ( みぞ )の草に隠れて見えざればすなわち野鳥なることを知れり。 天神の山には祭ありて 獅子踊 ( ししおどり )あり。 ここにのみは軽く 塵 ( ちり )たち 紅 ( あか )き物いささかひらめきて一村の緑に映じたり。 獅子踊というは 鹿 ( しか )の 舞 ( まい )なり。 鹿の 角 ( つの )をつけたる面を 被 ( かぶ )り童子五六人剣を抜きてこれとともに舞うなり。 笛の調子高く歌は低くして 側 ( かたわら )にあれども聞きがたし。 日は傾きて風吹き酔いて人呼ぶ者の声も 淋 ( さび )しく女は笑い 児 ( こ )は走れどもなお旅愁をいかんともする 能 ( あた )わざりき。 盂蘭盆 ( うらぼん )に新しき仏ある家は紅白の旗を高く 揚 ( あ )げて 魂 ( たましい )を招く 風 ( ふう )あり。 峠 ( とうげ )の馬上において東西を指点するにこの旗十数所あり。 村人の永住の地を去らんとする者とかりそめに入りこみたる旅人とまたかの 悠々 ( ゆうゆう )たる霊山とを 黄昏 ( たぞがれ )は 徐 ( おもむろ )に来たりて包容し尽したり。 遠野郷には八ヶ所の観音堂あり。 一木をもって作りしなり。 この日 報賽 ( ほうさい )の徒多く岡の上に灯火見え 伏鉦 ( ふせがね )の音聞えたり。 道ちがえの 叢 ( くさむら )の中には 雨風祭 ( あめかぜまつり )の 藁人形 ( わらにんぎょう )あり。 あたかもくたびれたる人のごとく 仰臥 ( ぎょうが )してありたり。 以上は自分が遠野郷にてえたる印象なり。 思うにこの類の書物は少なくも現代の流行にあらず。 いかに印刷が容易なればとてこんな本を出版し自己の 狭隘 ( きょうあい )なる趣味をもって他人に 強 ( し )いんとするは 無作法 ( ぶさほう )の 仕業 ( しわざ )なりという人あらん。 されどあえて答う。 かかる話を聞きかかる 処 ( ところ )を見てきてのちこれを人に語りたがらざる者 果 ( はた )してありや。 そのような沈黙にしてかつ 慎 ( つつし )み深き人は少なくも自分の友人の中にはあることなし。 いわんやわが九百年前の 先輩 ( せんぱい )『今昔物語』のごときはその当時にありてすでに今は昔の話なりしに反しこれはこれ目前の出来事なり。 たとえ 敬虔 ( けいけん )の意と誠実の態度とにおいてはあえて彼を 凌 ( しの )ぐことを 得 ( う )という能わざらんも人の耳を 経 ( ふ )ること多からず人の口と筆とを 倩 ( やと )いたること甚だ 僅 ( わずか )なりし点においては彼の淡泊無邪気なる 大納言殿 ( だいなごんどの )かえって来たり聴くに値せり。 近代の 御伽百物語 ( おとぎひゃくものがたり )の徒に至りてはその 志 ( こころざし )やすでに 陋 ( ろう )かつ決してその談の 妄誕 ( もうたん )にあらざることを誓いえず。 窃 ( ひそか )にもってこれと隣を比するを恥とせり。 要するにこの書は現在の事実なり。 単にこれのみをもってするも立派なる存在理由ありと信ず。 ただ鏡石子は年わずかに二十四五自分もこれに十歳長ずるのみ。 今の事業多き時代に生まれながら問題の大小をも 弁 ( わきま )えず、その力を用いるところ 当 ( とう )を失えりという人あらば 如何 ( いかん )。 明神の山の 木兎 ( みみずく )のごとくあまりにその耳を 尖 ( とが )らしあまりにその眼を丸くし過ぎたりと 責 ( せ )むる人あらば如何。 はて是非もなし。 この責任のみは自分が負わねばならぬなり。 一一九 [#改丁] 遠野郷 ( とおのごう )は今の陸中 上閉伊 ( かみへい )郡の西の半分、山々にて取り 囲 ( かこ )まれたる平地なり。 新町村 ( しんちょうそん )にては、遠野、 土淵 ( つちぶち )、 附馬牛 ( つくもうし )、松崎、 青笹 ( あおざさ )、 上郷 ( かみごう )、 小友 ( おとも )、 綾織 ( あやおり )、 鱒沢 ( ますざわ )、 宮守 ( みやもり )、 達曾部 ( たっそべ )の一町十ヶ村に分かつ。 近代或いは西閉伊郡とも称し、中古にはまた 遠野保 ( とおのほ )とも呼べり。 今日郡役所のある遠野町はすなわち一郷の 町場 ( まちば )にして、 南部家 ( なんぶけ )一万石の城下なり。 城を 横田城 ( よこたじょう )ともいう。 この地へ行くには 花巻 ( はなまき )の停車場にて汽車を 下 ( お )り、 北上川 ( きたかみがわ )を渡り、その川の支流 猿 ( さる )ヶ 石川 ( いしがわ )の 渓 ( たに )を 伝 ( つた )いて、東の方へ入ること十三里、遠野の町に至る。 山奥には珍しき繁華の地なり。 伝えいう、遠野郷の地大昔はすべて一円の湖水なりしに、その水猿ヶ石川となりて人界に流れ出でしより、自然にかくのごとき 邑落 ( ゆうらく )をなせしなりと。 されば谷川のこの猿ヶ石に落合うもの 甚 ( はなは )だ多く、俗に 七内八崎 ( ななないやさき )ありと称す。 内 ( ない )は沢または谷のことにて、奥州の地名には多くあり。 遠野の町は南北の川の 落合 ( おちあい )にあり。 以前は 七七十里 ( しちしちじゅうり )とて、七つの渓谷おのおの七十里の奥より 売買 ( ばいばい )の貨物を 聚 ( あつ )め、その 市 ( いち )の日は馬千匹、人千人の 賑 ( にぎ )わしさなりき。 四方の山々の中に最も 秀 ( ひい )でたるを 早池峯 ( はやちね )という、北の方 附馬牛 ( つくもうし )の奥にあり。 東の方には 六角牛 ( ろっこうし )山立てり。 石神 ( いしがみ )という山は附馬牛と 達曾部 ( たっそべ )との間にありて、その高さ前の二つよりも 劣 ( おと )れり。 大昔に女神あり、三人の娘を 伴 ( とも )ないてこの高原に来たり、今の 来内 ( らいない )村の 伊豆権現 ( いずごんげん )の社あるところに 宿 ( やど )りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より 霊華 ( れいか ) 降 ( ふ )りて姉の 姫 ( ひめ )の胸の上に止りしを、末の姫 眼覚 ( めさ )めて 窃 ( ひそか )にこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。 若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもう 故 ( ゆえ )に、遠野の女どもはその 妬 ( ねたみ )を 畏 ( おそ )れて今もこの山には遊ばずといえり。 山々の奥には山人住めり。 栃内 ( とちない )村 和野 ( わの )の佐々木 嘉兵衛 ( かへえ )という人は今も七十余にて生存せり。 この 翁 ( おきな )若かりしころ猟をして山奥に入りしに、 遥 ( はる )かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を 梳 ( くしけず )りていたり。 顔の色きわめて白し。 不敵の男なれば 直 ( ただち )に 銃 ( つつ )を差し向けて打ち放せしに 弾 ( たま )に応じて倒れたり。 そこに 馳 ( か )けつけて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪はまたそのたけよりも長かりき。 のちの 験 ( しるし )にせばやと思いてその髪をいささか切り取り、これを 綰 ( わが )ねて 懐 ( ふところ )に入れ、やがて家路に向いしに、道の程にて 耐 ( た )えがたく睡眠を 催 ( もよお )しければ、しばらく 物蔭 ( ものかげ )に立寄りてまどろみたり。 その間 夢 ( ゆめ )と 現 ( うつつ )との境のようなる時に、これも 丈 ( たけ )の高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立ち去ると見ればたちまち 睡 ( ねむり )は覚めたり。 山男なるべしといえり。 山口村の吉兵衛という家の主人、 根子立 ( ねっこだち )という山に入り、 笹 ( ささ )を 苅 ( か )りて 束 ( たば )となし 担 ( かつ )ぎて立上らんとする時、笹原の上を風の吹き渡るに心づきて見れば、奥の方なる林の中より若き女の 穉児 ( おさなご )を 負 ( お )いたるが笹原の上を歩みて此方へ来るなり。 きわめてあでやかなる女にて、これも長き黒髪を垂れたり。 児を 結 ( ゆ )いつけたる 紐 ( ひも )は藤の 蔓 ( つる )にて、 着 ( き )たる衣類は世の常の 縞物 ( しまもの )なれど、 裾 ( すそ )のあたりぼろぼろに破れたるを、いろいろの木の葉などを添えて 綴 ( つづ )りたり。 足は地に 着 ( つ )くとも覚えず。 事もなげに此方に近より、男のすぐ前を通りて 何方 ( いずかた )へか行き過ぎたり。 この人はその折の 怖 ( おそ )ろしさより 煩 ( わずら )い 始 ( はじ )めて、久しく 病 ( や )みてありしが、近きころ 亡 ( う )せたり。 遠野郷より海岸の 田 ( た )ノ 浜 ( はま )、 吉利吉里 ( きりきり )などへ越ゆるには、昔より 笛吹峠 ( ふえふきとうげ )という 山路 ( やまみち )あり。 山口村より 六角牛 ( ろっこうし )の方へ入り路のりも近かりしかど、近年この峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に 出逢 ( であ )うより、誰もみな 怖 ( おそ )ろしがりて次第に往来も 稀 ( まれ )になりしかば、ついに別の路を 境木峠 ( さかいげとうげ )という方に開き、 和山 ( わやま )を 馬次場 ( うまつぎば )として今は此方ばかりを越ゆるようになれり。 二里以上の 迂路 ( うろ )なり。 遠野郷にては豪農のことを今でも長者という。 青笹村大字 糠前 ( ぬかのまえ )の長者の娘、ふと物に取り隠されて年久しくなりしに、同じ村の何某という 猟師 ( りょうし )、 或 ( あ )る日山に入りて一人の女に 遭 ( あ )う。 怖ろしくなりてこれを撃たんとせしに、何おじではないか、ぶつなという。 驚きてよく見れば 彼 ( か )の長者がまな娘なり。 何故 ( なにゆえ )にこんな 処 ( ところ )にはおるぞと問えば、或る物に取られて今はその妻となれり。 子もあまた 生 ( う )みたれど、すべて 夫 ( おっと )が食い 尽 ( つく )して一人此のごとくあり。 おのれはこの地に一生涯を送ることなるべし。 人にも言うな。 御身も危うければ 疾 ( と )く帰れというままに、その在所をも問い 明 ( あき )らめずして 遁 ( に )げ 還 ( かえ )れりという。 遠野郷にも糠森・糠塚多くあり。 上郷村の民家の娘、 栗 ( くり )を拾いに山に入りたるまま帰り 来 ( き )たらず。 家の者は死したるならんと思い、女のしたる 枕 ( まくら )を 形代 ( かたしろ )として葬式を 執行 ( とりおこな )い、さて二三年を過ぎたり。 しかるにその村の者猟をして 五葉山 ( ごようざん )の腰のあたりに入りしに、大なる岩の 蔽 ( おお )いかかりて岩窟のようになれるところにて、 図 ( はか )らずこの女に逢いたり。 互いに打ち驚き、いかにしてかかる山にはおるかと問えば、女の 曰 ( いわ )く、山に入りて恐ろしき人にさらわれ、こんなところに来たるなり。 遁 ( に )げて帰らんと思えど 些 ( いささか )の 隙 ( すき )もなしとのことなり。 その人はいかなる人かと問うに、自分には 並 ( なみ )の人間と見ゆれど、ただ 丈 ( たけ )きわめて高く眼の色少し 凄 ( すご )しと思わる。 子供も幾人か生みたれど、我に似ざれば我子にはあらずといいて 食 ( くら )うにや殺すにや、みないずれへか持ち去りてしまうなりという。 まことに我々と同じ人間かと押し返して問えば、衣類なども世の常なれど、ただ眼の色少しちがえり。 一市間 ( ひといちあい )に一度か二度、同じようなる人四五人集まりきて、何事か話をなし、やがて 何方 ( どちら )へか出て行くなり。 食物など外より持ち来たるを見れば町へも出ることならん。 かく言ううちにも今にそこへ帰って来るかも知れずという故、猟師も怖ろしくなりて帰りたりといえり。 二十年ばかりも以前のことかと思わる。 月六度の市なれば一市間はすなわち五日のことなり。 黄昏 ( たそがれ )に女や子供の家の外に出ている者はよく 神隠 ( かみかく )しにあうことは 他 ( よそ )の国々と同じ。 松崎村の 寒戸 ( さむと )というところの民家にて、若き娘 梨 ( なし )の 樹 ( き )の下に 草履 ( ぞうり )を 脱 ( ぬ )ぎ置きたるまま 行方 ( ゆくえ )を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或る日親類知音の人々その家に 集 ( あつ )まりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。 いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりし故帰りしなり。 さらばまた行かんとて、再び 跡 ( あと )を 留 ( とど )めず行き 失 ( う )せたり。 その日は風の 烈 ( はげ )しく吹く日なりき。 されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの 婆 ( ばば )が帰って来そうな日なりという。 菊池 弥之助 ( やのすけ )という老人は若きころ 駄賃 ( だちん )を業とせり。 笛の名人にて 夜通 ( よどお )しに馬を追いて行く時などは、よく笛を吹きながら行きたり。 ある 薄月夜 ( うすづきよ )に、あまたの仲間の者とともに浜へ越ゆる境木峠を行くとて、また笛を取り出して吹きすさみつつ、 大谷地 ( おおやち )というところの上を過ぎたり。 大谷地は深き谷にて 白樺 ( しらかんば )の林しげく、その下は 葦 ( あし )など生じ 湿 ( しめ )りたる沢なり。 この時谷の底より何者か高き声にて面白いぞーと 呼 ( よ )ばわる者あり。 一同ことごとく色を失い遁げ走りたりといえり。 また ヤツとも ヤトとも ヤともいう。 この男ある奥山に入り、 茸 ( きのこ )を採るとて小屋を 掛 ( か )け 宿 ( とま )りてありしに、深夜に遠きところにてきゃーという女の叫び声聞え胸を 轟 ( とどろ )かしたることあり。 里へ帰りて見れば、その同じ夜、時も同じ刻限に、自分の妹なる女その 息子 ( むすこ )のために殺されてありき。 この女というは母一人子一人の家なりしに、 嫁 ( よめ )と 姑 ( しゅうと )との仲 悪 ( あ )しくなり、嫁はしばしば親里へ行きて帰り来ざることあり。 その日は嫁は家にありて打ち 臥 ( ふ )しておりしに、昼のころになり突然と 倅 ( せがれ )のいうには、ガガはとても 生 ( い )かしては置かれぬ、 今日 ( きょう )はきっと殺すべしとて、大なる 草苅鎌 ( くさかりがま )を取り出し、ごしごしと 磨 ( と )ぎ始めたり。 そのありさまさらに 戯言 ( たわむれごと )とも見えざれば、母はさまざまに事を 分 ( わ )けて 詫 ( わ )びたれども少しも聴かず。 嫁も起き 出 ( い )でて泣きながら 諫 ( いさ )めたれど、 露 ( つゆ ) 従 ( したが )う色もなく、やがて母が 遁 ( のが )れ出でんとする 様子 ( ようす )あるを見て、前後の戸口をことごとく 鎖 ( とざ )したり。 便用に行きたしといえば、おのれみずから外より便器を持ち来たりてこれへせよという。 