デポルティボ。 柴崎所属デポルティボが3部降格決定…相手チーム12人コロナ感染でまさかの終幕

再開後負けなしデポルティボ、自動昇格圏のウエスカも撃破! 日本人対決は“入れ違い”

デポルティボ

概要 [ ] 1906年に設立されると、翌年にはクラブ名に「レアル」 Real の称号を冠することを認められた。 本拠地は3万4600人を収容するであり、1944年の建設以来使用されている。 伝統的に青と白の縦縞を用いたシャツを着用し、青色のパンツ、白色のソックスを着用する。 同じ内のとは長い間ライバル関係にあり、セルタとの対戦はとして知られている。 1928年にが始まって以来、2シーズンを除く全期間で(1部)または(2部)に在籍している。 リーガ・エスパニョーラのプリメーラ・ディビシオンにおいて、優勝(1999-2000シーズン)と5度の準優勝という成績を収めた経験がある。 そのほか、では優勝2度(1994-95シーズンと2001-02シーズン)、では優勝3度(1995年と2000年と2002年)の経験がある。 1990年代以降は(1部)に定着し、それらのシーズンの大半は順位表の上半分でシーズンを終えた。 には2000-01シーズンから5シーズン連続で出場し、2003-04シーズンには準決勝に進出した。 歴史 [ ] デポルティーボの選手達(1927年) 創設期 [ ] 1902年、イングランドに留学していたホセ・マリア・アバロという若者が帰郷し、地元の町にサッカーを紹介した。 サッカーはすぐに人気を博し、非公式のルールを採用するいくつかのクラブが形成された。 1906年12月、サラ・カルベット・ギムナジウムのメンバーが現在のデポルティーボ・ラ・コルーニャに相当するクラブを形成し、初代会長にはクラブを命名したルイス・コルニデが就任した。 1907年5月、がクラブにレアル(Real、王室の)の称号を授けた。 創設当初はコラル・デ・ラ・ガイテイラでプレーしていたが、すぐにリアソル浜の近くにあるオールド・リアソルに移った。 定期的に親善試合を行い、地元のリーグに所属してリーグ戦を戦っていたが、(スペイン国王杯)では成功を収めることはできなかった。 1920年、の際に各地の有力選手を集めたが成立した。 この頃のスペインではサッカー人口が順調に増加し、多くのプロクラブが誕生し、1929年に全国選手権()が開始された。 全国選手権開始後 [ ] デポルティーボは全国選手権創設年に(1部)の一員となることはできなかったが、(2部)に加わり、最初のシーズンを10クラブ中8位で終えた。 続くシーズンも同ディビジョンでプレーし、多くの構造上・地理上の変化を受けた。 1932年、デポルティーボはリーグ戦無敗のをコパ・デル・レイで破った。 1936年にはが始まり、リーグ戦は1939-40シーズンまで中止された。 デポルティーボはリーグ戦が再開されたシーズンにプリメーラ・ディビシオン昇格を争い、昇降格プレーオフの最終戦でローカルライバルのと戦った。 この試合はセルタが1-0で勝利してプリメーラ・ディビシオン残留を決め、デポルティーボのプリメーラ・ディビシオン初昇格はおあずけとなった。 1940-41シーズンにも昇降格プレーオフに進出し、を2-1で破ってクラブ史上初のプリメーラ・ディビシオン昇格を決めた。 プリメーラ・ディビシオン初昇格後 [ ] プリメーラ・ディビシオン昇格初年度の1941-42シーズンは4位であったが、続く数シーズンは9位、12位と成績を下げ、1944-45シーズンは14位でセグンダ・ディビシオン降格となった。 なお、1941年にプリメーラ・ディビシオンへの参戦が決まると、クラブは新本拠地であるの建設を決め、1944年10月28日のとのリーグ戦で使用を開始している。 1945年の降格からわずか1シーズンでプリメーラ・ディビシオンに復帰したが、1946-47シーズン終了後には再びセグンダ・ディビシオン降格、1947-48シーズンには再度1シーズンでプリメーラ・ディビシオン昇格と、所属ディビジョンがめまぐるしく変化した。 この時期の中心選手にはキーパーのなどがおり、彼は1942年から1951年までの期間に(最少失点率ゴールキーパー)を4度受賞した。 1948-49シーズンはプリメーラ・ディビシオンを10位で終えた。 の監督はフリオ・コルクエラ、オスワルド・ガルシア、ラファエル・フランコ、など南米出身選手を多数獲得し、1949-50シーズンはに勝ち点1差の2位に躍進した。 クラブは競争力を増し、1956-57シーズンまで9シーズン連続でトップリーグの地位を維持した。 この時代には監督や、地元出身の(1953年に短期間だけ在籍)などが登場して活躍した。 エレベータークラブ時代 [ ] 1957年に降格すると、1957-58シーズンからの5シーズンをセグンダ・ディビシオンで過ごし、1962年に再びトップリーグに昇格した。 