夕方にもなりしかば母もついにあきらめて、大なる 囲炉裡 ( いろり )の 側 ( かたわら )にうずくまりただ泣きていたり。 倅 ( せがれ )はよくよく 磨 ( と )ぎたる大鎌を手にして近より来たり、まず左の肩口を目がけて 薙 ( な )ぐようにすれば、鎌の 刃先 ( はさき ) 炉 ( ろ )の 上 ( うえ )の 火棚 ( ひだな )に 引 ( ひ )っかかりてよく 斬 ( き )れず。 その時に母は深山の奥にて弥之助が聞きつけしようなる叫び声を立てたり。 二度目には右の肩より 切 ( き )り 下 ( さ )げたるが、これにてもなお 死絶 ( しにた )えずしてあるところへ、 里人 ( さとびと )ら驚きて 馳 ( は )せつけ倅を 取 ( と )り 抑 ( おさ )え直に警察官を 呼 ( よ )びて 渡 ( わた )したり。 警官がまだ棒を持ちてある時代のことなり。 母親は男が 捕 ( とら )えられ引き立てられて行くを見て、滝のように血の流るる中より、おのれは 恨 ( うらみ )も 抱 ( いだ )かずに死ぬるなれば、孫四郎は 宥 ( ゆる )したまわれという。 これを聞きて心を 動 ( うご )かさぬ者はなかりき。 孫四郎は途中にてもその鎌を振り上げて巡査を追い廻しなどせしが、狂人なりとて放免せられて家に帰り、今も生きて里にあり。 土淵村山口に 新田乙蔵 ( にったおとぞう )という老人あり。 村の人は 乙爺 ( おとじい )という。 今は九十に近く 病 ( や )みてまさに 死 ( し )なんとす。 年頃 ( としごろ )遠野郷の昔の話をよく知りて、誰かに話して聞かせ置きたしと 口癖 ( くちぐせ )のようにいえど、あまり 臭 ( くさ )ければ立ち寄りて聞かんとする人なし。 処々 ( ところどころ )の 館 ( たて )の 主 ( ぬし )の伝記、 家々 ( いえいえ )の盛衰、昔よりこの 郷 ( ごう )に 行 ( おこな )われし歌の数々を始めとして、深山の伝説またはその奥に住める人々の物語など、この老人最もよく知れり。 この老人は数十年の間山の中に 独 ( ひと )りにて住みし人なり。 よき 家柄 ( いえがら )なれど、若きころ財産を傾け失いてより、世の中に思いを 絶 ( た )ち、峠の上に 小屋 ( こや )を掛け、 甘酒 ( あまざけ )を 往来 ( おうらい )の人に売りて活計とす。 駄賃 ( だちん )の 徒 ( と )はこの翁を 父親 ( ちちおや )のように思いて、 親 ( した )しみたり。 少しく収入の 余 ( あまり )あれば、町に 下 ( くだ )りきて酒を飲む。 赤毛布 ( あかゲット )にて作りたる 半纏 ( はんてん )を着て、赤き 頭巾 ( ずきん )を 被 ( かぶ )り、酔えば、町の中を 躍 ( おど )りて帰るに巡査もとがめず。 いよいよ老衰して後、 旧里 ( きゅうり )に帰りあわれなる 暮 ( くら )しをなせり。 子供はすべて北海道へ行き、翁ただ一人なり。 部落 ( ぶらく )には必ず一戸の旧家ありて、オクナイサマという神を 祀 ( まつ )る。 その家をば 大同 ( だいどう )という。 この神の 像 ( ぞう )は 桑 ( くわ )の木を 削 ( けず )りて 顔 ( かお )を 描 ( えが )き、四角なる 布 ( ぬの )の 真中 ( まんなか )に穴を 明 ( あ )け、これを 上 ( うえ )より 通 ( とお )して 衣裳 ( いしょう )とす。 正月の十五日には 小字中 ( こあざじゅう )の人々この家に集まり 来 ( き )たりてこれを祭る。 またオシラサマという神あり。 この神の像もまた同じようにして造り 設 ( もう )け、これも正月の十五日に 里人 ( さとびと )集まりてこれを祭る。 その式には 白粉 ( おしろい )を神像の顔に塗ることあり。 大同の家には必ず 畳 ( たたみ ) 一帖 ( いちじょう )の 室 ( しつ )あり。 この 部屋 ( へや )にて 夜 ( よる ) 寝 ( ね )る者はいつも不思議に 遭 ( あ )う。 枕 ( まくら )を 反 ( かえ )すなどは常のことなり。 或いは誰かに 抱 ( だ )き 起 ( お )こされ、または室より 突 ( つ )き 出 ( いだ )さるることもあり。 およそ静かに眠ることを許さぬなり。 これと似たる例なり。 オクナイサマを祭れば 幸 ( さいわい )多し。 土淵村大字 柏崎 ( かしわざき )の長者阿部氏、村にては 田圃 ( たんぼ )の 家 ( うち )という。 この家にて或る年 田植 ( たうえ )の 人手 ( ひとで ) 足 ( た )らず、 明日 ( あす )は 空 ( そら )も 怪 ( あや )しきに、わずかばかりの田を植え残すことかなどつぶやきてありしに、ふと 何方 ( いずち )よりともなく 丈 ( たけ ) 低 ( ひく )き 小僧 ( こぞう )一人来たりて、おのれも手伝い申さんというに 任 ( まか )せて 働 ( はたら )かせて置きしに、 午飯時 ( ひるめしどき )に 飯 ( めし )を食わせんとて 尋 ( たず )ねたれど見えず。 やがて再び帰りきて終日、 代 ( しろ )を 掻 ( か )きよく 働 ( はたら )きてくれしかば、その日に植えはてたり。 どこの人かは知らぬが、晩にはきて物を 食 ( く )いたまえと 誘 ( さそ )いしが、日暮れてまたその 影 ( かげ )見えず。 家に帰りて見れば、 縁側 ( えんがわ )に小さき 泥 ( どろ )の 足跡 ( あしあと )あまたありて、だんだんに座敷に入り、オクナイサマの 神棚 ( かみだな )のところに 止 ( とどま )りてありしかば、さてはと思いてその 扉 ( とびら )を開き見れば、神像の腰より下は田の 泥 ( どろ )にまみれていませし 由 ( よし )。 コンセサマを祭れる家も少なからず。 この神の神体はオコマサマとよく似たり。 オコマサマの社は里に多くあり。 石または木にて男の物を作りて 捧 ( ささ )ぐるなり。 今はおいおいとその事少なくなれり。 旧家 ( きゅうか )にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。 この神は多くは十二三ばかりの童児なり。 おりおり人に姿を見することあり。 土淵村大字 飯豊 ( いいで )の 今淵 ( いまぶち )勘十郎という人の家にては、近きころ高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、或る日 廊下 ( ろうか )にてはたとザシキワラシに行き 逢 ( あ )い大いに驚きしことあり。 これは 正 ( まさ )しく男の 児 ( こ )なりき。 同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり 縫物 ( ぬいもの )しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。 この室は家の主人の 部屋 ( へや )にて、その時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。 しばらくの 間 ( あいだ ) 坐 ( すわ )りて居ればやがてまた 頻 ( しきり )に鼻を 鳴 ( な )らす音あり。 さては 座敷 ( ざしき )ワラシなりけりと思えり。 この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの 沙汰 ( さた )なりき。 この神の 宿 ( やど )りたもう家は富貴自在なりということなり。 この神のこと『 石神 ( いしがみ )問答』中にも記事あり。 ザシキワラシまた女の児なることあり。 同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門という家には、童女の神二人いませりということを久しく言い伝えたりしが、或る年同じ村の何某という男、町より帰るとて 留場 ( とめば )の橋のほとりにて 見馴 ( みな )れざる二人のよき娘に逢えり。 物思わしき様子にて此方へ 来 ( き )たる。 お前たちはどこから来たと問えば、おら山口の孫左衛門がところからきたと答う。 これから何処へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答う。 その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり。 さては孫左衛門が世も末だなと思いしが、それより久しからずして、この家の主従二十幾人、 茸 ( きのこ )の毒に 中 ( あた )りて一日のうちに死に 絶 ( た )え、七歳の女の子一人を残せしが、その女もまた年老いて子なく、近きころ 病 ( や )みて失せたり。 孫左衛門が家にては、或る日 梨 ( なし )の木のめぐりに 見馴 ( みな )れぬ 茸 ( きのこ )のあまた 生 ( は )えたるを、食わんか食うまじきかと男どもの評議してあるを聞きて、最後の代の孫左衛門、食わぬがよしと制したれども、下男の一人がいうには、いかなる茸にても 水桶 ( みずおけ )の中に入れて 苧殻 ( おがら )をもってよくかき 廻 ( まわ )してのち食えば決して 中 ( あた )ることなしとて、一同この言に従い家内ことごとくこれを食いたり。 七歳の女の 児 ( こ )はその日外に 出 ( い )でて遊びに気を取られ、昼飯を食いに帰ることを忘れしために助かりたり。 不意の主人の死去にて人々の動転してある間に、遠き近き親類の人々、或いは生前に 貸 ( かし )ありといい、或いは約束ありと称して、家の貨財は 味噌 ( みそ )の 類 ( たぐい )までも取り去りしかば、この村 草分 ( くさわけ )の長者なりしかども、一朝にして 跡方 ( あとかた )もなくなりたり。 この兇変の前にはいろいろの前兆ありき。 男ども 苅置 ( かりお )きたる 秣 ( まぐさ )を出すとて三ツ歯の 鍬 ( くわ )にて 掻 ( か )きまわせしに、大なる 蛇 ( へび )を 見出 ( みいだ )したり。 これも殺すなと主人が制せしをも聴かずして打ち殺したりしに、その跡より秣の下にいくらともなき蛇ありて、うごめき出でたるを、男ども面白半分にことごとくこれを殺したり。 さて取り捨つべきところもなければ、屋敷の 外 ( そと )に穴を掘りてこれを 埋 ( う )め、蛇塚を作る。 その蛇は 簣 ( あじか )に 何荷 ( なんが )ともなくありたりといえり。 右の孫左衛門は村には珍しき学者にて、常に京都より和漢の書を取り寄せて読み 耽 ( ふけ )りたり。 少し変人という方なりき。 狐 ( きつね )と親しくなりて家を富ます術を得んと思い立ち、まず庭の中に 稲荷 ( いなり )の 祠 ( ほこら )を 建 ( た )て、自身京に 上 ( のぼ )りて正一位の神階を 請 ( う )けて帰り、それよりは日々一枚の 油揚 ( あぶらげ )を欠かすことなく、手ずから社頭に 供 ( そな )えて拝をなせしに、のちには狐 馴 ( な )れて近づけども 遁 ( に )げず。 手を延ばしてその首を 抑 ( おさ )えなどしたりという。 村にありし薬師の 堂守 ( どうもり )は、わが仏様は何ものをも 供 ( そな )えざれども、孫左衛門の神様よりは 御利益 ( ごりやく )ありと、たびたび笑いごとにしたりとなり。 佐々木氏の 曾祖母 ( そうそぼ )年よりて死去せし時、 棺 ( かん )に取り 納 ( おさ )め親族の者集まりきてその夜は一同座敷にて寝たり。 死者の娘にて乱心のため離縁せられたる婦人もまたその中にありき。 喪 ( も )の間は火の 気 ( け )を 絶 ( た )やすことを 忌 ( い )むがところの 風 ( ふう )なれば、祖母と母との二人のみは、大なる 囲炉裡 ( いろり )の 両側 ( りょうがわ )に 坐 ( すわ )り、 母人 ( ははびと )は 旁 ( かたわら )に 炭籠 ( すみかご )を置き、おりおり炭を 継 ( つ )ぎてありしに、ふと裏口の方より足音してくる者あるを見れば、 亡 ( な )くなりし老女なり。 平生 ( へいぜい )腰かがみて 衣物 ( きもの )の 裾 ( すそ )の引きずるを、三角に取り上げて前に縫いつけてありしが、まざまざとその通りにて、 縞目 ( しまめ )にも 見覚 ( みおぼ )えあり。 あなやと思う間もなく、二人の女の坐れる炉の脇を通り行くとて、裾にて 炭取 ( すみとり )にさわりしに、丸き炭取なればくるくるとまわりたり。 母人は 気丈 ( きじょう )の人なれば振り返りあとを見送りたれば、親縁の人々の打ち 臥 ( ふ )したる座敷の方へ近より行くと思うほどに、かの狂女のけたたましき声にて、おばあさんが来たと叫びたり。 その余の人々はこの声に 睡 ( ねむり )を 覚 ( さま )しただ打ち驚くばかりなりしといえり。 同じ人の二七日の 逮夜 ( たいや )に、知音の者集まりて、夜 更 ( ふ )くるまで念仏を 唱 ( とな )え立ち帰らんとする時、 門口 ( かどぐち )の石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。 そのうしろ 付 ( つき )正しく 亡 ( な )くなりし人の通りなりき。 これは 数多 ( あまた )の人見たる 故 ( ゆえ )に誰も疑わず。 いかなる 執着 ( しゅうじゃく )のありしにや、ついに知る人はなかりしなり。 村々の旧家を 大同 ( だいどう )というは、大同元年に 甲斐国 ( かいのくに )より移り来たる家なればかくいうとのことなり。 大同は田村将軍征討の時代なり。 甲斐は南部家の本国なり。 二つの伝説を混じたるに 非 ( あら )ざるか。 『 常陸国志 ( ひたちのこくし )』に例あり、 ホラマエという語のちに見ゆ。 大同の祖先たちが、始めてこの地方に到着せしは、あたかも 歳 ( とし )の 暮 ( くれ )にて、春のいそぎの 門松 ( かどまつ )を、まだ 片方 ( かたほう )はえ立てぬうちに 早 ( はや )元日になりたればとて、今もこの家々にては吉例として門松の片方を地に伏せたるままにて、 標縄 ( しめなわ )を引き渡すとのことなり。 柏崎の 田圃 ( たんぼ )のうちと称する阿倍氏はことに聞えたる旧家なり。 この家の先代に彫刻に 巧 ( たくみ )なる人ありて、遠野一郷の神仏の像にはこの人の作りたる者多し。 早池峯 ( はやちね )より出でて東北の方 宮古 ( みやこ )の海に流れ入る川を 閉伊川 ( へいがわ )という。 その流域はすなわち下閉伊郡なり。 遠野の町の中にて今は 池 ( いけ )の 端 ( はた )という家の先代の主人、宮古に行きての帰るさ、この川の 原台 ( はらだい )の 淵 ( ふち )というあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を 托 ( たく )す。 遠野の町の後なる物見山の中腹にある沼に行きて、手を 叩 ( たた )けば 宛名 ( あてな )の人いで 来 ( く )べしとなり。 この人 請 ( う )け合いはしたれども 路々 ( みちみち )心に掛りてとつおいつせしに、一人の 六部 ( ろくぶ )に行き 逢 ( あ )えり。 この手紙を開きよみて 曰 ( いわ )く、これを持ち行かば 汝 ( なんじ )の身に大なる 災 ( わざわい )あるべし。 書き 換 ( か )えて取らすべしとて更に別の手紙を与えたり。 これを持ちて沼に行き教えのごとく手を叩きしに、果して若き女いでて手紙を受け取り、その礼なりとてきわめて小さき 石臼 ( いしうす )をくれたり。 米を一粒入れて 回 ( まわ )せば下より黄金 出 ( い )づ。 この 宝物 ( たからもの )の力にてその家やや富有になりしに、妻なる者慾深くして、一度にたくさんの米をつかみ入れしかば、石臼はしきりに自ら回りて、ついには朝ごとに主人がこの石臼に供えたりし水の、小さき 窪 ( くぼ )みの中に 溜 ( たま )りてありし中へ 滑 ( すべ )り入りて見えずなりたり。 その水溜りはのちに小さき池になりて、今も家の 旁 ( かたわら )にあり。 家の名を池の端というもその 為 ( ため )なりという。 始めて早池峯に 山路 ( やまみち )をつけたるは、附馬牛村の何某という猟師にて、時は遠野の南部家 入部 ( にゅうぶ )の後のことなり。 その頃までは土地の者一人としてこの山には入りたる者なかりしと。 この猟師半分ばかり道を開きて、山の半腹に 仮小屋 ( かりごや )を作りておりしころ、 或 ( あ )る日 炉 ( ろ )の上に 餅 ( もち )をならべ焼きながら食いおりしに、小屋の外を通る者ありて 頻 ( しきり )に中を 窺 ( うかが )うさまなり。 よく見れば大なる坊主なり。 やがて小屋の中に入り来たり、さも珍しげに餅の焼くるを見てありしが、ついにこらえ 兼 ( か )ねて手をさし延べて取りて食う。 猟師も恐ろしければ自らもまた取りて与えしに、 嬉 ( うれ )しげになお食いたり。 餅 皆 ( みな )になりたれば帰りぬ。 次の日もまた来るならんと思い、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじえて炉の上に載せ置きしに、焼けて火のようになれり。 案のごとくその坊主きょうもきて、餅を取りて食うこと昨日のごとし。 餅 尽 ( つ )きてのちその白石をも同じように口に入れたりしが、大いに驚きて小屋を飛び出し姿見えずなれり。 のちに谷底にてこの坊主の死してあるを見たりといえり。 この話によく似たり。 鶏頭山 ( けいとうざん )は早池峯の前面に立てる 峻峯 ( しゅんぽう )なり。 麓 ( ふもと )の里にてはまた 前薬師 ( まえやくし )ともいう。 天狗 ( てんぐ )住めりとて、早池峯に登る者も決してこの山は 掛 ( か )けず。 山口のハネトという家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友なり。 きわめて無法者にて、 鉞 ( まさかり )にて草を 苅 ( か )り 鎌 ( かま )にて土を掘るなど、若き時は乱暴の 振舞 ( ふるまい )のみ多かりし人なり。 或る時人と 賭 ( かけ )をして一人にて前薬師に登りたり。 帰りての物語に曰く、頂上に大なる岩あり、その岩の上に大男三人いたり。 前にあまたの金銀をひろげたり。 この男の近よるを見て、 気色 ( けしき )ばみて振り返る、その眼の光きわめて恐ろし。 早池峯に登りたるが 途 ( みち )に迷いて来たるなりと言えば、 然 ( しか )らば送りて 遣 ( や )るべしとて 先 ( さき )に立ち、 麓 ( ふもと )近きところまで来たり、眼を 塞 ( ふさ )げと言うままに、暫時そこに立ちている間に、たちまち異人は見えずなりたりという。 小国 ( おぐに )村の何某という男、或る日早池峯に竹を 伐 ( き )りに行きしに、 地竹 ( じだけ )のおびただしく茂りたる中に、大なる男一人寝ていたるを見たり。 地竹にて編みたる三尺ばかりの 草履 ( ぞうり )を 脱 ( ぬ )ぎてあり。 仰 ( あお )に 臥 ( ふ )して大なる 鼾 ( いびき )をかきてありき。 遠野郷の民家の子女にして、異人にさらわれて行く者年々多くあり。 ことに女に多しとなり。 千晩 ( せんば )ヶ 岳 ( だけ )は山中に 沼 ( ぬま )あり。 この谷は物すごく 腥 ( なまぐさ )き 臭 ( か )のするところにて、この山に入り帰りたる者はまことに 少 ( すく )なし。 昔何の 隼人 ( はやと )という猟師あり。 その子孫今もあり。 白き鹿を見てこれを追いこの谷に千晩こもりたれば山の名とす。 その白鹿撃たれて遁げ、次の山まで行きて 片肢 ( かたあし )折れたり。 その山を今 片羽山 ( かたはやま )という。 さてまた前なる山へきてついに死したり。 その地を 死助 ( しすけ )という。 死助権現 ( しすけごんげん )とて 祀 ( まつ )れるはこの白鹿なりという。 白望 ( しろみ )の山に行きて 泊 ( とま )れば、深夜にあたりの 薄明 ( うすあか )るくなることあり。 秋のころ 茸 ( きのこ )を採りに行き山中に宿する者、よくこの事に逢う。 また谷のあなたにて大木を 伐 ( き )り倒す音、歌の声など 聞 ( きこ )ゆることあり。 この山の大さは 測 ( はか )るべからず。 五月に 萱 ( かや )を苅りに行くとき、遠く望めば 桐 ( きり )の花の咲き 満 ( み )ちたる山あり。 あたかも 紫 ( むらさき )の雲のたなびけるがごとし。 されどもついにそのあたりに近づくこと 能 ( あた )わず。 かつて茸を採りに入りし者あり。 白望の山奥にて金の 樋 ( とい )と金の 杓 ( しゃく )とを見たり。 持ち帰らんとするにきわめて重く、 鎌 ( かま )にて 片端 ( かたはし )を 削 ( けず )り取らんとしたれどそれもかなわず。 また 来 ( こ )んと思いて樹の皮を白くし 栞 ( しおり )としたりしが、次の日人々とともに行きてこれを求めたれど、ついにその木のありかをも見出しえずしてやみたり。 白望の山続きに 離森 ( はなれもり )というところあり。 その 小字 ( こあざ )に長者屋敷というは、全く無人の境なり。 ここに行きて炭を焼く者ありき。 或る夜その小屋の 垂菰 ( たれごも )をかかげて、内を 窺 ( うかが )う者を見たり。 髪を長く二つに分けて 垂 ( た )れたる女なり。 このあたりにても深夜に女の叫び声を聞くことは珍しからず。 佐々木氏の祖父の弟、白望に茸を採りに行きて 宿 ( やど )りし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を横ぎりて、女の走り行くを見たり。 中空を走るように思われたり。 待てちゃアと二声ばかり 呼 ( よ )ばわりたるを聞けりとぞ。 猿の 経立 ( ふったち )、 御犬 ( おいぬ )の経立は恐ろしきものなり。 御犬 ( おいぬ )とは 狼 ( おおかみ )のことなり。 山口の村に近き 二 ( ふた )ツ 石山 ( いしやま )は岩山なり。 ある雨の日、小学校より帰る子どもこの山を見るに、 処々 ( ところどころ )の岩の上に御犬うずくまりてあり。 やがて首を 下 ( した )より 押 ( お )しあぐるようにしてかわるがわる 吠 ( ほ )えたり。 正面より見れば 生 ( う )まれ 立 ( た )ての馬の子ほどに見ゆ。 後 ( うしろ )から見れば 存外 ( ぞんがい )小さしといえり。 御犬のうなる声ほど 物凄 ( ものすご )く恐ろしきものはなし。 境木峠 ( さかいげとうげ )と 和山峠 ( わやまとうげ )との間にて、昔は 駄賃馬 ( だちんば )を 追 ( お )う者、しばしば狼に逢いたりき。 馬方 ( うまかた )らは夜行には、たいてい十人ばかりも 群 ( むれ )をなし、その一人が 牽 ( ひ )く馬は 一端綱 ( ひとはづな )とてたいてい五六七 匹 ( ぴき )までなれば、常に四五十匹の馬の数なり。 ある時二三百ばかりの狼追い来たり、その足音山もどよむばかりなれば、あまりの恐ろしさに馬も人も一所に集まりて、そのめぐりに火を焼きてこれを防ぎたり。 されどなおその火を躍り越えて入り来るにより、ついには馬の 綱 ( つな )を 解 ( と )きこれを 張 ( は )り 回 ( めぐ )らせしに、 穽 ( おとしあな )などなりとや思いけん、それよりのちは中に飛び入らず。 遠くより 取 ( と )り 囲 ( かこ )みて夜の 明 ( あけ )るまで吠えてありきとぞ。 小友 ( おとも )村の旧家の主人にて今も生存せる 某爺 ( なにがしじい )という人、町より帰りに 頻 ( しきり )に御犬の 吠 ( ほ )ゆるを聞きて、酒に酔いたればおのれもまたその声をまねたりしに、狼も吠えながら 跡 ( あと )より来るようなり。 恐ろしくなりて急ぎ家に帰り入り、門の戸を 堅 ( かた )く 鎖 ( とざ )して 打 ( う )ち 潜 ( ひそ )みたれども、夜通し狼の家をめぐりて吠ゆる声やまず。 夜明 ( よあ )けて見れば、馬屋の 土台 ( どだい )の下を掘り 穿 ( うが )ちて中に入り、馬の七頭ありしをことごとく食い殺していたり。 この家はそのころより産やや傾きたりとのことなり。 佐々木君幼きころ、祖父と二人にて山より帰りしに、村に近き谷川の岸の上に、大なる鹿の倒れてあるを見たり。 横腹は破れ、殺されて 間 ( ま )もなきにや、そこよりはまだ 湯気 ( ゆげ )立てり。 祖父の曰く、これは狼が食いたるなり。 この皮ほしけれども御犬は必ずどこかこの近所に隠れて見ておるに相違なければ、取ることができぬといえり。 草の長さ三寸あれば狼は身を隠すといえり。 草木 ( そうもく )の色の移り行くにつれて、狼の毛の色も 季節 ( きせつ )ごとに変りて行くものなり。 和野の佐々木嘉兵衛、或る年 境木越 ( さかいげごえ )の 大谷地 ( おおやち )へ狩にゆきたり。 死助 ( しすけ )の方より走れる原なり。 秋の暮のことにて木の葉は散り尽し山もあらわなり。 向 ( むこ )うの峯より何百とも知れぬ狼此方へ 群 ( む )れて走りくるを見て恐ろしさに堪えず、樹の 梢 ( こずえ )に 上 ( のぼ )りてありしに、その樹の下を 夥 ( おびただ )しき足音して走り過ぎ北の方へ行けり。 そのころより遠野郷には狼甚だ少なくなれりとのことなり。 六角牛 ( ろっこうし )山の 麓 ( ふもと )にオバヤ、板小屋などいうところあり。 広き 萱山 ( かややま )なり。 村々より 苅 ( か )りに行く。 ある年の秋 飯豊村 ( いいでむら )の者ども萱を苅るとて、岩穴の中より狼の子三匹を見出し、その二つを殺し一つを持ち帰りしに、その日より狼の 飯豊衆 ( いいでし )の馬を 襲 ( おそ )うことやまず。 外 ( ほか )の村々の人馬にはいささかも害をなさず。 飯豊衆相談して狼狩をなす。 その中には 相撲 ( すもう )を取り 平生 ( へいぜい ) 力自慢 ( ちからじまん )の者あり。 さて野に 出 ( い )でて見るに、 雄 ( おす )の狼は遠くにおりて 来 ( き )たらず。 雌 ( めす )狼一つ鉄という男に飛びかかりたるを、ワッポロを脱ぎて 腕 ( うで )に巻き、やにわにその狼の口の中に突き込みしに、狼これを 噛 ( か )む。 なお強く突き入れながら人を 喚 ( よ )ぶに、誰も誰も 怖 ( おそ )れて近よらず。 その間に鉄の腕は狼の腹まで 入 ( はい )り、狼は苦しまぎれに鉄の腕骨を 噛 ( か )み 砕 ( くだ )きたり。 狼はその場にて死したれども、鉄も 担 ( かつ )がれて帰り 程 ( ほど )なく死したり。 一昨年の『遠野新聞』にもこの記事を載せたり。 上郷 ( かみごう )村の熊という男、友人とともに雪の日に六角牛に狩に行き谷深く入りしに、熊の足跡を見出でたれば、 手分 ( てわけ )してその跡を ( もと )め、自分は峯の方を行きしに、とある岩の 陰 ( かげ )より大なる熊此方を見る。 矢頃 ( やごろ )あまりに近かりしかば、銃をすてて熊に 抱 ( かか )えつき雪の上を 転 ( ころ )びて、谷へ下る。 連 ( つれ )の男これを救わんと思えども力及ばず。 やがて谷川に落ち入りて、人の熊 下 ( した )になり水に沈みたりしかば、その 隙 ( ひま )に獣の熊を打ち取りぬ。 水にも 溺 ( おぼ )れず、 爪 ( つめ )の傷は数ヶ所受けたれども命に 障 ( さわ )ることはなかりき。 六角牛の峯続きにて、 橋野 ( はしの )という村の上なる山に 金坑 ( きんこう )あり。 この鉱山のために炭を焼きて生計とする者、これも笛の 上手 ( じょうず )にて、ある日 昼 ( ひる )の 間 ( あいだ ) 小屋 ( こや )におり、 仰向 ( あおむき )に 寝転 ( ねころ )びて笛を吹きてありしに、小屋の口なる 垂菰 ( たれごも )をかかぐる者あり。 驚きて見れば猿の 経立 ( ふったち )なり。 恐ろしくて起き直りたれば、おもむろに 彼方 ( かなた )へ走り行きぬ。 猿の 経立 ( ふったち )はよく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し。 松脂 ( まつやに )を毛に 塗 ( ぬ )り砂をその上につけておる故、 毛皮 ( けがわ )は 鎧 ( よろい )のごとく鉄砲の 弾 ( たま )も 通 ( とお )らず。 栃内村の 林崎 ( はやしざき )に住む何某という男、今は五十に近し。 十年あまり前のことなり。 六角牛山に鹿を撃ちに行き、オキを吹きたりしに、猿の経立あり、これを 真 ( まこと )の鹿なりと思いしか、 地竹 ( じだけ )を手にて 分 ( わ )けながら、大なる口をあけ嶺の方より 下 ( くだ )り来たれり。 胆潰 ( きもつぶ )れて笛を吹きやめたれば、やがて 反 ( そ )れて谷の方へ走り行きたり。 この地方にて子供をおどす 言葉 ( ことば )に、六角牛の猿の経立が来るぞということ常の事なり。 この山には猿多し。 緒 ( おがせ )の 滝 ( たき )を見に行けば、 崖 ( がけ )の樹の 梢 ( こずえ )にあまたおり、人を見れば 遁 ( に )げながら木の 実 ( み )などを 擲 ( なげう )ちて行くなり。 仙人峠 ( せんにんとうげ )にもあまた猿おりて行人に 戯 ( たわむ )れ石を打ちつけなどす。 仙人峠は登り十五里 降 ( くだ )り十五里あり。 その中ほどに仙人の像を祀りたる堂あり。 この堂の 壁 ( かべ )には旅人がこの山中にて遭いたる不思議の出来事を書き 識 ( しる )すこと昔よりの 習 ( ならい )なり。 例えば、我は越後の者なるが、何月何日の夜、この 山路 ( やまみち )にて若き女の髪を 垂 ( た )れたるに逢えり。 こちらを見てにこと笑いたりという 類 ( たぐい )なり。 またこの所にて猿に 悪戯 ( いたずら )をせられたりとか、三人の盗賊に逢えりというようなる事をも 記 ( しる )せり。 死助 ( しすけ )の山にカッコ花あり。 遠野郷にても珍しという花なり。 五月 閑古鳥 ( かんこどり )の 啼 ( な )くころ、女や子どもこれを 採 ( と )りに山へ行く。 酢 ( す )の中に 漬 ( つ )けて置けば 紫色 ( むらさきいろ )になる。 酸漿 ( ほおずき )の 実 ( み )のように吹きて遊ぶなり。 この花を採ることは若き者の最も大なる遊楽なり。 山にはさまざまの鳥 住 ( す )めど、最も 寂 ( さび )しき声の鳥はオット鳥なり。 夏の 夜中 ( よなか )に 啼 ( な )く。 浜の 大槌 ( おおづち )より 駄賃附 ( だちんづけ )の者など峠を越え来たれば、 遥 ( はるか )に谷底にてその声を聞くといえり。 昔ある長者の娘あり。 またある長者の男の子と 親 ( した )しみ、山に行きて遊びしに、男見えずなりたり。 夕暮になり夜になるまで 探 ( さが )しあるきしが、これを見つくることをえずして、ついにこの鳥になりたりという。 オットーン、オットーンというは 夫 ( おっと )のことなり。 末の方かすれてあわれなる 鳴声 ( なきごえ )なり。 馬追鳥 ( うまおいどり )は 時鳥 ( ほととぎす )に似て 少 ( すこ )し大きく、 羽 ( はね )の色は赤に茶を 帯 ( お )び、肩には馬の 綱 ( つな )のようなる 縞 ( しま )あり。 胸のあたりにクツゴコ(口籠)のようなるかたあり。 