1960年代から1970年前半のデポルティーボはプリメーラ・ディビシオンとセグンダ・ディビシオンの昇降格を繰り返し、エレベータークラブと揶揄された。 1962年・1964年・1966年・1968年・1971年には昇格、1963年・1965年・1967年・1970年・1973年には降格となり、ほぼ毎シーズン歓喜と悲哀を繰り返した。 なお、デポルティーボはスペインでの屈指の下部組織を有しており、この時代には、、、ハイメ・ブランコなどがトップチームデビューしている。 彼らは後にに選出されているが、クラブは財政難によりこれらの若手有望選手を売りに出さざるを得ず、トップリーグでの立場を堅固にすることができなかった。 1972-73シーズン終了後のセグンダ・ディビシオン降格によってエレベータークラブと揶揄された時代は終わりを告げた。 1970年代から1980年代の暗黒期 [ ] 1973年に降格すると、セグンダ・ディビシオンでもがき苦しみ、クラブ創設以来初の(当時3部)への降格は避けられなかった。 しかし、すぐに昇格を果たし、セグンダ・ディビシオンに定着した。 1979-80シーズンにはクラブ史上2度目の3部リーグ(、1977年創設)降格を経験したが、わずか1シーズンでセグンダ・ディビシオン昇格を果たしている。 なお、この降格と昇格は最大のライバルであると同時になされ、1980-81シーズンに彼らは()下で最多となる観客数を集めた。 その後は、プリメーラ・ディビシオンへの昇格争いに加わることなくセグンダ・ディビシオンでのプレーを続けた。 1987-88シーズンは最終節までセグンダ・ディビシオンB降格の可能性を残したが、最終節の戦ロスタイムにビセンテ・セレイロが得点してようやくセグンダ・ディビシオン残留を決めた。 この残留劇をもって暗黒期を抜け出し、クラブの新時代の幕開けとする向きもある。 暗黒期には財政難がクラブ運営に重くのしかかり、クラブ内部の問題から、ほとんど毎年のように監督が解任された。 1988年以降の盛り返しから黄金時代へ [ ] 1988年夏には弁護士で政治家であるが会長に就任した。 この時点で借金は600万ペセタまで積み重なり、15シーズンもプリメーラ・ディビシオンから遠ざかり、財政面やスポーツ面での問題からクラブ施設を建設することができなかったが、かつてデポルティーボで選手や監督として在籍したが再び監督に就任し、1988-89シーズンのコパ・デル・レイでは準決勝に進出した(に敗れた)。 1989-90シーズンはリーグ戦で快進撃を続け、昇格プレーオフに出場したが、に敗れて昇格は果たせなかった。 1990-91シーズンはリーグ戦を2位で終え、18年ぶりにプリメーラ・ディビシオン昇格を果たすと、クラブの財政状況は改善に向かい、特に若手グループからの社会的な支援が増加した。 久々のトップリーグ参戦となった1991-92シーズンは下位に低迷し、残留プレーオフを戦うことになったが、2試合のプレーオフでに勝利して残留を果たした。 イグレシアス監督は4期に渡ってデポルティーボの監督を務め、、、、、、など強豪クラブ在籍経験のあるベテラン選手たちと若手の(地元出身)、、(いずれもブラジル出身)らを組み合わせてチームレベルを引き上げた。 1992-93シーズンはシーズンを通じて上位につけ、最終的にレアル・マドリードとの2強に次ぐ3位となってクラブ史上初の欧州カップ戦()出場権を獲得した。 このシーズンにはベベットが得点王()のタイトルを獲得し、リアーニョがサモラ賞のタイトルを獲得した。 リアソールで行われたレアル・マドリード戦は前半を終えて0-2であったが、後半に3得点して逆転した。 レアル・マドリード相手に2009-10シーズンまで18シーズンも続いたリアソールでの不敗記録の始まりであった。 1993-94シーズン、リーグ戦ではシーズンを通じて首位を維持したまま最終節を迎えた。 中位に低迷していたバレンシアCFとの対戦となった最終節に勝利すれば自動的に優勝が決まるはずであったが、試合終了間際にがPKを外すなどして引き分けに終わり、FCバルセロナに逆転を許した。 なお、勝ち点1差から最終節に逆転したFCバルセロナは、バレンシアCFの選手に勝利ボーナスを提示したとして非難された。 リーグ戦初優勝は逃したものの、リアーニョは2シーズン連続でサモラ賞を受賞し、初めて出場した欧州カップ戦(UEFAカップ)ではやを倒してベスト16となったため、 サポーターは1993-94シーズンが記憶に残るシーズンであったと認識している [ ]。 1994-95シーズン開幕当初、イグレシアス監督は同シーズン終了後の退任を示唆していたが、2シーズン連続でリーグ戦2位という好成績を残した。 同シーズンのUEFAカップでは再びドイツのに敗北を喫したが、コパ・デル・レイでは快進撃を続けてクラブ史上初めて決勝に進出した。 で行われたバレンシアCFとの決勝は、1-1で迎えた83分に暴風雨の影響で中断され、3日後に83分から開始されることとなったが、この試合でがヘディングシュートを決めてクラブ初のメジャータイトルを獲得した。 