これも 或 ( あ )る長者が家の奉公人、山へ馬を 放 ( はな )しに行き、家に帰らんとするに一匹不足せり。 夜通しこれを求めあるきしがついにこの鳥となる。 アーホー、アーホーと啼くはこの地方にて野におる馬を追う声なり。 年により馬追鳥 里 ( さと )にきて啼くことあるは 飢饉 ( ききん )の前兆なり。 深山には常に住みて啼く声を聞くなり。 郭公 ( かっこう )と 時鳥 ( ほととぎす )とは昔ありし 姉妹 ( あねいもと )なり。 郭公は姉なるがある時 芋 ( いも )を掘りて焼き、そのまわりの 堅 ( かた )きところを自ら食い、中の 軟 ( やわら )かなるところを妹に与えたりしを、妹は姉の食う 分 ( ぶん )は一層 旨 ( うま )かるべしと想いて、 庖丁 ( ほうちょう )にてその姉を殺せしに、たちまちに鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。 ガンコは方言にて堅いところということなり。 妹さてはよきところをのみおのれにくれしなりけりと思い、悔恨に堪えず、やがてまたこれも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりという。 遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。 盛岡 ( もりおか )辺にては時鳥はどちゃへ飛んでたと啼くという。 閉伊川 ( へいがわ )の 流 ( なが )れには 淵 ( ふち )多く恐ろしき伝説少なからず。 小国川との落合に近きところに、 川井 ( かわい )という村あり。 その村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、 斧 ( おの )を水中に 取 ( と )り 落 ( おと )したり。 主人の物なれば淵に入りてこれを 探 ( さぐ )りしに、水の底に入るままに物音聞ゆ。 これを求めて行くに岩の陰に家あり。 奥の方に美しき娘 機 ( はた )を織りていたり。 そのハタシに彼の斧は立てかけてありたり。 これを返したまわらんという時、振り返りたる女の顔を見れば、二三年前に身まかりたる我が主人の娘なり。 斧は返すべければ我がこの 所 ( ところ )にあることを人にいうな。 その礼としてはその方 身上 ( しんしょう ) 良 ( よ )くなり、奉公をせずともすむようにして 遣 ( や )らんといいたり。 そのためなるか否かは知らず、その後 胴引 ( どうびき )などいう 博奕 ( ばくち )に不思議に勝ち 続 ( つづ )けて 金溜 ( かねたま )り、ほどなく奉公をやめ家に引き込みて 中 ( ちゅう )ぐらいの農民になりたれど、この男は 疾 ( と )くに物忘れして、この娘のいいしことも心づかずしてありしに、或る日同じ淵の 辺 ( ほとり )を 過 ( す )ぎて町へ行くとて、ふと前の事を思い出し、 伴 ( とも )なえる者に以前かかることありきと語りしかば、やがてその 噂 ( うわさ )は近郷に伝わりぬ。 その頃より男は家産再び 傾 ( かたむ )き、また昔の主人に奉公して年を経たり。 家の主人は何と思いしにや、その淵に 何荷 ( なんが )ともなく熱湯を 注 ( そそ )ぎ入れなどしたりしが、何の効もなかりしとのことなり。 川には 川童 ( かっぱ )多く住めり。 猿ヶ石川ことに多し。 松崎村の 川端 ( かわばた )の 家 ( うち )にて、二代まで続けて川童の子を 孕 ( はら )みたる者あり。 生れし子は 斬 ( き )り 刻 ( きざ )みて 一升樽 ( いっしょうだる )に入れ、土中に 埋 ( うず )めたり。 その 形 ( かたち )きわめて醜怪なるものなりき。 女の 婿 ( むこ )の里は 新張 ( にいばり )村の何某とて、これも川端の家なり。 その主人 人 ( ひと )にその 始終 ( しじゅう )を語れり。 かの家の者一同ある日 畠 ( はたけ )に行きて夕方に帰らんとするに、女川の 汀 ( みぎわ )に 踞 ( うずくま )りてにこにこと笑いてあり。 次の日は 昼 ( ひる )の休みにまたこの事あり。 かくすること日を重ねたりしに、次第にその女のところへ村の何某という者 夜々 ( よるよる ) 通 ( かよ )うという 噂 ( うわさ )立ちたり。 始めには婿が浜の方へ 駄賃附 ( だちんづけ )に行きたる 留守 ( るす )をのみ 窺 ( うかが )いたりしが、のちには 婿 ( むこ )と 寝 ( ね )たる 夜 ( よる )さえくるようになれり。 川童なるべしという評判だんだん高くなりたれば、一族の者集まりてこれを守れどもなんの 甲斐 ( かい )もなく、婿の母も行きて娘の 側 ( かたわら )に 寝 ( ね )たりしに、深夜にその娘の笑う声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなわず、人々いかにともすべきようなかりき。 その産はきわめて難産なりしが、或る者のいうには、 馬槽 ( うまふね )に水をたたえその中にて 産 ( う )まば安く産まるべしとのことにて、これを試みたれば果してその通りなりき。 その子は手に 水掻 ( みずかき )あり。 この娘の母もまたかつて川童の子を産みしことありという。 二代や三代の因縁にはあらずという者もあり。 この家も 如法 ( にょほう )の豪家にて何の某という士族なり。 村会議員をしたることもあり。 上郷村の何某の家にても川童らしき物の子を 産 ( う )みたることあり。 確 ( たしか )なる証とてはなけれど、 身内 ( みうち ) 真赤 ( まっか )にして口大きく、まことにいやな子なりき。 忌 ( いま )わしければ 棄 ( す )てんとてこれを携えて道ちがえに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思い直し、惜しきものなり、売りて見せ物にせば金になるべきにとて立ち帰りたるに、早取り隠されて見えざりきという。 川の岸の 砂 ( すな )の上には川童の 足跡 ( あしあと )というものを見ること決して珍しからず。 雨の日の翌日などはことにこの事あり。 猿の足と同じく 親指 ( おやゆび )は離れて人間の手の 跡 ( あと )に似たり。 長さは三寸に足らず。 指先のあとは人ののように明らかには見えずという。 小烏瀬川 ( こがらせがわ )の 姥子淵 ( おばこふち )の辺に、 新屋 ( しんや )の 家 ( うち )という 家 ( いえ )あり。 ある日 淵 ( ふち )へ馬を 冷 ( ひや )しに行き、 馬曳 ( うまひき )の子は 外 ( ほか )へ遊びに行きし間に、川童出でてその馬を引き込まんとし、かえりて馬に引きずられて 厩 ( うまや )の前に来たり、 馬槽 ( うまふね )に 覆 ( おお )われてありき。 家のもの馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば川童の手出でたり。 村中のもの集まりて殺さんか 宥 ( ゆる )さんかと評議せしが、結局 今後 ( こんご )は村中の馬に 悪戯 ( いたずら )をせぬという堅き約束をさせてこれを放したり。 その川童今は村を去りて 相沢 ( あいざわ )の滝の淵に住めりという。 いやしくも川童のおるという国には必ずこの話あり。 何の故にか。 外 ( ほか )の地にては川童の顔は青しというようなれど、遠野の川童は 面 ( つら )の 色 ( いろ ) 赭 ( あか )きなり。 佐々木氏の 曾祖母 ( そうそぼ )、 穉 ( おさな )かりしころ友だちと庭にて遊びてありしに、三本ばかりある 胡桃 ( くるみ )の木の間より、 真赤 ( まっか )なる顔したる男の子の顔見えたり。 これは川童なりしとなり。 今もその胡桃大木にてあり。 この家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり。 和野 ( わの )村の 嘉兵衛爺 ( かへえじい )、 雉子小屋 ( きじごや )に入りて雉子を待ちしに 狐 ( きつね )しばしば出でて雉子を追う。 あまり 憎 ( にく )ければこれを撃たんと思い 狙 ( ねら )いたるに、狐は此方を向きて何ともなげなる顔してあり。 さて 引金 ( ひきがね )を引きたれども火 移 ( うつ )らず。 胸騒 ( むなさわ )ぎして銃を検せしに、 筒口 ( つつぐち )より 手元 ( てもと )のところまでいつのまにかことごとく土をつめてありたり。 同じ人六角牛に入りて白き 鹿 ( しか )に 逢 ( あ )えり。 白鹿 ( はくろく )は 神 ( かみ )なりという 言 ( い )い 伝 ( つた )えあれば、もし 傷 ( きず )つけて殺すこと 能 ( あた )わずば、必ず 祟 ( たたり )あるべしと 思案 ( しあん )せしが、 名誉 ( めいよ )の 猟人 ( かりうど )なれば 世間 ( せけん )の 嘲 ( あざけ )りをいとい、思い切りてこれを 撃 ( う )つに、 手応 ( てごた )えはあれども鹿少しも動かず。 この時もいたく 胸騒 ( むなさわ )ぎして、 平生 ( へいぜい ) 魔除 ( まよ )けとして 危急 ( ききゅう )の時のために用意したる 黄金 ( おうごん )の 丸 ( たま )を取り出し、これに 蓬 ( よもぎ )を巻きつけて打ち放したれど、鹿はなお動かず、あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。 数十年の間山中に 暮 ( くら )せる者が、石と鹿とを 見誤 ( みあやま )るべくもあらず、全く 魔障 ( ましょう )の 仕業 ( しわざ )なりけりと、この時ばかりは猟を 止 ( や )めばやと思いたりきという。 また同じ人、ある 夜 ( よ ) 山中 ( さんちゅう )にて 小屋 ( こや )を作るいとまなくて、とある大木の下に寄り、 魔除 ( まよ )けのサンズ 縄 ( なわ )をおのれと木のめぐりに 三囲 ( みめぐり )引きめぐらし、鉄砲を 竪 ( たて )に 抱 ( かか )えてまどろみたりしに、夜深く物音のするに心づけば、大なる 僧形 ( そうぎょう )の者赤き 衣 ( ころも )を 羽 ( はね )のように羽ばたきして、その木の梢に 蔽 ( おお )いかかりたり。 すわやと銃を打ち放せばやがてまた羽ばたきして 中空 ( なかぞら )を飛びかえりたり。 この時の恐ろしさも世の常ならず。 前後三たびまでかかる不思議に 遭 ( あ )い、そのたびごとに鉄砲を 止 ( や )めんと心に誓い、 氏神 ( うじがみ )に 願掛 ( がんが )けなどすれど、やがて再び思い返して、年取るまで 猟人 ( かりうど )の業を 棄 ( す )つること 能 ( あた )わずとよく人に語りたり。 小国 ( おぐに )の三浦某というは村一の 金持 ( かねもち )なり。 今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく 魯鈍 ( ろどん )なりき。 この妻ある日 門 ( かど )の 前 ( まえ )を流るる小さき川に沿いて 蕗 ( ふき )を 採 ( と )りに入りしに、よき物少なければ次第に谷奥深く登りたり。 さてふと見れば立派なる黒き 門 ( もん )の家あり。 訝 ( いぶか )しけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き 鶏 ( にわとり )多く遊べり。 その庭を 裏 ( うら )の方へ 廻 ( まわ )れば、牛小屋ありて牛多くおり、 馬舎 ( うまや )ありて馬多くおれども、一向に人はおらず。 ついに玄関より 上 ( あが )りたるに、その次の間には朱と黒との 膳椀 ( ぜんわん )をあまた取り出したり。 奥の座敷には 火鉢 ( ひばち )ありて 鉄瓶 ( てつびん )の湯のたぎれるを見たり。 されどもついに人影はなければ、もしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり、 駆 ( か )け 出 ( だ )して家に帰りたり。 この事を人に語れども 実 ( まこと )と思う者もなかりしが、また或る日わが家のカドに出でて物を洗いてありしに、川上より赤き椀一つ流れてきたり。 あまり美しければ拾い上げたれど、これを食器に用いたらば 汚 ( きたな )しと人に 叱 ( しか )られんかと思い、ケセネギツの中に置きてケセネを 量 ( はか )る 器 ( うつわ )となしたり。 しかるにこの器にて量り始めてより、いつまで 経 ( た )ちてもケセネ尽きず。 家の者もこれを怪しみて女に問いたるとき、始めて川より拾い上げし 由 ( よし )をば語りぬ。 この家はこれより幸運に向い、ついに今の三浦家となれり。 遠野にては山中の 不思議 ( ふしぎ )なる家をマヨイガという。 マヨイガに行き当りたる者は、必ずその家の内の 什器 ( じゅうき )家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。 その人に 授 ( さず )けんがためにかかる家をば見するなり。 女が無慾にて何ものをも盗み来ざりしが故に、この椀自ら流れて来たりしなるべしといえり。 キツはその穀物を 容 ( い )るる箱なり。 大小種々の キツあり。 金沢村 ( かねさわむら )は 白望 ( しろみ )の 麓 ( ふもと )、上閉伊郡の内にてもことに山奥にて、人の往来する者少なし。 六七年前この村より栃内村の山崎なる 某 ( なにがし )かかが家に娘の婿を取りたり。 この婿実家に行かんとして山路に迷い、またこのマヨイガに行き当りぬ。 家のありさま、牛馬 の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。 同じく玄関に入りしに、膳椀を取り出したる室あり。 座敷に 鉄瓶 ( てつびん )の湯たぎりて、今まさに茶を 煮 ( に )んとするところのように見え、どこか便所などのあたりに人が立ちてあるようにも思われたり。 茫然 ( ぼうぜん )として後にはだんだん恐ろしくなり、引き返してついに 小国 ( おぐに )の村里に出でたり。 小国にてはこの話を聞きて 実 ( まこと )とする者もなかりしが、山崎の方にてはそはマヨイガなるべし、行きて膳椀の類を持ち 来 ( き )たり長者にならんとて、 婿殿 ( むこどの )を先に立てて人あまたこれを求めに山の奥に入り、ここに門ありきというところに来たれども、眼にかかるものもなく 空 ( むな )しく帰り来たりぬ。 その婿もついに金持になりたりということを聞かず。 早池峯 ( はやちね )は 御影石 ( みかげいし )の山なり。 この山の小国に 向 ( む )きたる 側 ( かわ )に 安倍ヶ城 ( あべがじょう )という岩あり。 険 ( けわ )しき 崖 ( がけ )の中ほどにありて、人などはとても行きうべきところにあらず。 ここには今でも 安倍貞任 ( あべのさだとう )の母住めりと言い伝う。 雨 ( あめ )の 降 ( ふ )るべき夕方など、 岩屋 ( いわや )の 扉 ( とびら )を 鎖 ( とざ )す音聞ゆという。 小国、 附馬牛 ( つくもうし )の人々は、安倍ヶ城の 錠 ( じょう )の音がする、 明日 ( あす )は雨ならんなどいう。 同じ山の附馬牛よりの登り口にもまた 安倍屋敷 ( あべやしき )という巌窟あり。 とにかく早池峯は安倍貞任にゆかりある山なり。 小国より登る山口にも 八幡太郎 ( はちまんたろう )の 家来 ( けらい )の 討死 ( うちじに )したるを埋めたりという塚三つばかりあり。 安倍貞任に関する伝説はこのほかにも多し。 土淵村と昔は 橋野 ( はしの )といいし栗橋村との境にて、山口よりは二三里も登りたる山中に、広く 平 ( たいら )なる原あり。 