1998年夏に監督が就任すると、チームはスペイン屈指の戦術家であるイルレタ監督によって徹底的に鍛え上げられ、1999-00シーズンには制覇を達成。 このシーズンのチームはのと、スペイン代表の、のなどが主力選手であり、FCバルセロナとバレンシアCFに勝ち点5差を付けて優勝した。 は人口約20万人程度の町であり、リーガを制したことのあるクラブの本拠地の中でもっとも人口の少ない町であった。 1992-93シーズンから2003-04シーズンまでの12シーズンの間に、リーグ戦で4度2位となり、さらに4度3位となった。 そしてには2000-01シーズンの初出場から5シーズン連続で出場し、2003-04シーズンには準決勝に到達した。 イングランドのや、イタリアのや、ドイツのなど、多くの強豪クラブがデポルティーボに敗れているが、特にユヴェントスFCとは短期間に頻繁に対戦して数々の名勝負を繰り広げ、対戦成績は3勝4分1敗と勝ち越している。 この黄金期のチームは「スーペル・デポル」 Super Depor と呼ばれた。 黄金時代の終焉から低迷期へ [ ] 2003-04シーズンに好成績を残したのを最後に国内外で不振を極め、チーム躍進の立役者であったイルレタ監督の退任とともに黄金期は終わりを迎えることになった。 この不振の理由としては、主力選手の高齢化、戦術・メンバーの固定化によるマンネリズムの蔓延、多額の負債を抱えて補強に資金を回せなくなったことなど、様々な理由が挙げられている。 UEFAカップでプレーするデポルティーボの選手たち(2008-09シーズン) 2005年夏には若手の育成に長けた監督を招聘してチームの建て直しを図った。 2005-06シーズンは好調な滑り出しを見せたが、、の怪我と共に失速していき、黄金期の輝きを取り戻すには至らなかった。 2006-07シーズンはさらに大胆なチーム編成に乗り出し、長年チームを支えた、、らベテランを放出してイルレタ監督時代の面影を一掃する一方で、有望な若手選手を数多く補強し、再びヨーロッパの舞台への返り咲きを目指したが、チームは大きく低迷。 2007年夏にはやアンドラーデなどの主力を放出し、2007-08シーズンは序盤戦で降格圏にまで低迷した。 しかし、2008年1月から5バックの守備と徹底したカウンターサッカーを導入すると得点力が増加し、FCバルセロナ戦を含めた5連勝などで中位まで上昇した。 2007-08シーズン後半戦にはリアソルで無敗記録を続け、2008-09シーズンの開幕戦でレアル・マドリードに勝利して記録を18まで伸ばした。 2010-11シーズンはリーグ最低の31得点に終わり、最終節のホームでのバレンシアCF戦に敗れ、20年ぶりのセグンダ・ディビシオンへの降格が決まった。 勝ち点43を獲得したが、これは過去の降格クラブの中で最高の勝ち点だった。 セグンダ・ディビシオンでの戦いとなった2011-12シーズンは圧倒的な強さで優勝し、1年でのプリメーラ・ディビシオンへの復帰となった。 しかしプリメーラ・ディビシオンとなった2012-13シーズンは19位となり、わずか1年でセグンダ・ディビシオンへの降格が決まったが、2013-14シーズンは2位となり、再び1年でのプリメーラ・ディビシオンへの復帰が決まった。 その後プリメーラの座を死守してきたものの、2017-18シーズン18位に終わり、またしてもセグンダに降格。 2018-19シーズンは昇格プレーオフに進出したもの、の前に屈した。 2019年7月、・を獲得したことで話題になった。 下部組織 [ ] 下部チームとしてデポルティーボ・ラ・コルーニャBがある。 1914年にファブリル・ソシエダ・デポルティーバという名称で設立され、1993年にデポルティーボ・ラ・コルーニャBに改名されたが、地元では現在でもファブリルと呼ばれることが多い。 1,500人収容のエスタディオ・シウダ・デポルティーバ・デ・アベゴンドを本拠地とする。 現在はセグンダ・ディビシオンBに在籍しているが、40シーズン以上をテルセーラ・ディビシオンで過ごしている。 ユニフォームと紋章 [ ] 公式の紋章にはSala Calvet Gymnasiumの旗を腰に巻きつけた騎士が描かれている。 中央の王冠はスペイン王室を表現し、斜めに走る青色の縦縞はガリシアのクラブの証(ガリシア州旗のデザイン)である。 1912年までの期間を除き、一貫して青色と白色の縦縞のユニフォームを着用していたが、19-20シーズンはサポーターフラッグをイメージした横縞である。 セカンドユニフォームとサードユニフォームの色はシーズンごとに変更される。 現在のスポンサーはエストレーリャ・ガリシア(ビール)である。 がユニフォームを製造している。 期間 ユニフォームサプライヤー 胸スポンサー 1990—1992 Rox Leyma 1992—1997 Feiraco 1997—2000 2000—2001 2001—2007 ホマ Fadesa 2007—2008 カンタベリー・オブ・ニュージーランド 2008—2009 エストレーリャ・ガリシア 2009—2017 2018—2020 タイトル [ ] 男子チーム [ ] 全国タイトル [ ]• 1 : 1999-00• 2 : 1994-95, 2001-02• 3 : 1995, 2000, 2002• 6 : 1939-40 1952-53 1961-62, 1963-64, 1965-66, 1967-68, 2011-12• 1 : 1974-75 地域タイトル [ ]• ガリシア州選手権 優勝 6 : 1926-27, 1927—28, 1930—31, 1932—33, 1936—37, 1939—40• ガリシア州選手権 準優勝 6 : 1924-25, 1925—26, 1929—30, 1931—32, 1933—34, 1938—39 国外タイトル [ ]• 1 : 2008 女性チーム [ ] すでに解散している• 5 : 1981, 1982, 1983, 1984, 1985 インドアフットボール [ ]• カンペオナート・ナシオナル・デ・リーガ・デ・フトボル・インドア 2 : 2007-08, 2009—10• コパ・デ・エスパーニャ・デ・フトボル・インドア 2 : 2007-08, 2009—10 統計 [ ]• 46シーズン (1部)• 40シーズン (2部)• 1シーズン (現3部、1977年創設)• 1シーズン (現4部、1977年まで3部)• 5回出場• 5回出場• 1回出場• 2回出場 近年の成績 [ ] シーズン リーグ 順位 試 勝 分 敗 得 失 点 欧州カップ その他 備考 監督 1985-86 2部 6 38 17 11 10 54 37 45 3回戦 1986-87 2部 2 34 16 11 7 46 33 43 3回戦 1987-88 2部 16 38 8 15 15 35 47 31 3回戦 1988-89 2部 10 38 16 8 14 43 35 40 ベスト4 1989-90 2部 4 38 19 6 13 45 38 44 1回戦 1990-91 2部 2 38 8 15 15 60 32 48 ベスト16 1部昇格 1991-92 1部 17 38 8 15 15 37 48 31 ベスト4 1992-93 1部 3 38 22 10 6 67 33 54 4回戦 1993-94 1部 2 38 22 12 4 54 18 56 ベスト 16 ベスト 16 1994-95 1部 2 38 20 11 7 68 42 51 優勝 ベスト 16 1995-96 1部 9 42 16 13 13 63 44 61 ベスト 16 ベスト4 1996-97 1部 3 42 21 14 7 57 30 77 ベスト 16 1997-98 1部 12 38 12 13 13 44 46 49 ベスト8 1回戦 1998-99 1部 6 38 17 12 9 55 43 63 ベスト4 1999-2000 1部 1 38 21 6 11 66 44 69 ベスト 16 ベスト 16 2000-01 1部 2 38 22 7 9 73 44 73 ベスト 32 ベスト8 2001-02 1部 2 38 20 8 10 65 41 68 優勝 ベスト8 2002-03 1部 3 38 22 6 10 67 47 72 ベスト4 2次リーグ 2003-04 1部 3 38 21 8 9 60 34 71 ベスト 16 ベスト4 2004-05 1部 8 38 12 15 11 46 50 51 ベスト 32 グループリーグ 2005-06 1部 8 38 15 10 13 47 45 55 ベスト4 準優勝 2006-07 1部 13 38 12 11 15 32 45 47 ベスト4 2007-08 1部 9 38 15 7 16 46 47 52 ベスト 32 2008-09 1部 7 38 16 10 12 48 47 58 ベスト 16 ベスト 32 優勝 2009-10 1部 10 38 13 8 17 35 49 47 ベスト8 2010-11 1部 18 38 10 13 15 31 47 43 ベスト8 2部降格 2011-12 2部 1 42 29 4 9 76 45 91 ベスト32 1部昇格 2012-13 1部 19 38 8 11 19 47 70 35 ベスト32 2部降格 2013-14 2部 2 42 19 12 11 48 36 69 ベスト32 1部昇格 2014-15 1部 16 38 7 14 17 35 60 35 ベスト32 2015-16 1部 15 38 8 18 12 45 61 42 ベスト16 2016-17 1部 16 38 8 12 18 43 61 36 ベスト16 2017-18 1部 18 38 6 11 21 38 76 29 ベスト32 2部降格 2018-19 2部 6 42 17 17 8 49 31 68 2回戦敗退 2019-20 2部 42 色 金 優勝 銀 準優勝 銅 3位(ベスト4) 桃 降格 現所属メンバー [ ] 2020年2月1日現在 No. Pos. 