そのあたりの地名に貞任というところあり。 沼ありて貞任が馬を 冷 ( ひや )せしところなりという。 貞任が 陣屋 ( じんや )を 構 ( かま )えし 址 ( あと )とも言い伝う。 景色 ( けしき )よきところにて東海岸よく見ゆ。 土淵村には安倍氏という家ありて貞任が末なりという。 昔は栄えたる家なり。 今も 屋敷 ( やしき )の周囲には堀ありて水を通ず。 刀剣馬具あまたあり。 当主は安倍 与右衛門 ( よえもん )、今も村にては二三等の 物持 ( ものも )ちにて、村会議員なり。 安倍の子孫はこのほかにも多し。 盛岡の 安倍館 ( あべだて )の附近にもあり。 厨川 ( くりやがわ )の 柵 ( しゃく )に近き家なり。 土淵村の安倍家の四五町北、 小烏瀬川 ( こがらせがわ )の 河隈 ( かわくま )に 館 ( たて )の址あり。 八幡沢 ( はちまんざ )の 館 ( たて )という。 八幡太郎が陣屋というものこれなり。 これより遠野の町への 路 ( みち )にはまた八幡山という山ありて、その山の八幡沢の館の方に向かえる峯にもまた一つの 館址 ( たてあと )あり。 貞任が陣屋なりという。 二つの館の間二十余町を隔つ。 矢戦 ( やいくさ )をしたりという言い伝えありて、矢の根を多く掘り出せしことあり。 この間に 似田貝 ( にたかい )という部落あり。 戦の当時このあたりは 蘆 ( あし )しげりて土 固 ( かた )まらず、ユキユキと動揺せり。 或る時八幡太郎ここを通りしに、 敵味方 ( てきみかた )いずれの 兵糧 ( ひょうりょう )にや、 粥 ( かゆ )を多く置きてあるを見て、これは 煮 ( に )た粥かといいしより村の名となる。 似田貝の村の外を流るる小川を 鳴川 ( なるかわ )という。 これを隔てて 足洗川村 ( あしらがむら )あり。 鳴川にて 義家 ( よしいえ )が足を洗いしより村の名となるという。 地形よく合えり。 西の国々にては ニタとも ヌタともいう皆これなり。 下閉伊郡小川村にも二田貝という字あり。 今の土淵村には 大同 ( だいどう )という家二軒あり。 山口の大同は当主を 大洞万之丞 ( おおほらまんのじょう )という。 この人の養母名はおひで、八十を 超 ( こ )えて今も達者なり。 佐々木氏の祖母の姉なり。 魔法に長じたり。 まじないにて蛇を殺し、木に 止 ( とま )れる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらいたり。 昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔あるところに貧しき百姓あり。 妻はなくて美しき娘あり。 また一匹の馬を養う。 娘この馬を愛して 夜 ( よる )になれば 厩舎 ( うまや )に行きて 寝 ( い )ね、ついに馬と夫婦になれり。 或る夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を 連 ( つ )れ出して桑の木につり下げて殺したり。 その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に 縋 ( すが )りて泣きいたりしを、父はこれを 悪 ( にく )みて斧をもって 後 ( うしろ )より馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に 昇 ( のぼ )り去れり。 オシラサマというはこの時より成りたる神なり。 馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。 その像三つありき。 本 ( もと )にて作りしは山口の大同にあり。 これを姉神とす。 中にて作りしは山崎の 在家権十郎 ( ざいけごんじゅうろう )という人の家にあり。 佐々木氏の伯母が縁づきたる家なるが、今は家絶えて神の 行方 ( ゆくえ )を知らず。 末 ( すえ )にて作りし妹神の像は 今 ( いま )附馬牛村にありといえり。 同じ人の話に、オクナイサマはオシラサマのある家には必ず伴ないて 在 ( いま )す神なり。 されどオシラサマはなくてオクナイサマのみある家もあり。 また家によりて神の像も同じからず。 山口の大同にあるオクナイサマは木像なり。 山口の 辷石 ( はねいし )たにえという人の家なるは 掛軸 ( かけじく )なり。 田圃 ( たんぼ )のうちにいませるはまた木像なり。 飯豊 ( いいで )の大同にもオシラサマはなけれどオクナイサマのみはいませりという。 この話をしたる老女は熱心なる念仏者なれど、世の常の念仏者とは 様 ( さま )かわり、一種邪宗らしき信仰あり。 信者に道を伝うることはあれども、互いに厳重なる秘密を守り、その 作法 ( さほう )につきては親にも子にもいささかたりとも知らしめず。 また寺とも僧とも少しも関係はなくて、 在家 ( ざいけ )の者のみの 集 ( あつ )まりなり。 その人の数も多からず。 辷石 ( はねいし )たにえという婦人などは同じ仲間なり。 阿弥陀仏 ( あみだぶつ )の 斎日 ( さいにち )には、夜中人の静まるを待ちて会合し、隠れたる室にて 祈祷 ( きとう )す。 魔法まじないを 善 ( よ )くする故に、郷党に対して一種の権威あり。 栃内 ( とちない )村の字 琴畑 ( ことばた )は深山の沢にあり。 家の数は五軒ばかり、 小烏瀬 ( こがらせ )川の支流の 水上 ( みなかみ )なり。 これより栃内の民居まで二里を 隔 ( へだ )つ。 琴畑の入口に塚あり。 塚の上には木の 座像 ( ざぞう )あり。 およそ人の大きさにて、以前は堂の中にありしが、今は 雨 ( あま )ざらしなり。 これをカクラサマという。 村の子供これを 玩物 ( もてあそびもの )にし、引き出して川へ投げ入れまた路上を引きずりなどする故に、今は鼻も口も見えぬようになれり。 或 ( ある )いは子供を 叱 ( しか )り戒めてこれを制止する者あれば、かえりて 祟 ( たたり )を受け病むことありといえり。 遠江小笠郡大池村東光寺の薬師仏(『掛川志』)、駿河安倍郡豊田村曲金の軍陣坊社の神(『新風土記』)、または信濃筑摩郡射手の 弥陀堂 ( みだどう )の木仏(『信濃奇勝録』)などこれなり。 カクラサマの木像は遠野郷のうちに 数多 ( あまた )あり。 栃内の字 西内 ( にしない )にもあり。 山口分の 大洞 ( おおほら )というところにもありしことを記憶する者あり。 カクラサマは人のこれを信仰する者なし。 粗末なる彫刻にて、 衣裳頭 ( いしょうかしら )の 飾 ( かざり )のありさまも不分明なり。 栃内のカクラサマは右の大小二つなり。 土淵一村にては三つか四つあり。 いずれのカクラサマも木の半身像にてなたの 荒削 ( あらけず )りの 無恰好 ( ぶかっこう )なるものなり。 されど人の顔なりということだけは 分 ( わ )かるなり。 カクラサマとは以前は神々の旅をして休息したもうべき場所の名なりしが、その地に 常 ( つね )います神をかく 唱 ( とな )うることとなれり。 離森 ( はなれもり )の長者屋敷にはこの数年前まで 燐寸 ( マッチ )の 軸木 ( じくぎ )の 工場 ( こうば )ありたり。 その小屋の戸口に 夜 ( よる )になれば女の伺い寄りて人を見てげたげたと笑う者ありて、淋しさに堪えざる故、ついに工場を大字山口に移したり。 その後また同じ山中に 枕木 ( まくらぎ ) 伐出 ( きりだ )しのために小屋をかけたる者ありしが、夕方になると人夫の者いずれへか迷い行き、帰りてのち 茫然 ( ぼうぜん )としてあることしばしばなり。 かかる人夫四五人もありてその後も絶えず 何方 ( いずかた )へか出でて行くことありき。 この者どもが後に言うを聞けば、女がきて 何処 ( どこ )へか連れだすなり。 帰りてのちは二日も三日も物を覚えずといえり。 長者屋敷は昔時長者の住みたりし 址 ( あと )なりとて、そのあたりにも 糠森 ( ぬかもり )という山あり。 長者の家の糠を捨てたるがなれるなりという。 この山中には 五 ( いつ )つ 葉 ( ば )のうつ 木 ( ぎ )ありて、その下に黄金を埋めてありとて、今もそのうつぎの 有処 ( ありか )を求めあるく者 稀々 ( まれまれ )にあり。 この長者は昔の金山師なりしならんか、このあたりには鉄を吹きたる 滓 ( かす )あり。 恩徳 ( おんどく )の 金山 ( きんざん )もこれより山続きにて遠からず。 また黄金埋蔵の伝説も諸国に限りなく多くあり。 山口の 田尻 ( たじり )長三郎というは土淵村一番の 物持 ( ものもち )なり。 当主なる老人の話に、この人四十あまりのころ、おひで老人の 息子 ( むすこ ) 亡 ( な )くなりて葬式の夜、人々念仏を終りおのおの帰り行きし 跡 ( あと )に、自分のみは 話好 ( はなしず )きなれば少しあとになりて立ち出でしに、軒の 雨落 ( あまお )ちの石を枕にして 仰臥 ( ぎょうが )したる男あり。 よく見れば見も知らぬ人にて死してあるようなり。 月のある夜なればその光にて見るに、 膝 ( ひざ )を立て口を開きてあり。 この人大胆者にて足にて 揺 ( うご )かして見たれど少しも身じろぎせず。 道を 妨 ( さまた )げて 外 ( ほか )にせん 方 ( かた )もなければ、ついにこれを 跨 ( また )ぎて家に帰りたり。 次の朝行きて見ればもちろんその 跡方 ( あとかた )もなく、また誰も 外 ( ほか )にこれを見たりという人はなかりしかど、その枕にしてありし石の形と 在 ( あ )りどころとは昨夜の 見覚 ( みおぼ )えの通りなり。 この人の曰く、手をかけて見たらばよかりしに、 半 ( なか )ば恐ろしければただ足にて 触 ( ふ )れたるのみなりし故、さらに何もののわざとも思いつかずと。 同じ人の話に、家に奉公せし山口の長蔵なる者、今も七十余の老翁にて生存す。 かつて夜遊びに出でて遅くかえり来たりしに、主人の家の門は 大槌 ( おおづち )往還に向いて立てるが、この門の前にて浜の方よりくる人に逢えり。 雪合羽 ( ゆきがっぱ )を着たり。 近づきて立ちとまる故、長蔵も怪しみてこれを見たるに、往還を隔てて向側なる畠地の方へすっと 反 ( そ )れて行きたり。 かしこには 垣根 ( かきね )ありしはずなるにと思いて、よく見れば垣根は 正 ( まさ )しくあり。 急に怖ろしくなりて家の内に飛び込み、主人にこの事を語りしが、のちになりて聞けば、これと同じ時刻に 新張村 ( にいばりむら )の何某という者、浜よりの帰り 途 ( みち )に馬より落ちて死したりとのことなり。 この長蔵の父をもまた長蔵という。 代々田尻家の奉公人にて、その妻とともに仕えてありき。 若きころ夜遊びに出で、まだ 宵 ( よい )のうちに帰り来たり、 門 ( かど )の 口 ( くち )より入りしに、 洞前 ( ほらまえ )に立てる人影あり。 懐手 ( ふところで )をして 筒袖 ( つつそで )の袖口を垂れ、顔は 茫 ( ぼう )としてよく見えず。 妻は名をおつねといえり。 おつねのところへ来たるヨバヒトではないかと思い、つかつかと近よりしに、奥の方へは 遁 ( に )げずして、かえって右手の玄関の方へ寄る故、人を馬鹿にするなと腹立たしくなりて、なお進みたるに、懐手のまま 後 ( あと )ずさりして玄関の戸の三寸ばかり明きたるところより、すっと内に 入 ( はい )りたり。 されど長蔵はなお不思議とも思わず、その戸の 隙 ( すき )に手を差し入れて中を探らんとせしに、中の 障子 ( しょうじ )は 正 ( まさ )しく 閉 ( とざ )してあり。 ここに始めて恐ろしくなり、少し引き下らんとして上を見れば、今の男玄関の 雲壁 ( くもかべ )にひたとつきて我を見下すごとく、その首は低く 垂 ( た )れてわが頭に触るるばかりにて、その眼の球は尺余も、抜け出でてあるように思われたりという。 この時はただ恐ろしかりしのみにて何事の前兆にてもあらざりき。 この家などそのよき例なり。 栃内の字 野崎 ( のざき )に前川万吉という人あり。 二三年前に三十余にて亡くなりたり。 この人も死ぬる二三年前に夜遊びに出でて帰りしに、 門 ( かど )の 口 ( くち )より 廻 ( まわ )り 縁 ( えん )に沿いてその 角 ( かど )まで来たるとき、六月の月夜のことなり、 何心 ( なにごころ )なく 雲壁 ( くもかべ )を見れば、ひたとこれにつきて寝たる男あり。 色の 蒼 ( あお )ざめたる顔なりき。 大いに驚きて病みたりしがこれも何の前兆にてもあらざりき。 田尻氏の息子丸吉この人と懇親にてこれを聞きたり。 これは田尻丸吉という人が自ら 遭 ( あ )いたることなり。 少年の頃ある夜 常居 ( じょうい )より立ちて便所に行かんとして茶の間に入りしに、 座敷 ( ざしき )との境に人立てり。 幽 ( かす )かに茫としてはあれど、衣類の 縞 ( しま )も眼鼻もよく見え、髪をば 垂 ( た )れたり。 恐ろしけれどそこへ手を延ばして探りしに、板戸にがたと突き当り、戸のさんにも 触 ( さわ )りたり。 されどわが手は見えずして、その上に影のように 重 ( かさ )なりて人の形あり。 その顔のところへ手を 遣 ( や )ればまた手の上に顔見ゆ。 常居 ( じょうい )に帰りて人々に話し、 行灯 ( あんどん )を持ち行きて見たれば、すでに何ものもあらざりき。 この人は近代的の人にて 怜悧 ( れいり )なる人なり。 また虚言をなす人にもあらず。 山口の大同、 大洞万之丞 ( おおほらまんのじょう )の家の建てざまは少しく 外 ( ほか )の家とはかわれり。 その図次のページに出す。 玄関は 巽 ( たつみ )の方に向かえり。 きわめて古き家なり。 この家には出して見れば 祟 ( たたり )ありとて開かざる古文書の 葛籠 ( つづら )一つあり。 佐々木氏の祖父は七十ばかりにて三四年前に亡くなりし人なり。 この人の青年のころといえば、 嘉永 ( かえい )の頃なるべきか。 海岸の地には西洋人あまた来住してありき。 釜石 ( かまいし )にも山田にも西洋館あり。 船越 ( ふなこし )の半島の突端にも西洋人の住みしことあり。 耶蘇 ( ヤソ )教は密々に行われ、遠野郷にてもこれを奉じて 磔 ( はりつけ )になりたる者あり。 浜に行きたる人の話に、異人はよく抱き合いては 嘗 ( な )め合う者なりなどいうことを、今でも話にする老人あり。 海岸地方には 合 ( あい )の 子 ( こ )なかなか多かりしということなり。 土淵村の 柏崎 ( かしわざき )にては両親とも 正 ( まさ )しく日本人にして 白子 ( しらこ )二人ある家あり。 髪も肌も眼も西洋人の通りなり。 今は二十六七ぐらいなるべし。 家にて農業を 営 ( いとな )む。 語音も土地の人とは同じからず、声細くして 鋭 ( するど )し。 土淵村の中央にて役場小学校などのあるところを字 本宿 ( もとじゅく )という。 此所に 豆腐屋 ( とうふや )を業とする政という者、今三十六七なるべし。 この人の父大病にて死なんとするころ、この村と 小烏瀬 ( こがらせ )川を隔てたる字 下栃内 ( しもとちない )に 普請 ( ふしん )ありて、地固めの 堂突 ( どうづき )をなすところへ、夕方に政の父ひとり来たりて人々に 挨拶 ( あいさつ )し、おれも堂突をなすべしとて暫時仲間に入りて仕事をなし、やや暗くなりて皆とともに帰りたり。 あとにて人々あの人は大病のはずなるにと少し不思議に思いしが、後に聞けばその日亡くなりたりとのことなり。 人々悔みに行き今日のことを語りしが、その時刻はあたかも病人が息を引き取らんとするころなりき。 