選手名 1 2 3 4 6 7 8 9 10 11 13 No. Pos. 選手名 14 15 16 17 19 20 21 22 23 24 25• 歴代監督 [ ] 2019年12月30日時点 名前 在任期間 不明 1906-1927 1927—1928 1928—1929 1929—1933 1933—1934 1933—1934 1933—1936 1939—1941 1941—1942 1941—1943 1943—1945 1945—1946 1946—1947 1947—1948 1948—1949 1948—1949 1949—1950 1950—1951 1951—1952 1952—1953 1952—1953 1952—1953 1952—1953 1953—1954 1954—1955 1955—1956 1955—1957 1956—1957 1957—1958 1957—1958 1958—1959 1958—1959 1959—1961 1961—1962 1962—1963 1962—1963 1963—1964 1964—1965 1964—1965 1964—1965 1965—1967 1966—1967 1967—1968 1968—1969 1970—1971 1970—1973 1973—1974 1973—1974 1973—1974 1974—1975 1975—1976 1975—1976 1976—1977 1976—1977 1976—1977 1976—1977 1977—1978 1978—1979 1978—1979 1979—1980 1979—1980 1980—1982 1981—1982 1982—1985 1985—1986 1986—1988 1988—1989 1989—1990 1990—1991 1991—1992 1991—1995 1995—1997 1996—1998 1997—1998 1998—2005 2005—2007 2007—2011 2011—2012 2012—2013 2013—2014 2014—2015 2015—2016 2016-2017 2017 2017-2018 2018 2018-2019 2019 2019 2019 2019- 歴代所属選手 [ ] 個人タイトル受賞者 [ ]• :(3人) 1992-1993 29得点 2001-2002 21得点 2002-2003 29得点• :(4人) 1941-1942 1942-1943 フアン・アクーニャ 1949-1950 フアン・アクーニャ 1950-1951 フアン・アクーニャ 1953-1954 1992-1993 (と同時受賞) 1993-1994 フランシスコ・リアーニョ 1996-1997• :(1人) 2002-2003 29得点、58ポイント 代表タイトル受賞者 [ ] デポルティーボ在籍経験がある代表タイトル受賞者を記載している• FIFAワールドカップ優勝者:(5人)• UEFA欧州選手権優勝者:(6人)• アフリカネイションズカップ優勝者:(2人) ジャック・ソンゴォ• 夏季オリンピック優勝者:(3人) 1992 1992 バルセロナオリンピック 2004 その他の選手 [ ] 詳細は「」を参照 GK [ ]• 1962-1963• 1976-1978• 1996-2002• 1996-2001, 2003-2004• 2000-2006• 2003-2009• 2006-2008. 2007-2011, 2015-2016• 2008-2013• 2016-2018 DF [ ]• 1990-1997• 1996-2004• 1998-2006• 1998-2016• 1999-2006• 2000-2007• 2002-2007• 2006-2007• 2006-2011• 2006-2012• 2008-2013• 2012-2014 MF [ ]• 1988—2005• 1992-2005• 1993-2003• 1997-2006• 1997-1999• 2000-2002• 2000-2007• 2000-2013• 2001-2010• 2002-2003, 2004-2006• 2005-2009• 2006-2009• 2006-2011• 2007-2009• 2007-2012• 2019- FW [ ]• 1995-1997• 1998-2000• 1999-2003• 2000-2005• 2000-2006• 2002-2005• 2006-2013• 2008• 2009-2012• 2019- 脚注 [ ].