人の名は忘れたれど、遠野の町の豪家にて、主人 大煩 ( おおわずら )いして命の境に臨みしころ、ある日ふと 菩提寺 ( ぼだいじ )に訪い来たれり。 和尚 ( おしょう ) 鄭重 ( ていちょう )にあしらい茶などすすめたり。 世間話 ( せけんばなし )をしてやがて帰らんとする様子に少々不審あれば、跡より小僧を見せに 遣 ( や )りしに、門を出でて家の方に向い、町の 角 ( かど )を廻りて見えずなれり。 その道にてこの人に逢いたる人まだほかにもあり。 誰にもよく挨拶して 常 ( つね )の 体 ( てい )なりしが、この晩に死去してもちろんその時は外出などすべき 様態 ( ようだい )にてはあらざりしなり。 後に寺にては茶は飲みたりや否やと茶椀を置きしところを改めしに、 畳 ( たたみ )の 敷合 ( しきあ )わせへ皆こぼしてありたり。 これも似たる話なり。 土淵村大字土淵の 常堅寺 ( じょうけんじ )は 曹洞宗 ( そうとうしゅう )にて、遠野郷十二ヶ寺の 触頭 ( ふれがしら )なり。 或る日の夕方に村人何某という者、 本宿 ( もとじゅく )より来る路にて何某という老人にあえり。 この老人はかねて大病をして居る者なれば、いつのまによくなりしやと問うに、二三日気分も 宜 ( よろ )しければ、今日は寺へ話を聞きに行くなりとて、寺の門前にてまた言葉を掛け合いて別れたり。 常堅寺にても和尚はこの老人が訪ね来たりし 故 ( ゆえ )出迎え、茶を進めしばらく話をして帰る。 これも小僧に見させたるに門の 外 ( そと )にて見えずなりしかば、驚きて和尚に語り、よく見ればまた茶は畳の間にこぼしてあり、老人はその日 失 ( う )せたり。 山口より柏崎へ行くには 愛宕山 ( あたごやま )の 裾 ( すそ )を 廻 ( まわ )るなり。 田圃 ( たんぼ )に続ける松林にて、柏崎の人家見ゆる辺より 雑木 ( ぞうき )の林となる。 愛宕山の 頂 ( いただき )には小さき 祠 ( ほこら )ありて、 参詣 ( さんけい )の路は林の中にあり。 登口 ( のぼりくち )に 鳥居 ( とりい )立ち、二三十本の杉の古木あり。 その 旁 ( かたわら )にはまた一つのがらんとしたる堂あり。 堂の前には山神の字を刻みたる石塔を立つ。 昔より山の神出づと言い伝うるところなり。 和野 ( わの )の何某という若者、柏崎に用事ありて夕方堂のあたりを通りしに、愛宕山の上より 降 ( くだ )り来る 丈 ( たけ )高き人あり。 誰ならんと思い林の樹木越しにその人の顔のところを目がけて歩み寄りしに、道の 角 ( かど )にてはたと行き逢いぬ。 先方は思い掛けざりしにや大いに驚きて此方を見たる顔は非常に赤く、眼は 耀 ( かがや )きてかついかにも驚きたる顔なり。 山の神なりと知りて 後 ( あと )をも見ずに柏崎の村に走りつきたり。 松崎村に 天狗森 ( てんぐもり )という山あり。 その麓なる 桑畠 ( くわばたけ )にて村の若者何某という者、働きていたりしに、 頻 ( しきり )に 睡 ( ねむ )くなりたれば、しばらく畠の 畔 ( くろ )に腰掛けて 居眠 ( いねむ )りせんとせしに、きわめて大なる男の顔は 真赤 ( まっか )なるが出で来たれり。 若者は気軽にて 平生 ( へいぜ ) 相撲 ( すもう )などの好きなる男なれば、この 見馴 ( みな )れぬ大男が立ちはだかりて上より見下すようなるを 面悪 ( つらにく )く思い、思わず立ち上りてお前はどこから来たかと問うに、何の答えもせざれば、一つ突き飛ばしてやらんと思い、 力自慢 ( ちからじまん )のまま飛びかかり手を掛けたりと思うや否や、かえりて自分の方が飛ばされて気を失いたり。 夕方に正気づきてみれば無論その大男はおらず。 家に帰りてのち人にこの事を話したり。 その秋のことなり。 早池峯の腰へ村人大勢とともに馬を 曳 ( ひ )きて 萩 ( はぎ )を苅りに行き、さて帰らんとするころになりてこの男のみ姿見えず。 一同驚きて尋ねたれば、深き谷の奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死していたりという。 今より二三十年前のことにて、この時の事をよく知れる老人今も存在せり。 天狗森には天狗多くいるということは昔より人の知るところなり。 遠野の町に山々の事に明るき人あり。 もとは南部 男爵 ( だんしゃく )家の 鷹匠 ( たかじょう )なり。 町の人 綽名 ( あだな )して 鳥御前 ( とりごぜん )という。 早池峯、六角牛の木や石や、すべてその形状と 在処 ( ありどころ )とを知れり。 年取りてのち 茸採 ( きのこと )りにとて一人の 連 ( つれ )とともに出でたり。 この連の男というは水練の名人にて、 藁 ( わら )と 槌 ( つち )とを持ちて水の中に入り、 草鞋 ( わらじ )を作りて出てくるという評判の人なり。 さて遠野の町と猿ヶ石川を隔つる 向山 ( むけえやま )という山より、 綾織 ( あやおり )村の 続石 ( つづきいし )とて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、両人別れ別れになり、鳥御前一人はまた少し山を登りしに、あたかも秋の空の日影、西の山の 端 ( は )より四五 間 ( けん )ばかりなる時刻なり。 ふと大なる岩の 陰 ( かげ )に 赭 ( あか )き顔の男と女とが立ちて何か話をして居るに 出逢 ( であ )いたり。 彼らは鳥御前の近づくを見て、手を 拡 ( ひろ )げて押し戻すようなる手つきをなし制止したれども、それにも 構 ( かま )わず行きたるに女は男の胸に 縋 ( すが )るようにしたり。 事のさまより真の人間にてはあるまじと思いながら、鳥御前はひょうきんな人なれば 戯 ( たわむ )れて 遣 ( や )らんとて腰なる 切刃 ( きりは )を抜き、打ちかかるようにしたれば、その色赭き男は足を 挙 ( あ )げて 蹴 ( け )りたるかと思いしが、たちまちに前後を知らず。 連なる男はこれを 探 ( さが )しまわりて谷底に気絶してあるを見つけ、介抱して家に帰りたれば、鳥御前は今日の一部始終を話し、かかる事は今までに更になきことなり。 おのれはこのために死ぬかも知れず、ほかの者には誰にもいうなと語り、三日ほどの間病みて身まかりたり。 家の者あまりにその死にようの不思議なればとて、 山臥 ( やまぶし )のケンコウ院というに相談せしに、その答えには、山の神たちの遊べるところを邪魔したる故、その 祟 ( たたり )をうけて死したるなりといえり。 この人は伊能先生なども 知合 ( しりあい )なりき。 今より十余年前の事なり。 昨年のことなり。 土淵村の里の子十四五人にて早池峯に遊びに行き、はからず夕方近くなりたれば、急ぎて山を下り 麓 ( ふもと )近くなるころ、 丈 ( たけ )の高き男の下より急ぎ足に昇りくるに逢えり。 色は黒く 眼 ( まなこ )はきらきらとして、肩には麻かと思わるる古き 浅葱色 ( あさぎいろ )の 風呂敷 ( ふろしき )にて小さき包を負いたり。 恐ろしかりしかども子供の中の一人、どこへ行くかと此方より声を掛けたるに、 小国 ( おぐに )さ行くと答う。 この路は小国へ越ゆべき方角にはあらざれば、立ちとまり不審するほどに、行き過ぐると思うまもなく、はや見えずなりたり。 山男よと口々に言いてみなみな遁げ帰りたりといえり。 これは和野の人菊池菊蔵という者、妻は笛吹峠のあなたなる橋野より来たる者なり。 この妻親里へ行きたる間に、糸蔵という五六歳の男の 児 ( こ )病気になりたれば、 昼過 ( ひるす )ぎより笛吹峠を越えて妻を連れに親里へ行きたり。 名に負う六角牛の峯続きなれば山路は樹深く、ことに遠野分より栗橋分へ下らんとするあたりは、路はウドになりて両方は 岨 ( そば )なり。 日影はこの岨に隠れてあたりやや薄暗くなりたるころ、後の方より菊蔵と呼ぶ者あるに振り返りて見れば、 崖 ( がけ )の上より下を 覗 ( のぞ )くものあり。 顔は赭く眼の光りかがやけること前の話のごとし。 お前の子はもう死んで居るぞという。 この言葉を聞きて恐ろしさよりも先にはっと思いたりしが、はやその姿は見えず。 急ぎ夜の中に妻を 伴 ( とも )ないて帰りたれば、果して子は死してありき。 四五年前のことなり。 東海道の諸国にて ウタウ坂・謡坂などいうはすべてかくのごとき小さき切通しのことならん。 この菊蔵、柏崎なる姉の家に用ありて行き、 振舞 ( ふるま )われたる残りの 餅 ( もち )を 懐 ( ふところ )に入れて、愛宕山の 麓 ( ふもと )の林を過ぎしに、 象坪 ( ぞうつぼ )の藤七という 大酒呑 ( おおざけのみ )にて彼と 仲善 ( なかよし )の友に行き逢えり。 そこは林の中なれど少しく 芝原 ( しばはら )あるところなり。 藤七はにこにことしてその芝原を 指 ( ゆびさ )し、ここで 相撲 ( すもう )を取らぬかという。 菊蔵これを諾し、二人草原にてしばらく遊びしが、この藤七いかにも弱く軽く自由に 抱 ( かか )えては投げらるる 故 ( ゆえ )、面白きままに三番まで取りたり。 藤七が曰く、今日はとてもかなわず、さあ行くべしとて別れたり。 四五 間 ( けん )も行きてのち心づきたるにかの餅見えず。 相撲場に戻りて探したれどなし。 始めて狐ならんかと思いたれど、外聞を恥じて人にもいわざりしが、四五日ののち酒屋にて藤七に逢いその話をせしに、おれは相撲など取るものか、その日は浜へ行きてありしものをと言いて、いよいよ狐と相撲を取りしこと露顕したり。 されど菊蔵はなお他の人々には包み隠してありしが、昨年の正月の休みに人々酒を飲み狐の話をせしとき、おれもじつはとこの話を白状し、大いに笑われたり。 象坪という地名のこと『 石神問答 ( いしがみもんどう )』の中にてこれを研究したり。 松崎の菊池某という今年四十三四の男、庭作りの 上手 ( じょうず )にて、山に入り草花を掘りてはわが庭に移し植え、形の面白き岩などは重きを 厭 ( いと )わず家に 担 ( にな )い帰るを常とせり。 或る日少し気分重ければ家を出でて山に遊びしに、今までついに見たることなき美しき大岩を見つけたり。 平生 ( へいぜい )の道楽なればこれを持ち帰らんと思い、持ち上げんとせしが非常に重し。 あたかも人の立ちたる形して 丈 ( たけ )もやがて人ほどあり。 されどほしさのあまりこれを負い、我慢して十間ばかり歩みしが、気の遠くなるくらい重ければ怪しみをなし、 路 ( みち )の 旁 ( かたわら )にこれを立て少しくもたれかかるようにしたるに、そのまま石とともにすっと空中に 昇 ( のぼ )り行く 心地 ( ここち )したり。 雲より上になりたるように思いしがじつに明るく清きところにて、あたりにいろいろの花咲き、しかも 何処 ( いずこ )ともなく大勢の人声聞えたり。 されど石はなおますます 昇 ( のぼ )り行き、ついには昇り切りたるか、何事も覚えぬようになりたり。 その後時過ぎて心づきたる時は、やはり以前のごとく不思議の石にもたれたるままにてありき。 この石を家の内へ持ち込みてはいかなることあらんも 測 ( はか )りがたしと、恐ろしくなりて遁げ帰りぬ。 この石は今も同じところにあり。 おりおりはこれを見て再びほしくなることありといえり。 遠野の町に 芳公馬鹿 ( よしこうばか )とて三十五六なる男、白痴にて一昨年まで生きてありき。 この男の癖は路上にて木の切れ 塵 ( ちり )などを拾い、これを 捻 ( ひね )りてつくづくと見つめまたはこれを 嗅 ( か )ぐことなり。 人の家に行きては柱などをこすりてその手を嗅ぎ、何ものにても眼の先きまで取り上げ、にこにことしておりおりこれを嗅ぐなり。 この男往来をあるきながら急に立ち 留 ( どま )り、石などを拾い上げてこれをあたりの人家に打ちつけ、けたたましく火事だ火事だと叫ぶことあり。 かくすればその晩か次の日か物を投げつけられたる家火を発せざることなし。 同じこと幾度となくあれば、のちにはその家々も注意して予防をなすといえども、ついに火事を 免 ( まぬか )れたる家は一軒もなしといえり。 飯豊 ( いいで )の菊池 松之丞 ( まつのじょう )という人 傷寒 ( しょうかん )を病み、たびたび息を引きつめし時、自分は田圃に出でて 菩提寺 ( ぼだいじ )なるキセイ院へ急ぎ行かんとす。 足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛び上り、およそ人の頭ほどのところを次第に 前下 ( まえさが )りに行き、また少し力を入るれば昇ること始めのごとし。 何とも言われず 快 ( こころよ )し。 寺の門に近づくに人群集せり。 何故 ( なにゆえ )ならんと 訝 ( いぶか )りつつ門を入れば、 紅 ( くれない )の 芥子 ( けし )の花咲き満ち、見渡すかぎりも知らず。 いよいよ心持よし。 この花の間に 亡 ( な )くなりし父立てり。 お前もきたのかという。 これに何か返事をしながらなお行くに、以前失いたる男の子おりて、トッチャお前もきたかという。 お前はここにいたのかと言いつつ近よらんとすれば、今きてはいけないという。 この時門の辺にて騒しくわが名を 喚 ( よ )ぶ者ありて、うるさきこと限りなけれど、よんどころなければ心も重くいやいやながら引き返したりと思えば正気づきたり。 親族の者寄り 集 ( つど )い水など打ちそそぎて 喚 ( よ )び 生 ( い )かしたるなり。 路の傍に山の神、田の神、 塞 ( さえ )の神の名を彫りたる石を立つるは常のことなり。 また早池峯山・六角牛山の名を刻したる石は、遠野郷にもあれど、それよりも浜にことに多し。 土淵村の助役北川清という人の家は字 火石 ( ひいし )にあり。 代々の 山臥 ( やまぶし )にて祖父は正福院といい、学者にて著作多く、村のために尽したる人なり。 清の弟に福二という人は海岸の田の浜へ 婿 ( むこ )に行きたるが、先年の 大海嘯 ( おおつなみ )に遭いて妻と子とを失い、生き残りたる二人の子とともに 元 ( もと )の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。 夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところにありて行く道も 浪 ( なみ )の打つ 渚 ( なぎさ )なり。 霧の 布 ( し )きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は 正 ( まさ )しく亡くなりしわが妻なり。 思わずその跡をつけて、 遥々 ( はるばる )と 船越 ( ふなこし )村の方へ行く崎の 洞 ( ほこら )あるところまで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑いたり。 男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。 自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。 今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は 可愛 ( かわい )くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。 死したる人と物いうとは思われずして、悲しく情なくなりたれば 足元 ( あしもと )を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち 退 ( の )きて、 小浦 ( おうら )へ行く道の 山陰 ( やまかげ )を 廻 ( めぐ )り見えずなりたり。 追いかけて見たりしがふと死したる者なりしと心づき、夜明けまで 道中 ( みちなか )に立ちて考え、朝になりて帰りたり。 その後久しく 煩 ( わずら )いたりといえり。 船越の漁夫何某。 ある日仲間の者とともに 吉利吉里 ( きりきり )より帰るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のあるところにて一人の女に逢う。 見ればわが妻なり。 されどもかかる夜中にひとりこの辺に 来 ( く )べき道理なければ、 必定 ( ひつじょう ) 化物 ( ばけもの )ならんと思い定め、やにわに 魚切庖丁 ( うおきりぼうちょう )を持ちて後の方より差し通したれば、悲しき声を立てて死したり。 しばらくの間は正体を現わさざれば 流石 ( さすが )に心に懸り、 後 ( あと )の事を 連 ( つれ )の者に頼み、おのれは馳せて家に帰りしに、妻は事もなく家に待ちてあり。 今恐ろしき夢を見たり。 あまり帰りの遅ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者に 脅 ( おびや )かされて、命を取らるると思いて目覚めたりという。 さてはと 合点 ( がてん )して再び以前の場所へ引き返してみれば、山にて殺したりし女は連の者が見ておる中についに一匹の 狐 ( きつね )となりたりといえり。 夢の野山を行くにこの獣の身を 傭 ( やと )うことありと見ゆ。 旅人 豊間根 ( とよまね )村を過ぎ、夜 更 ( ふ )け疲れたれば、 知音 ( ちいん )の者の家に灯火の見ゆるを 幸 ( さいわい )に、入りて休息せんとせしに、よき時に 来合 ( きあわ )せたり、今夕死人あり、 留守 ( るす )の者なくていかにせんかと思いしところなり、しばらくの間頼むといいて主人は人を 喚 ( よ )びに行きたり。 迷惑千万 ( めいわくせんばん )なる話なれど是非もなく、 囲炉裡 ( いろり )の側にて 煙草 ( タバコ )を吸いてありしに、死人は老女にて奥の方に寝させたるが、ふと見れば 床 ( とこ )の上にむくむくと起き直る。 胆潰 ( きもつぶ )れたれど心を 鎮 ( しず )め静かにあたりを 見廻 ( みまわ )すに、流し 元 ( もと )の水口の穴より狐のごとき物あり、 面 ( つら )をさし入れて 頻 ( しきり )に死人の方を見つめていたり。 さてこそと身を 潜 ( ひそ )め 窃 ( ひそ )かに家の外に出で、 背戸 ( せと )の方に廻りて見れば、正しく狐にて首を流し元の穴に入れ 後足 ( あとあし )を 爪立 ( つまた )てていたり。 有合 ( ありあ )わせたる棒をもてこれを打ち殺したり。 正月十五日の晩を 小正月 ( こしょうがつ )という。 宵 ( よい )のほどは子供ら福の神と称して四五人群を作り、袋を持ちて人の家に行き、 明 ( あけ )の方から福の神が舞い込んだと 唱 ( とな )えて餅を 貰 ( もら )う習慣あり。 宵を過ぐればこの晩に限り人々決して戸の外に出づることなし。 小正月の夜半過ぎは山の神出でて遊ぶと 言 ( い )い伝えてあればなり。 山口の字 丸古立 ( まるこだち )におまさという今三十五六の女、まだ十二三の年のことなり。 いかなるわけにてか唯一人にて福の神に出で、ところどころをあるきて遅くなり、 淋 ( さび )しき路を帰りしに、向うの方より 丈 ( たけ )の高き男来てすれちがいたり。 顔はすてきに赤く眼はかがやけり。 袋を捨てて遁げ帰り大いに煩いたりといえり。 小正月の夜、または小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でて遊ぶともいう。 童子をあまた引き連れてくるといえり。 里の子ども冬は近辺の丘に行き、 橇遊 ( そりっこあそ )びをして面白さのあまり夜になることあり。 十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるるは常のことなり。 されど雪女を見たりという者は少なし。 小正月の晩には行事 甚 ( はなは )だ多し。 月見 ( つきみ )というは六つの 胡桃 ( くるみ )の 実 ( み )を十二に割り 一時 ( いっとき )に 炉 ( ろ )の火にくべて一時にこれを引き上げ、一列にして右より正月二月と数うるに、満月の夜晴なるべき月にはいつまでも赤く、曇るべき月には 直 ( すぐ )に黒くなり、風ある月にはフーフーと音をたてて火が 振 ( ふる )うなり。 何遍繰り返しても同じことなり。 村中いずれの家にても同じ結果を得るは妙なり。 翌日はこの事を語り合い、例えば八月の十五夜風とあらば、その 歳 ( とし )の稲の 苅入 ( かりいれ )を急ぐなり。 陰陽道 ( おんようどう )に出でしものならん。 また 世中見 ( よなかみ )というは、同じく小正月の晩に、いろいろの米にて餅をこしらえて鏡となし、同種の米を 膳 ( ぜん )の上に 平 ( たい )らに敷き、 鏡餅 ( かがみもち )をその上に伏せ、 鍋 ( なべ )を 被 ( かぶ )せ置きて翌朝これを見るなり。 餅につきたる 米粒 ( こめつぶ )の多きものその年は豊作なりとして、早中晩の種類を択び定むるなり。 海岸の山田にては 蜃気楼 ( しんきろう )年々見ゆ。 常に外国の景色なりという。 見馴 ( みな )れぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往来眼ざましきばかりなり。 年ごとに家の形などいささかも違うことなしといえり。 上郷村に河ぷちのうちという家あり。 早瀬川の岸にあり。 この家の若き娘、ある日河原に出でて石を拾いてありしに、見馴れぬ男来たり、木の葉とか何とかを娘にくれたり。 丈 ( たけ )高く面 朱 ( しゅ )のようなる人なり。 娘はこの日より 占 ( うらない )の術を得たり。 異人は山の神にて、山の神の子になりたるなりといえり。 山の神の乗り移りたりとて占をなす人は所々にあり。 附馬牛 ( つくもうし )村にもあり。 本業は 木挽 ( こびき )なり。 柏崎の孫太郎もこれなり。 以前は発狂して喪心したりしに、ある日山に入りて山の神よりその術を得たりしのちは、不思議に人の心中を読むこと驚くばかりなり。 その占いの法は世間の者とは全く異なり。 何の書物をも見ず、頼みにきたる人と世間話をなし、その中にふと立ちて 常居 ( じょうい )の 中 ( なか )をあちこちとあるき出すと思うほどに、その人の顔は少しも見ずして心に浮びたることをいうなり。 当らずということなし。 例えばお前のウチの 板敷 ( いたじき )を取り離し、土を掘りて見よ。 古き鏡または刀の折れあるべし。 それを取り出さねば近き中に死人ありとか家が焼くるとかいうなり。 帰りて掘りて見るに必ずあり。 かかる例は指を屈するに 勝 ( た )えず。 盆のころには雨風祭とて 藁 ( わら )にて人よりも大なる 人形 ( にんぎょう )を作り、道の 岐 ( ちまた )に送り行きて立つ。 紙にて顔を 描 ( えが )き 瓜 ( うり )にて陰陽の形を作り添えなどす。 虫祭の藁人形にはかかることはなくその形も小さし。 雨風祭の折は一部落の中にて 頭屋 ( とうや )を 択 ( えら )び定め、 里人 ( さとびと )集まりて酒を飲みてのち、一同 笛太鼓 ( ふえたいこ )にてこれを道の辻まで送り行くなり。 笛の中には 桐 ( きり )の木にて作りたるホラなどあり。 これを高く吹く。 さてその折の歌は「二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭る、北の方さ祭る」という。 ともに玄武神の信仰より来たれるなるべし。 ゴンゲサマというは、 神楽舞 ( かぐらまい )の組ごとに一つずつ備われる 木彫 ( きぼり )の像にして、 獅子頭 ( ししがしら )とよく似て少しく 異 ( こと )なれり。 甚だ 御利生 ( ごりしょう )のあるものなり。 新張 ( にいばり )の八幡社の神楽組のゴンゲサマと、土淵村字 五日市 ( いつかいち )の神楽組のゴンゲサマと、かつて途中にて争いをなせしことあり。 新張のゴンゲサマ負けて 片耳 ( かたみみ )を失いたりとて今もなし。 毎年村々を舞いてあるく故、これを見知らぬ者なし。 ゴンゲサマの 霊験 ( れいげん )はことに 火伏 ( ひぶせ )にあり。 右の八幡の神楽組かつて附馬牛村に行きて 日暮 ( ひぐ )れ宿を取り兼ねしに、ある貧しき者の家にて 快 ( こころよ )くこれを 泊 ( と )めて、五升 桝 ( ます )を伏せてその上にゴンゲサマを 座 ( す )え置き、人々は 臥 ( ふ )したりしに、夜中にがつがつと物を 噛 ( か )む音のするに驚きて起きてみれば、 軒端 ( のきばた )に火の燃えつきてありしを、桝の上なるゴンゲサマ飛び上り飛び上りして火を 喰 ( く )い消してありしなりと。 子どもの頭を病む者など、よくゴンゲサマを頼み、その病を噛みてもらうことあり。 山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および 火渡 ( ひわたり )、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵に、ともにダンノハナという地名あり。 その近傍にこれと相対して必ず 蓮台野 ( れんだいの )という地あり。 昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追い遣るの 習 ( ならい )ありき。 老人はいたずらに死んで 了 ( しま )うこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を 糊 ( ぬら )したり。 そのために今も山口土淵辺にては 朝 ( あした )に野らに出づるをハカダチといい、夕方野らより帰ることをハカアガリというといえり。 すなわち丘の上にて塚を築きたる場所ならん。 境の神を祭るための塚なりと信ず。 蓮台野もこの類なるべきこと『石神問答』中にいえり。 ダンノハナは昔 館 ( たて )のありし時代に囚人を 斬 ( き )りし場所なるべしという。 地形は山口のも土淵飯豊のもほぼ同様にて、村境の岡の上なり。 仙台にもこの地名あり。 山口のダンノハナは 大洞 ( おおほら )へ越ゆる丘の上にて 館址 ( たてあと )よりの続きなり。 蓮台野はこれと山口の民居を隔てて相対す。 蓮台野の四方はすべて沢なり。 東はすなわちダンノハナとの間の低地、南の方を星谷という。 此所には 蝦夷屋敷 ( えぞやしき )という四角に 凹 ( へこ )みたるところ多くあり。 その 跡 ( あと )きわめて明白なり。 あまた石器を出す。 石器土器の出るところ山口に二ヶ所あり。 他の一は 小字 ( こあざ )をホウリョウという。 ここの土器と蓮台野の土器とは様式全然 殊 ( こと )なり。 後者のは技巧いささかもなく、ホウリョウのは 模様 ( もよう )なども 巧 ( たくみ )なり。 埴輪 ( はにわ )もここより出づ。 また石斧石刀の類も出づ。 蓮台野には 蝦夷銭 ( えぞせん )とて土にて銭の形をしたる径二寸ほどの物多く出づ。 これには単純なる 渦紋 ( うずもん )などの模様あり。 字ホウリョウには丸玉・ 管玉 ( くだたま )も出づ。 ここの石器は精巧にて石の質も一致したるに、蓮台野のは原料いろいろなり。 ホウリョウの方は何の跡ということもなく、狭き 一町歩 ( いっちょうぶ )ほどの場所なり。 星谷は底の 方 ( かた )今は田となれり。 蝦夷屋敷はこの両側に連なりてありしなりという。 このあたりに掘れば 祟 ( たたり )ありという場所二ヶ所ほどあり。 これも境の神を祀りしところにて地獄の ショウツカの 奪衣婆 ( だつえば )の話などと関係あること『石神問答』に 詳 ( つまびらか )にせり。 また象坪などの象頭神とも関係あれば象の伝説は 由 ( よし )なきにあらず、塚を森ということも東国の風なり。 山口のダンノハナは今は共同墓地なり。 岡の頂上にうつ木を 栽 ( う )えめぐらしその口は東方に向かいて 門口 ( もんぐち )めきたるところあり。 その中ほどに大なる青石あり。 かつて一たびその下を掘りたる者ありしが、何ものをも発見せず。 のち再びこれを試みし者は大なる 瓶 ( かめ )あるを見たり。 村の老人たち大いに 叱 ( しか )りければ、またもとのままになし置きたり。 館 ( たて )の主の墓なるべしという。 此所に近き館の名はボンシャサの館という。 いくつかの山を掘り割りて水を引き、三重四重に堀を取り 廻 ( めぐ )らせり。 寺屋敷・ 砥石森 ( といしもり )などいう地名あり。 井の跡とて 石垣 ( いしがき )残れり。 山口孫左衛門の祖先ここに住めりという。 『 遠野古事記 ( とおのこじき )』に 詳 ( つまびら )かなり。 御伽話 ( おとぎばなし )のことを 昔々 ( むかしむかし )という。 ヤマハハの話最も多くあり。 ヤマハハは 山姥 ( やまうば )のことなるべし。 その一つ二つを次に記すべし。 昔々あるところにトトとガガとあり。 娘を一人持てり。 娘を置きて町へ行くとて、誰がきても戸を明けるなと戒しめ、 鍵 ( かぎ )を掛けて出でたり。 娘は恐ろしければ一人炉にあたりすくみていたりしに、 真昼間 ( まひるま )に戸を叩きてここを開けと呼ぶ者あり。 開かずば 蹴破 ( けやぶ )るぞと 嚇 ( おど )す 故 ( ゆえ )に、是非なく戸を明けたれば入りきたるはヤマハハなり。 炉の 横座 ( よこざ )に 蹈 ( ふ )みはたかりて火にあたり、飯をたきて食わせよという。 その言葉に従い 膳 ( ぜん )を支度してヤマハハに食わせ、その間に家を遁げ出したるに、ヤマハハは飯を食い終りて娘を追い来たり、おいおいにその 間 ( あいだ )近く今にも 背 ( せな )に手の 触 ( ふ )るるばかりになりし時、山の 蔭 ( かげ )にて 柴 ( しば )を苅る翁に逢う。 おれはヤマハハにぼっかけられてあるなり、 隠 ( かく )してくれよと頼み、苅り置きたる柴の中に隠れたり。 ヤマハハ尋ね来たりて、どこに隠れたかと柴の 束 ( たば )をのけんとして柴を 抱 ( かか )えたるまま山より 滑 ( すべ )り落ちたり。 その 隙 ( ひま )にここを 遁 ( のが )れてまた 萱 ( かや )を苅る翁に逢う。 おれはヤマハハにぼっかけられてあるなり、隠してくれよと頼み、苅り置きたる萱の中に隠れたり。 ヤマハハはまた尋ね来たりて、どこに隠れたかと萱の束をのけんとして、萱を抱えたるまま山より滑り落ちたり。 その隙にまたここを遁れ出でて大きなる沼の岸に出でたり。 これよりは行くべき 方 ( かた )もなければ、沼の岸の大木の梢に 昇 ( のぼ )りいたり。 ヤマハハはどけえ行ったとて 遁 ( の )がすものかとて、沼の水に娘の影の 映 ( うつ )れるを見てすぐに沼の中に飛び入りたり。 この間に再び此所を走り出で、一つの 笹小屋 ( ささごや )のあるを見つけ、中に入りて見れば若き女いたり。 此にも同じことを告げて石の 唐櫃 ( からうど )のありし中へ隠してもらいたるところへ、ヤマハハまた飛び来たり娘のありかを問えども隠して知らずと答えたれば、いんね来ぬはずはない、人くさい香がするものという。 それは今 雀 ( すずめ )を 炙 ( あぶ )って食った 故 ( ゆえ )なるべしと言えば、ヤマハハも 納得 ( なっとく )してそんなら少し 寝 ( ね )ん、石のからうどの中にしようか、木のからうどの中がよいか、石はつめたし木のからうどの中にと言いて、木の唐櫃の中に入りて寝たり。 家の女はこれに 鍵 ( かぎ )を 下 ( おろ )し、娘を石のからうどより連れ出し、おれもヤマハハに連れて来られたる者なればともどもにこれを殺して里へ帰らんとて、 錐 ( きり )を 紅 ( あか )く焼きて木の唐櫃の中に差し通したるに、ヤマハハはかくとも知らず、ただ 二十日鼠 ( はつかねずみ )がきたと言えり。 それより湯を 煮立 ( にた )てて 焼錐 ( やききり )の穴より 注 ( そそ )ぎ込みて、ついにそのヤマハハを殺し二人ともに親々の家に帰りたり。 昔々の話の終りはいずれもコレデドンドハレという語をもって結ぶなり。 昔々これもあるところにトトとガガと、娘の嫁に行く支度を買いに町へ出で行くとて戸を 鎖 ( とざ )し、誰がきても明けるなよ、はアと答えたれば出でたり。 昼のころヤマハハ来たりて娘を取りて食い、娘の皮を 被 ( かぶ )り娘になりておる。 夕方二人の親帰りて、おりこひめこ居たかと門の口より呼べば、あ、いたます、早かったなしと答え、 二親 ( ふたおや )は買い来たりしいろいろの支度の物を見せて娘の 悦 ( よろこ )ぶ顔を見たり。 次の日 夜 ( よ )の明けたる時、家の鶏 羽 ( は )ばたきして、 糠屋 ( ぬかや )の 隅 ( すみ )ッ 子 ( こ )見ろじゃ、けけろと 啼 ( な )く。 はて 常 ( つね )に変りたる鶏の啼きようかなと 二親 ( ふたおや )は思いたり。 それより花嫁を送り出すとてヤマハハのおりこひめこを馬に載せ、今や引き出さんとするときまた鶏啼く。 その声は、おりこひめこを載せなえでヤマハハのせた、けけろと 聞 ( きこ )ゆ。 これを繰り返して歌いしかば、二親も始めて心づき、ヤマハハを馬より引き 下 ( おろ )して殺したり。 それより糠屋の隅を見に行きしに娘の骨あまた 有 ( あ )りたり。