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「我々は落ちてない!」「これは虚だ」前代未聞の3部降格にデポルティボが怒り!最終節のやり直しを訴え

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【写真:ムツ・カワモリ】 セグンダ・ディビシオン(スペイン2部)第40節のデポルティボ対エストレマドゥーラ戦が現地時間12日に行われ、アウェイのエストレマドゥーラが3-2で勝利を収めた。 デポルティボのMF柴崎岳は先発でフル出場している。 柴崎は出場停止明けから4試合連続の先発出場。 デポルティボは序盤に先制点を奪ったが後半に逆転され、88分に2-2の同点に追いつきながらも、最後はアディショナルタイムに3点目を奪われて2連敗を喫した。 スペイン紙『アス』では、0から3までの4段階評価で柴崎に対して「1」。 デポルティボの多くの選手に対して「0」がつけられた中では比較的悪くなかったという評価を受けた一人となっている。 地元紙『ラ・ボス・デ・ガリシア』では柴崎に10点満点で「3」の採点をつけた。 「中盤で押し込まれ、相手から楽にプレーさせてもらえた中でも試合のリズムを生み出せなかった」と評している。 『エル・デスマルケ』では10点満点で「4」とし、「最も冴えていた選手の一人ではあったが、それでも(自陣)エリア内への危険なパスで(GK)ダニ・ヒメネスを窮地に追い込みかけた」とミスを指摘。 クラブ専門メディア『リアソール. org』では「時折輝きは放ったが勝利をもたらすことはできなかった」と柴崎についてコメントしている。 【了】.

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柴崎岳所属のデポルティボ・バスケス監督 試合延期での降格決定を非難

デポルティボ

を率いるフェルナンド・バスケス監督が、試合をせずに2部B 実質3部 降格が決まったことについて不満を訴えた。 スペイン『ムンド・デポルティボ』が伝えている。 MFの所属する19位デポルティボは20日、自力での残留の可能性がない中で最終節フエンラブラダ戦に臨む予定だった。 しかし、相手選手7人に新型コロナウイルスの陽性反応が出たことで、キックオフ直前に同試合のみの延期が決定。 残留を争っていたアルバセテとルーゴがいずれも勝利を収めたため、デポルティボの降格圏内19位以下が確定した。 バスケス監督は「我々は非常にダメージを受けていると感じている。 これは不純物だ」と今回の決定を非難している。 「ルーゴとアルバセテは、我々のスコアのプレッシャーを受けることなく、アドバンテージを持ってプレーしている。 仮に我々が5分でリードしていたら、それがアルバセテのゲームに影響しないといえるだろうか? 」 「エルチェがプレーしていることも理解できない。 新型コロナウイルスの 検査結果は3、4日かかることがある。 エルチェは 2、3日前にフエンラブラダと対戦していた」 指揮官はデポルティボの試合だけを延期とした措置は正当性を欠くと主張。 「リーガ、連盟、CSD スペインスポーツ局 からの通知を理解することはできない。 選手を守るためだと言っているが、エルチェは試合を行っている。 それは虚だ」と述べた。 また、クラブは同日に公式サイト上で試合延期に関する声明を発表。 不利益を被ったとして、法的処置も検討していると表明した。

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