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あつ森 効率のいい花の植え方まとめ|つー|note

あつ森 田の字植え

ふだんはあまり意識していない地名ですが、地名にはその土地の特徴や歴史があらわれています。 今回の特集では、郷土の歴史とともに歩んできた地名の由来をいくつか紹介します。 - 図表あり - 図表説明 地図 - 写真あり - 写真説明 『地図使用承認』C昭文社 第02E055号 1.浮島(浮島) 明治22年3月、船津村、西船津村、境村が合併して浮島村になりました。 この村の人たちは沼の恩恵を受けて生活してきたので、村名を浮島としたのでしょう。 この地では、水害のとき、植えた稲と一緒に表土が浮いて流れることがあり、これを浮島とも呼びました。 東海道が沼の近くを通った平安時代には、浮島沼の名状が献に登場し、歌や詩にうたわれるようになりました。 - 写真あり - 写真説明 東小学校南側 2.須津(すど) 明治22年3月、中里(なかざと)村、大坪新田(おおつぼしんでん)、川尻(かわじり)村、神谷(かみや)村、増川(ますかわ)村、江尾(えのお)村が合併して須津村が誕生しました。 須津の名は、愛鷹山から流れ出る土砂が浮島沼に流れ込み、この地が州(す)をなすところ(州処(すど))であったことに由来しているものと思われます。 鎌倉時代の文献には、須津庄(すどのしょう)として現在の漢字が登場しています。 - 写真あり - 写真説明 須津橋 3.元吉原(もとよしわら) 元吉原村は、明治22年3月、鈴川(すずかわ)村、今井(いまい)村、大野新田(おおのしんでん)、桧新田(ひのきしんでん)、田中新田(たなかしんでん)、沼田新田(ぬまたしんでん)、東・中・西柏原(かしわばら)新田が合併してできた村です。 江戸時代初めに、吉原宿が鈴川、今井にあったことから、元の吉原という意味で村名にしました。 また吉原の名は、この地がかつてヨシがたくさん生い茂っていた原であったことからついたものです。 - 写真あり - 写真説明 毘沙門天前 4.吉永(よしなが) 明治22年3月、比奈(ひな)村、富士岡(ふじおか)村(江戸時代は宗高(むねたか)村)、間門(まかど)村、鵜無ヶ渕(うないがぶち)村、石井(いしい)村、桑崎(かざき)村の六か村が合併し・ト吉永村になりました。 吉永という名は、天正2年(1574年)に武田勝頼から出された文書に、吉永郷と書かれていたので、古くからの地名であることがわかります。 地区には赫夜姫(かぐやひめ)という小字もあります。 - 写真あり - 写真説明 竹採公園 5.原田(はらだ) 原田とは、比較的平らな原野を開いて田をつくった土地という意味になります。 しかし、いつごろから原田と呼ばれたのか明らかではありません。 原田という地名が最初に文献に記されているのは、永明寺(ようめいじ)が所蔵している古文書の今川義元判物(はんもつ)で、永禄2年(1559年)」6月8日という日付があります。 - 写真あり - 写真説明 岳南鉄道原田駅前 6.鵜無ヶ渕(うないがぶち) 鵜無ヶ渕の歴史に詳しい鈴木伊三男(いさお)さん (鵜無ヶ渕) - 写真あり - 源頼朝にまつわる歴史に由来 鵜無ヶ渕の地名は、昔、源頼朝が富士の巻狩りのとき、この地で大きなふちを見かけ、家来に鵜(う)がいないかどうか見に行かせたところ、鵜がいなかったことから名づけられたと伝えられています。 特徴があり珍しい地名ですから、すぐに覚えてもらえていいですね。 近くには旧石器時代の遺跡もあり、このあたりにはかなり昔から人が住んでいたようです。 自然環境に恵まれているからでしょうか。 私も小さいころ仲間と一緒にアケビやシイの実などをよくとって食べたものです。 7.神戸(ごうど) 神戸はかんべとも読んで、神社に附属する農民という意味をあらわします。 神戸村は今宮(いまみや)村や一色(いっしき)村と同様、古くから今宮浅間神社の社領村でした。 そして天文16年(1547年)、今泉の東泉院の寺領村となってその支配を受けました。 - 写真あり - 写真説明 神戸小学校西側 8.大淵(おおぶち) 大淵という地名は、源頼朝が富士の巻狩りのとき、この付近で、馬のむちを探させたことから「むち」が「ぶち」になまったことからという説や、大きなふちがあったからという説があります。 大淵村は武田氏の家臣小山氏が、中野村は秋山氏が開拓した村だと言われています。 曽比奈(そびな)や三ツ倉(みつくら)はもっと古くから開拓されたようです。 - 写真あり - 写真説明 中野交差点 9.厚原(あつはら) 厚原村の成立は、鎌倉時代にまでさかのぼれそうです。 厚原の語源について、日本惣国(そうこく)風土記では、「撲原(たつはら)」と記しています。 一説では、撲原は厚木原とも書いて、それがいつか転じて厚原となったと言われています。 日蓮上人(にちれんしょうにん)は熱原と書いていました。 総じて古くは熱原と書かれていました。 - 写真あり - 写真説明 厚原スポーツ公園 10.鷹岡(たかおか) 鷹岡村は明治22年3月、厚原村、久沢村、入山瀬村、天間村の4か村が合併してできた村です。 鷹岡という村名にした理由は必ずしも明らかではありませんが、鎌倉時代にはすでにこの付近を鷹ヶ丘と呼んでいましたので、その鷹ヶ丘を鷹岡と書きかえて村の名にしたのかもしれません。 - 写真あり - 写真説明 鷹岡本町通り 11.天間(てんま) 天間村の産土神(うぶすなかみ)を天満宮と言いますが、村名の天間は天満宮の天満を書きかえたものと言われています。 そのため初めは、天間村を天満村と書いたようです。 天間沢遺跡に見られるように古くから人が住んでいました。 また、源頼朝の富士の巻狩りや、鷹岡・厚原と同様に曽我兄弟に関する史跡や伝承が残っています。 - 写真あり - 写真説明 天間天満宮 12.荒田島(あらたじま) 荒田島1町内会長 近藤幸男(ゆきお)さん(津田町) - 写真あり - 田島村から独立し、荒れ地を開墾したという意味で荒田島と呼んだようです。 荒田島村、津田村、青島村などが合併して島田村と呼んでいた時期もありました。 近くには外木(とのぎ)という大字もあります。 昔は水がきれいで、家の近くで手長エビやタニシをとってよく遊んだものです。 区画整理であたりの様子も大きく変わり、今では田んぼも少なくなり工場や家が多くなりましたね。 13.本市場(もといちば) 本市場3区区長 遠藤祐二さん(本市場町) - 写真あり - 本市場は、早くから開発された村で、古くから「市」が立ったところなので「本市場」と呼んだと言われています。 江戸時代には、吉原宿と蒲原宿との中間にある「間(あい)の宿」としてにぎわっていました。 歴史あるお寺も多いですね。 私の小さいころは旧東海道より北側には民家もほとんどなく、富・m山の眺めがすばらしかったですよ。 14.横割(よこわり) 上横割区区長 深澤俊夫さん(横割本町) - 写真あり - 横割という地名は、伊藤八左衛門(やざえもん)が、八幡神社の横から開発を始めたことから名づけられたと言われています。 また、富士駅南地区を小木(こぎ)の里とも言っています。 富士川の河川敷だったころ、この地に小さい木が生えていたことから、小木と呼ばれるようになったようです。 私の住んでいるところは区画整理で整備されましたが、昔からの横割の地名を残しました。 長く住んでいるだけにやっぱり愛着がありますね。 15.今泉(いまいずみ) 今泉村は源頼朝の富士の巻狩りのとき勢子(せこ)(動物を追い出す係)を多く出したことから勢子村と呼ばれたとされ、後に瀬古村と書かれました。 戦国時代末期になると善得寺(ぜんとくじ)村と呼ばれ、寛文2年(1662年)に今泉村と改名されました。 この付近に泉が多かったから今泉としたとも言われています。 - 写真あり - 写真説明 善得寺公園 16.伝法(でんぼう) 明治22年、瓜島(うりじま)村などの8か村が合併して伝法村が誕生しました。 伝法村はかなり古い時代からの村のようで、古くは久爾郷(くにのごう)と呼ばれていました。 しかし、いつごろからどういう理由で伝法と名づけられたのかはっきりわかっていません。 法照(ほうしょう)寺と関係があるのかもしれません。 - 写真あり - 写真説明 伝法小学校前 17.田子浦(たごのうら) 田子浦村は明治22年3月、前田村など8か村が合併してできた村です。 既に奈良時代からこの付近を田子浦と呼んでいました。 田子とは、田んぼで働く農民の呼び名とも、塩をつくるときの垂寵(たご)から田子になったものであろうという説もあります。 - 写真あり - 写真説明 田子の浦港 18.岩松(いわまつ) 岩松村は明治22年、岩本村と松岡村の合併のとき、その二つの頭文字を組んだのが由来です。 岩本村はかなり古くから開けた村で、戦国時代には交通の要地でした。 松岡村はもとは籠下(かごした)村と呼び、延宝2年(1674年)古郡氏がかりがね堤を完成して、堤の上に松を植えたことからその後は松岡と呼ぶようになったようです。 - 写真あり - 写真説明 かりがね堤 19.森島(もりじま) 江戸時代初期、古郡孫太夫(ふるごおりまごだゆう)重政が、かりがね堤の建設や加島新田の開発に情熱を傾けていたころのことです。 横割の伊藤八左衛門の家で世話になっていた高沢道喜(たかざわどうき)が、重政から許可を得て開発をしたのが森島でした。 初めは道喜島(どうきじま)と呼んでいましたが、後に幕府の命で、森島と改名されました。 - 写真あり - 写真説明 森島浅間神社 市内の地名 あれこれ 20.中里(なかざと)…須津庄(すどのしょう)の中心地であったことから。 21.比奈(ひな)…かつて姫名(ひな)郷と呼ばれていて、その音を表す言葉から、名づけられた。 22.和田(わだ)…源頼朝が行った富士の巻狩りのとき、和田義盛(よしもり)の家臣がここのとりでを守ってくれたという言い伝えがあることから。 23.御殿(ごてん)…徳川家康が鷹狩りのときに泊まった家があったという言い伝えから。 24.寺市場(てらいちば)…今川義元、武田信玄、北条氏康が会見した善得寺の門前町であったことから。 25.三ッ沢(みつざわ)…この地区を囲むように三つの沢があることから。 26.一色(いっしき)…自社または個人の所有地で国衙(こくが)(国の役所)の支配を受けず、税がとられない一色田(いっしきでん)となっていた土地であったことから。 27.石坂(いしざか)…ふじさんからの溶岩が露出した傾斜地であったことから。 28.瓜島(うりじま)…伝法瓜(西瓜)がよく実ったからという説がある。 29.加島(かじま)…島の集まりとも川の中の島だったからとも言われている。 30.柚木(ゆのき)1022年に大地震があり、柚の葉を全国に配ると地震がおさまり、その後、柚木村と呼ぶようになったという言い伝えがある。。 31.森下(もりした)…水神の森の下(南側)にあることから。 32.入山瀬(いりやませ)…富士山と岩本山の山あいから流れてくる水が、開けて瀬になっていたところから。 - 写真あり - 写真説明 古墳などの遺跡も残る三ツ沢 写真説明 身延線柚木駅周辺 市内の地名ミニ知識 大字(おおあざ)と小字(こあざ・jとは? 字(あざ)とは市町村内の区画の名前で、大字と小字があります。 小字は大字をさらに細かく分けた部分の名称です。 大字と小字が存在するのは、市制町村制が始まり、既に字がある市町村が合併したときに、合併前の市町村名が大字となり字が小字となったことが主な理由です。 地区と町内会(区)の数は? 現在市では、市内を吉原地区、今泉地区など24の地区に分けています。 また、町内会(区)は347あり、塔の木(とうのき)、国久(くにひさ)など小字が町内会(区)名となっているところも多くあります。 「富士」の字が記されたもので最も古いものは、平城京で発見された木簡(もっかん)に「富士郡」の名が記されています(天平7年、735年)。 古文書では、781年に桓武(かんむ)天皇の命によってつくられた「続日本紀(しょくにほんぎ)」に「富士山」の名が見られます。 また、「常陸国(ひたちのくに)風土記」では「福慈」と、「万葉集」では、「布士」、「布自」、「不尽」、「不二」、「不自」などと、「竹取物語」では「不死」とも書かれています。 平成12年、東名富士インターチェンジの南側に広がる古墳時代後期から奈良・平安時代までの大集落跡である東平(ひがしたいら)遺跡からは、「布自」と墨字で書かれた土器が出土しました。 これは富士市にとっては名前のルーツが初めて確認できたものとなります。 - 写真あり - 写真説明 発掘された「布自」名墨書土器 静岡県文化財保存協会常任理事 小野眞一さん(境) 地名はその土地の歴史を知るための大切な手がかりです - 写真あり - 市内の地名には、山、川、野や原など地形に関係するもののほか、動植物、岩石や地質に由来する地名も多く残っています。 昔、富士川は大雨が降るたびに流れが変わり、砂州(さす)がいくつもできました。 その名残で、五貫島(ごかんじま)、宮島(みやじま)、水戸島(みとじま)、中島(なかじま)など昔の富士川の下流域に当たるところでは、地名に「島」のつくところが多くあります。 川成島は、字のとおり川によってできた島であることがわかります。 集落に由来するものとしては、「新田」とついている地名は、江戸時代に開墾(かいこん)されたところです。 三軒屋、四軒屋、四ッ家などの地名は、その地で農業を始めた農家の数をあらわしています。 また、集落の中の位置や「主な道を境にして、上下や方角を地名につけることもよく見られます。 そのほか、伝説や昔話にまつわるもの、豪族や土地の持ち主の名前に由来するものもありますね。 考古学の世界では、遺跡が発掘されると、その地の小字を名前につけることが多くあります。 地名はその土地の歴史を知るための大切な手がかりです。 地名を読み解いていくといろいろな歴史がわかってくるものですよ。 学校に通っている皆さんにとっては、もうすぐ待ちに待った夏休み。 今回紹介した以外にも市内には多くの地名があります。 図書館に行ったり、家族や地域のお年寄に尋ねたりするなどして、私たちの住む街について調べてみてはいかがでしょうか。

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